坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

日本型ファンタジーの誕生⑧~ゲームがファンタジーへの扉を開いた

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私の子供の頃のファンタジーについての記憶は、学校の図書室でのことである。

 小学生の頃は図書室で、『西遊記』や『グリム童話』などをよく読んでいた。

 するとある時、友人が私のところに来て、 「そんなのを読むなんて気取ってるな」 というようなことを言った。 

だから私の子供の頃のファンタジーのイメージは、気取った奴が読むものだった。

 

このような記憶は私だけのもので、多くの人が共有するものではないだろう。 

しかし私の子供の頃の記憶を語るのは、それが世間一般から大きく解離したものではないと思うからである。なにしろ私の子供時代は、アニメはロボットアニメが主流で、ファンタジー作品はほとんどなかったからである。 


この流れを変えたのはテレビゲームだった。

 70年代の終わりからアーケードゲームとして出現したゲームは、80年代にテレビ用ゲームとして発展して言った。 

このゲームからRPGが派生するが、RPGの発展は少々独自で、欧米でRPGが生まれ、パソコンゲームで発展していった。 

欧米のRPGは加齢によってステータスが下がるなどの要素があり、日本のパソコンゲームもその流れを踏襲していた。

例えば『ザナドゥ』ではレベルアップすると鍵の値段が高くなったり、カルマが上がるとレベルアップできなくなるなどの制約があった。

プレイヤーはこのような制約の中で、どのようにプレイすればクリアできるのかを考え、それがRPGのゲーム性になっていった。

 一方、RPGの導入では遅れながらも、ゲーム業界では主流だったファミコンでは、ステータスが下がる要素が排除されたゲームが製作され、それがパソコンのRPGを駆逐していった。 

この流れについては賛否両論あり、私は批判的な方だが、『ウィザードリィ』がめんどくさくて途中で投げ出し、『ドラクエII』でシドーを倒せなかった私には、偉そうなことは言えない。

 だからここでは、少し違ったアプローチをしようと思う。 


今では3Dが主流になり、『FF XV』に至っては実写と見まがうほどになってしまったが、かつてのファミコンRPGの演出も悪いものではなかったと思う。

 ファミコン時代のRPGの演出は、「古さ」を醸し出すことにあった。茶色と黒だけの色でレンガを構成するのもそうだし、『ドラクエI』のひびの入った壁もそうである。

 この「古さ」の演出は、単に時代の古さだけではなく、ファンタジーの世界に没入させるために重要だった。今の3Dでは、かえって「古さ」の演出は難しいのではないか? 


そして、RPGのストーリーはステレオタイプだった。

剣と魔法、囚われた姫、火を吐くドラゴンとステレオタイプなストーリー、キャラクターが踏襲された。

 ステレオタイプなのは、ロム用量が少なくてストーリーを盛り込めないからである。

ストーリーを盛り込めないから、ゲームは最もストーリーを感じさせる演出をした。

それは西洋のファンタジーの世界観の基本的な要素を繰り返すことだった。 

ドラクエI」の主人公の設定もそうで、「勇者ロトの子孫でその生まれ変わり」というのは、最も宿命を感じさせる設定である(生まれ変わりという概念が西洋にはないとしても)。

すなわち竜王を倒す宿命で、その宿命がストーリーとなる 。

ドラクエI』と言えば「カニ歩き」が有名だが、少ない用量でプログラムを作った苦労話はよく知られている。

カタカナは「へ」と「り」をひらがなと併用し、18文字しか用いなかったなどである。 

しかし、ちょっと待って欲しい。『ドラクエI』は、用量の少なさが話題になる割には、動きがなめらかである。

 動きがなめらかなのは当たり前ではない。『ハイドライド』などは動きがぎこちない。 そして『ドラクエI』の、このエンディングである。 このエンディングを削れば、四方面のドット絵くらい作れるとは、誰でも思うだろう。

 つまり『ドラクエI』は、キャラクターに「カニ歩き」をさせてもストーリーを重視した作品なのである。

 動きがなめらかなのも、ぎこちなくても動けばいいという考え自体が、プレイ重視のゲーム性追求の発想であり、『ドラクエI』では動きをなめらかにするのは、ストーリー性の追求に必要だったのである。


