坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

ドラゴンボールを考える②~悟空はギニューに10倍界王拳を使っていない

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日本型ファンタジーの誕生⑥~ドラゴンボールを考える① - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、『DB』は悟空がピッコロと天下一武道会で戦う時まで、実にゆったりとストーリーが進行する。 孫悟空を中心とした、読んでいて読者が安心できるストーリーである。

 鳥山明の天才的なところは、「サイヤ人編」でそれまでのゆったりとした世界観を棄てたことである。

 悟空より強いサイヤ人が現れ、さらにサイヤ人をはるかに上回る強さのフリーザが登場する。

 この展開に読者が熱中するのは、それまでのゆったりした世界観が失われたからである。

読者は元の安心して読める世界観を取り戻したいと思い、『DB』にのめり込む。その結果、『DB』は日本を越えて世界的なヒット作になった。また死にかけ→復活→パワーアップというスタイルや「強さの数値化」も多くのマンガに踏襲され、「強さのインフレ」が起こるマンガが溢れるようになった。


 しかも、「フリーザ編」は三つ巴戦である。『宝島』が面白いのが三つ巴戦だからであるように、「フリーザ編」が面白いのもそれだからである。 ベジータ、悟飯、クリリンが次第に力をつけていき、遅れて到着する悟空と力を合わせてフリーザを倒す。と連載当時の読者の多くは想像したことだろう。 しかし詳細に見ていくと、鳥山の構想と読者の予想の間にズレがあるのがわかってくる。 


宇宙船での七日間の旅の間に、100倍の重力で修行した悟空は、「これなら10倍くらいの界王拳にも耐えられる」と豪語する。そしてその修行の成果でギニュー特戦隊を圧倒する。 

悟空はギニューと戦うが、わずかにギニューの方が強い。

そこで悟空は界王拳を使う。その時の戦闘力が18万である。ギニューの戦闘力は12万で、ギニューは悟空の戦闘力に驚愕する。

 読者はここで、悟空が10倍界王拳を使ったと思う。 しかし本当は、悟空は10倍界王拳を使っていない。

 ギニューの推測では、悟空の戦闘力は6万から8万5千である。ならば10倍界王拳を使えば、60万から85万になるはずである。しかしそうなっていない。

 もちろんギニュー相手に10倍界王拳を使う必要はない。2~3倍で充分である。そして2~3倍の界王拳を使ったとすれば、大体計算が合う。

 「ならば10倍界王拳を使えて、その時は2~3倍に押さえたんじゃないか?」 と思う人もいるだろうがそうではない。

なぜなら10倍界王拳を使えるなら、界王拳で戦闘力を上げた後、 「瞬間的に出せるパワーはまだまだこんなもんじゃねえ」 と悟空が言う必要がないからである。


 ナメック星に到着した後、悟空は5000程度の戦闘力から瞬間的に大幅に戦闘力を上げてギニュー特戦隊と戦った。これは話を盛り上げるためだけではなく、ギニュー戦の伏線になっている。 

5000から大幅に戦闘力を上げられるのだから、18万から60万、85万まで戦闘力を上げてもおかしくない。

 しかし悟空に界王拳を使うのは、ギニューに力の差を見せつけて戦闘を回避するためである。力を出し惜しみする必然性がない。 

また体力の消耗を避けるためといっても、60万以上の戦闘力があれば、一撃で決着をつけられる。やはり消耗を避ける必然性は薄い。

 「10倍くらいの界王拳に耐えられる」というのは、鳥山のフカシである。


 悟空が10倍界王拳を使っていない証拠はもうひとつある。 ベジータは悟空の戦闘力に驚く。

しかし本当はこの時点で、ベジータの方が戦闘力は上なのである。 なぜならこの後、ベジータフリーザの攻撃をしのいでいる。

 『DB改』では、フリーザと戦った時の戦闘力は25万である。第一形態のフリーザの戦闘力が53万だから、フリーザが本気でなかったとして、フリーザの半分の戦闘力がないとしのげないから、ベジータの25万は妥当である。ただリクーム戦の時のベジータの戦闘力が3万程度だから、インフレ率8倍になってしまうが。

 界王拳を使った悟空の戦闘力が18万だから、「瞬間的に出せるパワー」を60万とかでなく、5、6万程度の自然な上乗せと考えると、ベジータとほぼ互角になる。その場合、3~4倍の界王拳となる。

 ベジータは、悟空が界王拳の倍率を少し上げたくらいなら、死にかけ→復活で互角に戦えるくらいの天才なのである。

サ…サイヤ人の戦闘レベルをあきらかにこ…超えている…ち…地球で戦ったあ…あいつとはまるで別人だ…

 

と、ベジータは悟空の戦闘力に驚いているが、ベジータの性格上、大幅なパワーアップをしたとしても格下相手に驚愕することはない。

だからベジータが驚くのはおかしいのだが、このようにした理由は、悟空を『DB』の世界観の中心に戻すためである。『宝島』のような三つ巴でフリーザに勝っても、『DB』の世界観は悟空が最強でない限り戻らない。

しかしベジータも、『DB』の世界観を危機に陥れるために生まれた、悟空を上回る天才戦士なのである。この設定を簡単に崩すわけにはいかない。

そこで性格的に無理のあるベジータの驚愕と、ナメック星でのみ発揮したベジータの目的合理主義精神で敵前逃亡させ、ベジータを格下に見せた。 

10倍界王拳は、ベジータが死にかけ→復活したくらいでは追い付けないレベルのパワーアップである。(例えベジータがインフレ率8倍のパワーアップをしたとしても)しかしフリーザはそれをさらに上回る。超サイヤ人はそのフリーザに勝つために生まれたアイディアである。


 ベジータが悟空以上の天才戦士という設定は、「人造人間編」の途中まで生きていた。

 「やっとカカロットを超えサイヤ人の王子に戻る時が来たんだ…」 という、超サイヤ人になったベジータのセリフと、「いまのベジータに勝てねえんならおらにも勝てねえから」という悟空のセリフは、ベジータの方が実力が上という認識を両者が共有していたことを暗示している

 基本戦闘力で悟空がベジータを上回るのは、精神と時の部屋に入ってからである。ここはトレーニング法の合理化として、素質の問題でないことにした。ただ悟空がこれ以上強くなるとまずいので、悟空を死なせた。悟空を死なせた理由はもうひとつあるが、それはまた後に述べよう。

 さらに連載が進むと悟空を再登場させなければならなくなり、その時に悟空はベジータ以上の天才戦士になった。『DB』は悟空が世界観の中心である以上、悟空と互角以上のライバルを作れないのである。しかし『DB超』は悟空を世界観の中心から外すことで、ベジータを悟空のすぐ後の行くライバルにすることに成功した。 

フリーザ編」の面白さは、『宝島』のような面白さに見せて、『ターミネーター』の要素が混ざっていることである。

 圧倒的な強さを持った敵がいて、見つかったら勝てないので隠れる。敵に見つかって追われる。勝てないから敵に譲歩して戦闘を回避したり、それでも逃げられなくなって破れかぶれになって戦うと案外戦えたりする。

 ターミネーターから逃げるように敵から逃げながら、悟飯、クリリンベジータは少しずつ力をつけていく。そしてフリーザと戦えそうだと読者がが思い始めたところでインフレが起こり突き放す。

フリーザは、初登場の時点で読者は10万くらいの戦闘力だと想像していたはずである。それが戦闘力が公表されると53万、さらにその後、三段階の変身をすることがわかる。

 こうしてフリーザと戦う悟空の戦闘力は、『ジャンプ』の公式発表で(あくまで鳥山のではない)9万から300万と33倍以上のインフレとなり、10倍界王拳で3000万、超サイヤ人になって1億5000万と、マンガ史上最大のインフレ率となった。

 一方、鳥山はデフレも行うのである。 『復活のF』で復活したフリーザが、「四ヶ月もトレーニングすれば戦闘力を140万まで持っていける」というが観客はこれを第一形態が三倍近くになると考える。

 しかし本当は「最終形態のフリーザの戦闘力が140万になる」と言っているのである。少なくとも鳥山は、そう観客が騙されてくれることを望んでいる。 

もちろん騙されている人は一人もおらず、鳥山もわかってやっているのだが、鳥山がデフレをやる理由は、インフレが激しすぎてパワーアップが想像できないものになるのを防いでいるのである。

 「強さのインフレ」「強さの数値化」を導入したマンガ家は多数いるが、どれだけヒットしたかに関わらず、インフレを面白さにするのに成功したのは鳥山だけである。

 なぜなら数字は人を冷静にする。冷静な思考の迎える終幕は予定調和である。計算しない鳥山だけが、数字で読者を熱狂させることができた。


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殺人事件の傾向が変化している

9月から、毎日数回殺人事件をネットで調べていた。
私はいずれ、日本の犯罪発生率が挙がると思っている。それで毎日検索していたのだが、殺人事件がしょっちゅう起こってはいても、殺人事件が増えているという印象までは持たなかった。殺人件数までは調べていない。
それでもいくつかの傾向はあった。
北海道旭川市での、父親と祖父母の三人を殺害した事件、千葉県酒々井市の姉が弟を殺害した事件、栃木県佐野市の息子が母を殺し、父親がその息子を殺した事件などの尊属殺が目につく。
もっとも尊属殺は、