 もうひとつ、『ドルアーガの塔』(以下『ドルアーガ』)を見てみよう。 

ドルアーガ』は難易度の高いゲームだが、この作品は難易度の高かったパソコンゲームとは別系統に属する。 

その理由は難易度の種類にある。

 『ドルアーガ』は体力値の概念があって、体力値の表示がないゲームで、それ自体がこの作品を難易度の高いものにしているが、それ以上にゲームの難易度を上げているのはその謎解きにある。 

ドルアーガ』は全部で60のステージがあり、そのほとんどに宝物があるが、その宝物を出現させる方法を、各ステージごとに見つけなければならない。

しかもヒントは一切ない。 

アーケードが初出の『ドルアーガ』は、プレイヤーを悩ませた。攻略法を知るため、他のプレイヤーのプレイを見て、攻略法をメモった人もいるという「伝説」のあるゲームである。 

ゲームの黎明期ならではの伝説だろう。黎明期の頃は、プレイヤーはゲームの難易度など分からなかったし、考えなかった。

 また『ドルアーガ』は、「呪文」「化身」という言葉を最初に使ったゲームだった。

現代人はファンタジー慣れして、特に「化身」という言葉は使わないが、当時は非常に新鮮だった。マジシャンの呪文が、本当に「呪いの文字」のように見えたものである。

 『ドルアーガ』はファミコンに移植され、攻略本も出て、プレイヤーは攻略本を片手にプレイした。やがて『裏ドルアーガ』も見つかり、全120ステージとなったが、その攻略法もすぐに紹介された。

 攻略法を見てプレイするというと「根性がない」と思いそうだが、『ドルアーガ』に限ってはそれは当たらない。 

プレイヤーはプレイをしながら、ストーリーを追っていた。

 それは実に不条理なストーリーだった。全ての謎を解くのに、どれだけの犠牲があったのかをプレイヤーは感じずにはいられなかった。またこの不条理なストーリーを必要とするほど、日本人はファンタジーに飢えていた。


 このようなRPGのヒットによって、ファンタジーへの扉が開いた。

 マンガ、アニメなどで西洋のファンタジーを模倣した作品が作られ、その勢いは、当時の主流だったロボットアニメを一分野にしてしまった。

 ゲームがファンタジーへの扉を開いたが、日本人はまたそれだけ、ファンタジーを求めていたのである。 古代史、神話中心のブログ「人の言うことを聞くべからず」+もよろしくお願いします。

日本は中国に勝てない

トランプ氏が大統領になる - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

を書いた時にいい忘れたが、この記事は、

米軍駐留費の負担についてだが、これはのらりくらりとかわすべきだろう。「負担しなければ撤退」はブラフで、トランプ氏の安全保障への意識は高い。おそらく負担を負わせられることなく、トランプ氏と渡り合えると思う。

 

と述べた

トランプ氏から見る世界情勢 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

の訂正である。


 最近、エマニュエル・トッドの『問題はイギリスではない、EUなのだ』 を読んでいる途中だが、

エマニュエル・トッド - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べた私の見解と違い、イギリスのEU離脱は移民が原因ではなく、ナショナリズムの発露だと言うことだった。

 トッドによれば、現在グローバリズムからナショナリズム移行が始まっており、グローバリズムの地域版としてのEUは解体するということだった。しかもスコットランドも分離独立しない。 

それでもドイツが健在ならEUは維持されるのではないかと思うと、ドイツは男子の高等教育の進学率が低下し、出生率が1.4%と低いため、ドイツは不安定な状況にあるという。

 予言者とまで言われる人には、やはりかなわない。 


少し気になるのが、日本についての言及が少ないことである。

 トッドは日本に好意的な発言をいくつかしているが、それは概ね個人的な好意である。 

一方中国についても発言している。 中国の超大国化は幻想で、GDPの40~50%が設備投資と極端に高く、個人消費は35%と低い。

 そして貧富の格差が著しいが、中国は平等を重んじる社会で、今はナショナリズムを発揮していても、将来的には格差の是正のためにエネルギーを内に向けなければならなくなるという。 ひとまずは朗報である。

 しかしまた、トッドはこうも言っている。

まず大事なことは、中国との関係において、シンメトリック(対称的)な対決の構図に入らないということです。

 