尊属殺重罰規定の廃止が尊属殺を増加させたとはいえない - 誰かの妄想・はてな版

にあるように増加する傾向にあり、未だに格別に増えたとは言える段階にない。
しかし注目すべきは、その年齢である。佐野では母を殺した息子は43歳、旭川の犯人は32歳、酒々井の犯人は25歳である。埼玉県熊谷市の弟が兄を殺した事件は、犯人は30代である。
子殺しを覗けば、尊属殺は青少年が起こすものだったと思う。
しかし尊属殺の年齢が引き上がっているのは、尊属殺がその要因と、加害者の未熟さによって引き起こされているという判断が崩れ、殺人要因が年を取っても変化せず、加齢が加害者を成熟させていない可能性を示している。しかも被害者の年齢が高い。ただ、中には明らかな介護疲れによる殺人もあり、その場合は別に考える必要がある。
と思っていたら、日本の殺人事件の半数が尊属殺というデータも出てきた。

日本で殺人事件のおよそ半分は家族間殺人 家族の形の変化と意識のギャップが一因か - (1/4)|ニフティニュース

次に、無差別、複数の犠牲者が出る殺人事件が増えていることである。
そういう殺人といえば、相模原の植松聖が思い浮かぶが、植松の場合は障害者を差別した殺人だった。
植松は一部でヒーロー扱いされているが、差別の拡大の懸念があっても、差別による殺人には発展していないようである。
しかしその後また相模原で三人が死傷する殺人事件が起こり、愛知県豊田市でも一人が刃物で切りつけられ、その後コンビニで女性三人が殴られる事件が起こっている。
女性三人が殴られたのは、犯人が刃物を持っていなかったからなのか、刃物を使いたくなかったからなのかはわからない。犯人は刃物で切りつけられた男と口論したというが、刃物を持って歩いている時点で異様であり、元々無差別に人を殺そうとして外に出たが、いざとなって殺せなくて女性を殴ったとも考えられる。
もしそうなら、2008年の秋葉原の殺人事件と同じである。「誰でもいいから殺したかった」という動機殺人を犯していることになる。
そして、高齢者狙いと複数の殺人が結びついたのが横浜の大口病院の殺人事件と考えられる。ただし大口病院の事件が、介護疲れが動機なのか、尊属殺のような親や祖父母への反発による殺人が転換したのかは判断がつかない。現時点では尊属殺の延長と考えるのは勇み足の感があるが、大口病院殺人事件は迷宮入りとなる気配があり、真相究明は絶望的だろう。

今後も、犯罪の動向について見ていきたいと思う。

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日本型ファンタジーの誕生⑥~ドラゴンボールを考える①

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ドラゴンボール』(以下『DB』)は最初は盗賊や世界征服を企む集団などを敵としていくが、長期化するにつれて物足りなさを感じてきたところで、ピッコロ大魔王が登場する。 

ピッコロは世界の王となった後、「犯罪をするのも自由」とする。 世界征服とは税収を目的とするものであり、税を徴収するには秩序を必要とする。ピッコロの論理は矛盾している。

 同様のことがフリーザについてもいえる。 フリーザは宇宙の帝王だが、バブル時代の地上げ屋のイメージを採り入れたという。

 しかし帝王とは支配する者だが、地上げ屋は土地を売る者である。バランスの問題ともいえるが、ナメック星でのフリーザは住民を追い出す地上げ屋そのもので、支配する気がない。

帝王としてのフリーザとの矛盾が著しいが、それでいてフリーザは、今でも最も存在感のある悪役である。

 つまり、ピッコロの悪役としての矛盾は単純な失敗ではなく、作者の鳥山明

日本型ファンタジーの誕生④~戦後の平和主義的正義観を変えたガンダム - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

の善悪感の変化の影響をより強く受けたための矛盾であり、この場合鳥山の才能の高さを示すものである。

 ならば『DB』を語るのも、日本型ファンタジーが誕生する経緯を理解する一助となるだろう。


 『DB』は最初と中盤以降では、かなり違うマンガだという印象を受ける。

 『ONE PIECE』は相応に世界観の統一が保たれているが、連載が進むほどにストーリーが複雑化する。『DB』は世界観の統一はまるでないが、常にシンプルである。このシンプルさが『DB』の特徴で、適当に描いているように見えて、『DB』を世界的なヒット作にした鳥山はストーリー力も高い。


 この『DB』のモチーフとなったのが『西遊記』なのは誰もが知るところである。だからここで『西遊記』と比較してみよう。

 『西遊記』といえば、主人公の孫悟空がオリジナルである。

 しかし今では世界的にも『DB』の孫悟空の方が知名度が高いので、ここではあえて『西遊記』悟空と呼ぼう。 

西遊記』では、如意棒を持ち金斗雲に乗る『西遊記』悟空が縦横無尽に活躍する印象があるが、『西遊記』悟空達が自力で困難を解決することは少なく、大抵は観音菩薩の力で解決する。その場合、敵の妖怪は多くが観音菩薩によって善化される。

西遊記』の旅は苦難に満ちているようで、仏達による箱庭世界のようにも見える。 

一方『DB』は、多くのマンガに共通する特徴ともいえるが、敵だった者が味方になる。そのため一部を除いて、非常に安定した世界観となっている。

 『西遊記』悟空、八戒、三蔵など、キャラクターは、どこを切っても性格が一貫しており、成長がない。

 この点について、中野美代子が『西遊記XYZ』で面白い指摘をしている。第五十五回を境にして、物語がシンメトリー構造になっているというのである。つまりA、B、C…と五十五回まで話が続いた後、五十五回から…C’、B’、A’と、似たような話が逆に配置されているというのである。

 こうして、五十五回を頂点にして、『西遊記』のストーリーは下り坂になる。 また中野は、『西遊記』の成立に道教の関与があることを指摘している。特に『西遊記』悟空は闘戦勝仏となり、観音菩薩を超えて仏になるなど、仏教世界を踏襲しているように見せながらも、仏教世界を解体していることを中野は看破した。

 道教老荘思想も源流にしているが、成立時には現世利益を追究する宗教になった。

 かつて阿満利麿が創唱宗教自然宗教という分類を唱えたが、道教は教義を持たない自然宗教に分類される。

封神演義』でもそうだが、道教の仙人達は仏を自分達より上位と見ているようである。 日本でも同様のことが言える。仏教神道より上位に置かれていた。教義のない宗教は、自分達が教義のある宗教に敵わないと思い、教義のある宗教を上位に置く。 そして教義を骨抜きにすることを企む。日本の仏教は大乗の2乗と言われるのがそれである。

 道教のある中国が『西遊記』を生み、日本が『DB』を生んだ。

 『西遊記』と違い、『DB』は悟空達が成長する物語である。そして敵が善化されて仲間になる物語である。 

敵が仲間になる秘訣は、主人公の悟空にある。 

悟空が戦う場合、最初から優勢に戦い、勝負を決めてしまうパターンがほとんどである。

 対ピッコロ戦や対フリーザ戦のようなガチのバトルもあるが、ガチのバトルはどこか面白くなく感じる。本当は面白くないのではなく、『DB』のイメージに合わないのである。悟空が余裕を持って戦う方が『DB』らしい。

 一方修行では、「素直で真面目」と言われるように手を抜いたりしない。しかしベジータのように倒れ込みながらも、悟空を超えたい一心でフラフラと立ち上がるような屈託が悟空にはない。屈託なく余裕を持って敵を倒すのが孫悟空である。 

西遊記』では悟空が戦い、観音菩薩が決着、敵を善化する。しかし『DB』の悟空は、『西遊記』悟空と観音菩薩を合わせたような存在なのである。『DB』の世界観そのものと言ってもいい。

 『DB』の世界観を支えているのは、孫悟空の圧倒的な強さである。よく頑張って戦う姿を見て敵が善化するマンガがあるが、『DB』はそんなに甘くない。

 もう1つ、『DB』は作品時間が長いのが特徴である。悪党が善化するのに必要な時間が与えられている。 それは悟空達の成長を自然なものにしている。

もっとも途中から強さのインフレとなって、多くのマンガが『DB』を真似するようになるのだが。 ただフリーザのような存在感のある悪は仲間にできない。魔人ブウは倒した後、善人に生まれ変わらせるが、悟空の力で善化できなかったあたりが、悟空一人で世界観を支える限界になっている。


 なお、去年から始まった『DB超』だが、破壊神ビルスの登場により、悟空は世界観の中心から外されている。 

放送開始当初は、ベジータのキャラ崩壊などが話題になっていたが、本当にキャラが崩壊しているのは悟空の方である。

原作では、成人してからの悟空はアホではないが、『DB超』ではニート、格闘バカ、アホキャラぶりが強調されている。 

さらにビルスフリーザに命じて、惑星ベジータを破壊した張本人であり、ビルスの元で嬉々として修行する悟空とベジータは道化となっている。 

だから『DB超』は悟空を主人公の座から降ろすために制作されているもので、ビルスに勝つのは悟空より潜在能力が高く、仕事と家庭を大事にする孫悟飯だろうと思っている。


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90年代の超個人主義者達

「なぜ人を殺してはいけないのか」と大江健三郎に質問し、「その質問自体が間違っている」と回答される。

 コンビニの入口付近の縁石に座り込み、事あるごとに既成の概念に対立した世代、つまり90年代の超個人主義者と呼ぶべき者達。私は彼らと学生時代に出会い、彼等に苛立ち、対立した。