またトッドは、中国の高等教育の進学率が17%程度で、一定しない教育を受けたけれども高等教育に進まない層がマジョリティを占めているのは、ナショナリズムが最も高まり安い状態だと述べている。 

しかし日本もまた、そういう方向に進んでいるのである。 


安倍政権は、年金支給額の減額に踏み切った。 

今後、低所得層は社会の保護が薄くなっていく。高等教育の進学率も下がるだろう。

 しかし、私は危惧しているのはナショナリズムの高まりではないのである。 


今、トランプ政権による米軍駐留費負担が問題になっているが、アメリカがアジアから撤退すれば、日本は中国に勝てない。

派遣社員はよく、「歳をとったらのたれ死にする」と言っている。

 

ヒューマニズムと社会性 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で私は述べたが、私は問題だとは思っていても、同情はしていないのである。

「野垂れ死にする」と言って何もしないのは、野垂れ死にして当然と思うような人生を歩んでいるからである。 

そのような者達が国民の多くを占めている国が、中国に勝てるか? 

旗色が悪かったり、戦争が長期化したりすれば、すぐに厭戦気分になるだろう。

 政府はそのような死にたがりをますます増やす政策を取っている。そんな国が中国に勝てるとは思えない。

 よくアメリカの覇権が終わり、地域ごとに覇権を握る国が現れてそれぞれの地域で秩序を作るという人がいるが、それならアジアの覇権国は中国である。

力と力のぶつかり合いなら、中国が優勢なのである。 

日本は中国と対抗するヴィジョンを欠いている。

日本が格差のない社会を作り、他のアジア諸国を日本に倣わせるくらいのヴィジョンがなければ、中国の野心を押さえ、そのエネルギーを内に向けるようにできるかどうかは運次第でしかない。 


とは言っても、米軍のアジア撤退はいくつかあるシナリオのひとつである。

それでは他のアジア情勢を見てみよう。 

トランプ大統領が「ひとつの中国にこだわらない」と述べたことで、中台関係に激震が走ったが、これについては私は好意的である。 

戦争になる危険性を危惧する人もいるが、今まで台湾の意識の方が甘過ぎたのである。

 トランプ大統領の発言で、フィリピンに続いてタイも中国に擦りよろうとしていたが、その流れも止まった。悪い情勢ではない。

 しかし、これでトランプ政権がアジアを撤退する気がないと見るのは楽観的過ぎる。

 そのような見解は、「利益の最大化」と「優先順位」を混同している。

「利益の最大化」は、同盟国に軍事費を負担させた上での覇権の維持であり、「優先順位」は軍事費の肩代わりにある。


 そしてトランプ政権への移行と期を同じくして、韓国が釜山の日本総領事館竹島従軍慰安婦像を設置する動きに出たが、これは韓国がアメリカに特に要求されていることがないのを示している。

つまり日本はメキシコと同様に、狙い打ちされている。 

また、台湾に米軍基地を移転する話が出ているが、これは台湾が今のところ無反応なので、なんとも言えない(台湾も反応しようがないのだろうが)。しかし実現すれば、トランプ大統領は日本に軍事費を負担させる最大の切り札にするだろう。

台湾に米軍基地の半分を移転させるとして、日本に要求する金額は駐留費のほぼ全額だろう。

 実にビジネス的な話で、実質負担額は半分である。

そして日本はそれを飲みそうである。なぜなら本土の人間は、いくら金を払っても、沖縄の米軍基地が本土に移転させたくないからである。 


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日本型ファンタジーの誕生⑦~アイアムアヒーロー②

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進撃の巨人』(以下『進撃』がマキャベリズム的な冷酷さを打ち出すことで、逆に作品に生命力の強さが打ち出されているのに対し、『アイアムアヒーロー』には自殺が多い。
アウトレットモールで、村井はBB弾が切れると橋から飛び降り、カメラマンの荒木は少年の身代りに、ガソリンをかぶってZQNを道連れに焼身自殺をする。
このような違いが、『進撃』に対して作品の色調の暗さとなっているのは否めない。

しかし、なぜ自殺の話が多いのかを考えるのは有益であり、この特徴が『進撃』にない、『アイアムアヒーロー』の長所となっている。
『進撃』では巨人が襲ってきて人間を喰う。人間は喰われるだけだが、『アイアムアヒーロー』ではZQNに人間が噛みつかれると、噛みつかれた人間はZQNになる。
『進撃』と『アイアムアヒーロー』の設定の違いが自殺の数の差(『進撃』にも自殺はある)になっている。