 議論で戦う論法は、個人主義vs集団主義に持ち込むことである。今では個人主義者になった私も、この時は集団主義だった。この論法は、今でも個人主義を批判する論法として使われている。 


彼ら超個人主義者に対してどう思うかは、この記事の目的ではない。

 理由は、不毛だからである。 例えば「その質問自体が間違っている」という大江健三郎の回答にしても、殺人が道徳的に正当化されないだけのことであり、不道徳な行為にも何らかの正しさはあることもある。 

また集団主義vs個人主義の論法も、集団主義が正しい根拠はないと思っている。 

ただ、超個人主義者に肩入れしているかというと、必ずしもそうではない。

 その理由は、彼らの言動の不快さである。 超個人主義者は、議論の前提となるものをことごとく破壊しようとする。

 議論の前提を破壊してはいけない理由は、本当はひとつもない。この意味でも大江健三郎は間違っている。

 しかし不快なのである。よほどの忍耐力と議論の能力がない限り、彼らと四六時中付き合うのは困難である。

だから超個人主義者に対する者の力不足を指摘しながらも、超個人主義者の肩を持ちきれない。だからこの記事は何が正しいのかということではなく、超個人主義者がなんだったのかという視点でしか語れない。


 超個人主義者の不快さについて、もう少し考えてみよう。

 先に挙げた、コンビニの入口の縁石に座り込んでいた若者達について、もう少し掘り下げていこう。

 彼らの何が不快か? 「見た目が悪い」というなら、それはまだ体裁を繕った答えである。 

本当は「襲われるかもしれない」と思うからである。

 「襲われるかもしれない」というのは、人間の持つ正常な防衛本能である。

一方超個人主義者は「座ってはいけないと書かれていない=ダメでない以上どこに座ってもいい」 という論法に持ち込む。

 しかし「どこに座ってもいい」というなら、隅の縁石に座っても良かったのである。少なくともそうしていれば、問題はそれほど大きくはならなかった。 

客がすぐ側を通る入口付近の縁石に座る彼らは、客への威嚇を自覚している。

 しかしマナーは防衛本能も含めた感情の調整の役にたつものだが、この時期の日本人はマナーの背景にある感情を忘れすぎていた。 すると自分の主張が正しくないという思いが強くなり、弱気になっていく。

 一方超個人主義者は、表向き自由を標榜しながらも、真実は相手の感情を否定している。超個人主義者は個人主義者を装いながらも、自分達と異なる者に対する抑圧を行っており、その意味で集団主義的であった。 

彼らの目指すところは徹底したカオスだった。それは彼らが徹底して責任を取らない姿勢にも現れていた。カオスに対する責任など取りようがないからである。 

しかし先に述べたように、彼らの批判はこの記事の主目的ではない。彼らを徹底したカオスに駆り立てた衝動の原因は、日本の歴史の流れの中にある。それはまた次の機会に語ろう。

 ともあれ、彼らは至るところで秩序を破壊しようとしたが、破壊のあるところに創造がないということはない。その程度を語る能力は私にはないが、彼らは確かに日本を変えた。 


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日本型ファンタジーの誕生⑤~アイアムアヒーロー①

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アイアムアヒーロー』4巻で、鈴木英雄と早狩比呂美が、ZQN化した比呂美のクラスメイト二人に襲われる。 

ZQNとなった可南子が比呂美と英雄に襲いかかるが、もう一人のZQN、紗衣が可南子に噛みつき、紗衣の意図が不明ながらも、比呂美と英雄を助ける格好になる。

 噛み合う二人を見て、比呂美と英雄はZQNが生きているか死んでいるか問答したり、引きずって病院に連れて行こうとしたりするが、このやり取りは次のアクションのための重要な布石である。やがて比呂美が、

ほんとは死んで欲しかったんだ。迷惑かけないから銃かしてもらえますか?

 

と言い出す。

 ZQNが生きているか死んでいるかは、この場合二つの意味を持つ。

 ひとつは、ZQNが死んでいれば死体に襲われた、あるいは人でないものに襲われたことになり、銃で売っても人殺しにはならないという意味である。 もうひとつは、回復または蘇生の可能性があるなら、人間としてその努力をするべきだという意味である。

 可南子は活動を停止し、比呂美は紗衣の頭にバッグを被せて病院まで引っ張ろうとするが、病院内でZQNの感染が拡大している可能性を英雄が指摘し、紗衣を助けるのが困難であるとわかってくる。

 紗衣は突然「フケ」と言う言葉を口にする。 ZQNは生前よく口にしていた言葉を、脈絡なく口にする。紗衣は比呂美に「フケが多い」と言っていじめていた。

ここで先の比呂美の言葉が出るのである。 比呂美の紗衣を憎んでいたのは事実である。 しかしなぜこの話の流れの中で、比呂美はこのように言うのだろうか。 


正当防衛について考える場合、社会契約論を元に考えるのが一番分かりやすいと思う。

 ホッブスやロックの主張した、社会の成立についての学説である。 人類は、最初は社会を持たず、「万民の万民に対する闘争」の状態である。人が自分が生きるためにどのようなことも行う自由を持っている。身を守るために人を殺す自由も、人の財産を奪う自由もある。自然権という。

 そして人々が自然権の一部を放棄し、契約により「人を殺してはいけない」などの取り決めをして社会が成立する。 

「万民の万民に対する闘争」は、カオスと言い代えてもいい。 

「人を殺してはいけない」と言う道徳は、社会が無ければ実行するのはほぼ不可能である。 

それでは社会があって、それでもなお突然人が刃物を持って襲いかかってきた場合はどうだろう。 その場合、警察が介入して危機が回避される可能性は少ない。社会の中にありながら、そこにカオスが生じており、カオスがあるからこそ正当防衛が成立する。

そしてカオスにおいて道徳が実践できない以上、正当防衛は自然権そのものであり、道徳に基づかない。

 正当防衛が道徳に基づかないことを、もっと掘り下げてみよう。 

人がナイフを持って自分に襲いかかってきたとする。 それで、人は正当防衛の理由ができると判断する。しかし、襲いかかってきた人は、そのナイフを胸に刺す手前で寸止めして、 「なーんちゃって!!」 と言うかもしれない。襲いかかってきた人が100%の殺意があるという判断は、ナイフが自分の胸に深々と刺さらない限り不可能である。

つまり正当防衛の判断基準は多くは主観なのである。 主観である以上、正当防衛によって冤罪で相手が死んでしまう可能性がある。冤罪で人を死なせることは道徳にならないのである。

 『アイアムアヒーロー』のこの状況が、まさに正当防衛の曖昧さを示している。

紗衣は比呂美達を寧ろ助けている。ZQNとなった紗衣が比呂美達に襲いかかる可能性があるだけである。

 正当防衛は、「相手が襲いかかってきた」という主観的判断から、「襲いかかってくるかもしれない」という主観的判断に拡大して解釈できる概念である。この拡大解釈で、多くの人を殺すことができる。しかしより多くの人が冤罪で死ぬ可能性のある概念は、道徳からほど遠い。殺人の言い訳が増えていく概念は、道徳を崩壊させる。

 道徳は人が生きるための重要な規範であり、状況によって「殺してはいけない」→「殺す」という、180度の転換をしてはいけないものである。カオスの中で道徳を実践したければ、殺されても反撃してはいけない。

 『アイアムアヒーロー』は、人を殺してはならないと言っているのか? そうではない。生きるために人を殺すのは否定しないが、それは道徳ではないと言っているのである。

 比呂美が紗衣に「死んで欲しかった」と言うことで、道徳的に正当化しない、道徳を忘れない意志表示となる。 

『進撃』がマキャベリズム的に生き残りを模索することを、そのまま生の在り方として賞揚するのに対して、『アイアムアヒーロー』のテーマのひとつは道徳である。

しかし『進撃』と『アイアムアヒーロー』のベクトルは真逆のように見えて、生きることの肯定という点で同じ地点から出発している。

『進撃の巨人』を考える④~日本型ファンタジーの誕生① - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で、私がこの二作品が相互補完的だと言った所以である。 


「道徳を忘れない」意志表示により、比呂美はこの作品の中で、世界の運命を決めた。

 御殿場アウトレットモールのコミュニティは、現実そのものである。強い者が弱い者を虐げる、我々が容易に想像できる光景である。

 しかしストーリーの途中に御殿場アウトレットモールの話があることで、我々はその後のファンタジックな世界を、現実の延長として捉えている。

 英雄達は家屋や宿泊施設で物品を拝借するたびに自分達の連絡先を添えて「弁償します」と書き置きし、小田つぐみがZQN化したのを殺せば「警察に通報してください」と貼り紙し、ついにはダメヒーローの英雄が、ZQN化した元カノを「殺したくて殺した」というようになる。

これこそファンタジーであり、現実の旅ではなく心の旅である。 


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ヒューマニズムと社会性

最近思っていて、書きたいと思いながらどう書けばいいかわからなかったことを書こうと思うきっかけになったのは、この記事である。

blog.kuroihikari.net

この記事はきっかけであり、本筋についてどうこういうつもりはない。ただ気になったのがこの一文である。

たまには、新着エントリーから、真剣に探して、日々文章を打っている目立たない人を拾い上げてはどうか。すべてのブロガーにチャンスを与える、えこひいきをしない。それが敷いては、ブログサービスの延命へと繋がる。

 

この本筋から遠い部分についての疑問が、私の書きたいことにつながる。つまり株式会社はてなは全てのブロガーにチャンスを与えるのが延命どころか、衰退につながると考えているのではないかというのが私の考えである。


 違和感は、今年の夏頃からあった。

 それ以前のはてなブログでは、時々人間くさい記事がよくランキング上位に登っていた。

 探すのが面倒だからリンクは貼らないが、ろくでなしが登山に賭ける話とか、引きこもり、いやオタク?の母親が自殺した話とか、父親が自殺した話などである。 

こういった記事はよく人間のどうしようもない弱さを描きながら、それでも読まずにはいられない力強さがあった。

 そういった記事が、夏頃から見かけなくなった。

 いや、あることはある。 以前書いたのでやはりリンクは貼らないが、トイアンナさんの記事などである。

しかしトイアンナさんははてなのランキング入りの常連で、しかもこの時は炎上記事を引き合いに出していた。

 またはてこも差別についての記事(これもリンクは以下同文)をランキング入りさせていたが、はてこもランキング入りの常連で、しかも記事に熱が籠っていても形式は論文である。 

貧困女子校生の話はNHK絡みである。

 つまり、今はランキング入りの常連か、炎上への便乗がないとランキング入りしなくなっているのである。


 はしごたん氏は子育てブログが常にランキング入りすることについて批判していたが、私は子育てブログを見ている。

 結構楽しんで読んでいる。さすがに自分の子供の顔をゲス顔とか書くなとは思ったけど。

 しかしやはり違和感は感じていて、人間くさい記事が浮上しなくなった代わりに子育てブログが浮上したのではないかと思っている。 

また、社会派の記事が浮上しなくなった。

 以前はカテゴリーの欄に考え方、社会などの記事があった。 システムはよくわからないが、それぞれのカテゴリーの上位の記事で、PVの多い記事が人気エントリーとしてランキング入りすると単純に理解している。

 しかしやはり夏頃から、社会派の記事がカテゴリーから人気エントリーに登らなくなった。

北斗の文句は俺に言え - 男の魂に火をつけろ!

これなどもいい記事である。 (この記事だけどうしても埋め込みにできんかった…) こういった記事がランキングの上位に浮上しない。しかもカテゴリーの欄から消えるのが速い。 

そう思っていたら、はてなのシステムが変わった。考え方、社会などのカテゴリーが無くなり、技術、写真・カメラ、文房具になった。 


人間くさい記事が浮上しなくなったのと、社会派の記事が浮上しなくなったのは関連がある。 つまりヒューマニズムの問題である。

この夏くらいから、日本人のヒューマニズムが衰退したと私は考えている。

 ヒューマニズムと言えば、子育てブログもヒューマンである。しかし多くの人が傷つかないヒューマニズムである。

 人間くさい記事や社会派の記事は、既に多くの人にとって、傷つきやすい、人に見られたくないものになったのではないか?

 人間くささや、不条理に対する怒り無くして、社会派の記事への共感はないのだろう。

 私は今派遣で働いているが、派遣社員はよく、「歳をとったらのたれ死にする」と言っている。 こんなことを書いてランキング入りするとは思わないが、やはり少しも影響は与えないのだろう。


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日本型ファンタジーの誕生④~戦後の平和主義的正義観を変えたガンダム

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戦後のストーリー作品で勧善懲悪をテーマとした作品で、『ウルトラマン』などに登場する怪獣の多くは、猛獣をイメージさせるキャラクターと思われる。

 猛獣は本能に従って行動しているだけだが、人間にとって有害なので駆除する。怪獣達も本能で行動しているだけである。 

そして一度の放送で怪獣を一匹倒して終了。このパターンの繰り返しは、

日本型ファンタジーの誕生③~鬼退治と平将門と江戸時代の妖怪 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

の鬼を一匹倒して終わる小さ子の物語を踏襲しているように見える。

 怪獣が敵でないストーリー作品の場合、敵の目的は世界征服、地球侵略である。

「侵略=絶対悪」の図式が露骨で、何度も繰り返される。この「侵略=絶対悪」の図式の中では、チンギス・ハンは間違いなく大魔王だろう。


 この「侵略=絶対悪」の図式の繰り返しは、もちろん戦後の平和主義の影響である。

 そしてこの時期、ファンタジーはほとんどない。 もちろん『ゲゲゲの鬼太郎』などはあるが、私がこれをファンタジーに分類しないのは、旅をしていないからである。終わりに向けた旅をしていないから、毎回同じような話に感じる。

 例外的にファンタジーとして挙げられるのは、手塚治虫の『どろろ』である。

どろろ』は日本を舞台にしながら、妖怪達との相互理解のない、善と悪の戦いを描いた見事なファンタジー作品である。

 ファンタジー作品の極端に少ない理由のひとつに、科学技術の礼讚がある。 

科学をテーマとした作品は、日本だけではなくアメリカにも多かった。 しかし日本では、科学をテーマにしたストーリー作品が「ロボットアニメ」という方向に収斂されていく。 

ロボットアニメは『鉄人28号』『鉄腕アトム』を先駆として、『マジンガーZ』により定着する。

 このマジンガーZも、毎回一体の敵を倒すアニメである。 しかしロボットアニメは、これまでと違うベクトルを持つようになる。

72年に連載、放送がスタートした『マジンガーZ』から7年の後、『ガンダム』が始まる。

 『ガンダム』は戦争もののロボットアニメである。

戦艦にモビルスーツと呼ばれるロボットがわらわらと群がって撃沈するシーンは、歩兵が戦艦を破壊するようで説得力がない。そこをミノフスキー粒子という架空の粒子で納得させたのは、ロボットアニメが何であるかを考える重要なファクターである。 

なぜ人型ロボットが生まれたのか?それは人型ロボットでないと視聴者が自分を投影できないからである。

それではなぜ人型ロボットに自己投影する必要があるのか?それはロボットは成長しないからである。

 そして成長しないロボットアニメだからこそ、『ガンダム』は生まれた。久美薫は『宮崎駿の時代』で、ニュータイプを成長をめんどくさがっている若者が楽に成長したがっていると批判していたが、元々ロボットアニメは主人公が成長しない物語なのである。登場当初はヘタレだったアムロは、それなりに成長している。


 『ガンダム』の注目すべき点はもうひとつある。 

ガンダム』の世界観は人口が増えすぎた未来の地球で、スペースコロニーを造ってそれに増えすぎた人間を移民させていた。

 スペースコロニーの住民は「棄民」と呼ばれ、コロニーのひとつがジオン公国として独立する。

ジオンと地球連邦軍の戦いで、視聴者は地球連邦軍サイドから見ていく。 これは、日本と旧植民地の対立の焼き直しなのである。

 ジオン軍スペースコロニーを落とされ、「反撃やむなし」として戦う『ガンダム』は、日本の平和主義に正面からケンカを売ったとは言えない。 私はファーストガンダムしか知らないが、ガンダムシリーズでは、初代が地球視点、『Z』『ZZ』が宇宙視点、『逆襲のシャア』が地球視点のようである。日本側、植民地側と視点に一貫性がない。

宮崎駿の時代』にも、「ゆえに戦争はいけないんだと締めくくれば全てOK」と書いてあったが、ガンダム以降「侵略=悪」から「戦争=悪」の作品が増えていく。「戦争=悪」としながら戦争をする矛盾がこれらの作品に表れるのだが、「平和主義に反対しているわけじゃないんだ」という叫びが、これらの作品から聞こえてきそうである。

 しかし「あの戦争は間違った戦争じゃなかったんだ」とネトウヨのように言う気はないが、ガンダム』の世界観はありだと思っている。

 民族にとっては、救国の英雄も将門のように不条理に立ち向かった人物も、征服者も皆ヒーローで、よほどのことがない限り、思想で悪人にはできない。


 ここでどうしても触れなければならないのがヒトラーである。「ならばヒトラーは英雄なのか?」という疑問がどうしても生じるからである。 

結論から言えば、ヒトラーは悪人である。

 ナチスのアーリア民族至上主義や、ヒトラーの過激な演説などが、侵略行為を正当化したと考えると判断を誤る。

 ナチスは侵略を正当化したように見えて、実は悪人として開き直ったのである。「俺達は悪人だから侵略するんだ」と。だから大戦が終わると、ドイツ人は素直に反省した。

 一次大戦はヨーロッパの諸国民に多大な犠牲者を出し、ロストジェネレーションと言われる世代も生み出した。ヨーロッパ人は戦争を嫌がるようになっており、「戦争=悪」の思想が生まれていた。

その空気をドイツ人も共有していたのであり、侵略戦争に踏み切るには、行為の正当化より開き直ることが必要だった。

 一方、一次大戦の主戦場にならなかった極東では、反戦の思想は希薄だった。だから日本の戦争に対する反省は、「アジアへの謝罪と反省」はより対外関係を意識したもので、本質的には多くの日本人を死なせたことにあるべきだろう。


 『ガンダム』は、有史以来侵略=絶対悪のように唱えながら、大河ドラマでの信長や秀吉の活躍に何の疑問も持たなかった日本人の善悪の観念に一石を投じた。 すると、ストーリー作品の善悪の観念が変質していく。その話はまた後ほど。

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