しかし巨人とZQNの差が、『アイアムアヒーロー』の自殺の多さの決定打ではない。
ZQNに噛まれるのが死なら、自殺しなくても死ぬのは変わらないからである。
この問題に対するひとつの答えは、ZQNになれば人を襲うからである。だから早狩比呂美もしばしば「ZQNになったら遠慮なく殺して」と言う。

しかし、もう1つの答えがある。
アウトレットモールの混乱から逃げる小田つぐみの前に、伊浦が立ちはだかる。
伊浦はZQNに噛まれていないが、感染している。 伊浦は自慰をしながら小田に話しかける。
「話中に、しごくのやめたら?」 と小田に言われても、伊浦は理解できない。
その伊浦が、「奴らZQNが何なのかわかった」と言う。


不老不死ってヤツ?ああ~最高だぁ昭和52ねん生きてるって冬の大三角ぅすばらしいんだろう

 

この脈絡の無さがZQNの特徴だが、ここで伊浦はひとつの強い執着を見せている。生への執着である。

つまり伊浦にとって、生きていればどんな生き方でもいいのである。
しかしZQNは、医学的には死んでいる。ZQNの生き方は、人間の生き方ではないのである。
どんな生き方でも生きていればいいのではなく、ZQNとしての生は拒絶しなければならない。
そう思った者がZQNになるよりも死を選び、感染した小田つぐみも「人間として死にたい」と言って、比呂美に自分を殺すように言う。

ZQNの言葉の脈絡の無さは、『亜人』や『東京喰種』にも共通している。
亜人』の「黒い幽霊」のカタコトは、社会経験の乏しさを表してもいるが、闇の力を具現化した「黒い幽霊」の性質そのものともいえる。
「黒い幽霊」は訓練すれば自分の判断で動けるようになるが、整然と語る「黒い幽霊」は今のところ登場していない。
また『東京喰種』では、喰種を喰ってパワーアップした金木研が、CCGの篠原と戦う時に喋る内容があまりに支離滅裂で、篠原に「今まで会った喰種の中で、一番イカれてやがるね」と呆れられている。
『進撃』には、言葉の脈絡の無さは基本的にない。
巨人は喋らずに、その知性のない表情で、巨人とは何かを語っている。
闇の力は、人を知性から遠ざけるのである。

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「ヒロシマ」は「この世界の片隅」ではない

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この世界の片隅に』は、話題になった時に一度買い、古本屋に売った。 

今回映画になって、映画は見ずにもう一度マンガを買った。

 読んでみて、新たに気づいたことがある。

 すずの婚家は、戦時中の一般的な家庭の姿ではない。 

私もそうだが、すずのようにぼんやりしている人間にとって、太平洋戦争の時期はもっとも生きにくい時代である。 それだけ殺伐とした時で、ぼんやりしたり失敗したりすれば普通に罵声が飛んだりする時期である。

 それなのに婚家の北條家はすずを包容している。

戦争をテーマとした作品で、世間一般と同じ家庭が登場する必要はないが、北條家の延長線上に世間があり、世間がすずを包容することで作品が成立している。これなら戦争に反対して世間に白眼視された『はだしのゲン』のゲンの父親の方が、作品として説得力がある。

 「すずは普通じゃ」と、すずに未練を持つ、幼なじみの水原哲はいい、海軍で自分が普通に扱われていないことを仄めかしているが、ならばその普通に扱われていない部分を描くべきだろう。全般に都合の悪い部分、読者、観客が見たくない部分を描かないようにしている作品である。

 すずは広島から呉の北條家に嫁ぐ。

 北條家の生活で、色々なことがある。 

入湯上陸した水原が、すずのいる北條家に上がり込む。狙いはすずである。 夫の周作は愉快に思わないが、水原を納屋に泊め、すずを中に入れて外から鍵をかける。

 色々言いたくなるところだが、戦場に行かない者の心情はこんなものかもしれないとも思う。 だから流れとしてはこれでいいのだが、もう少し引きずって欲しいところである。

 しかしまた、引きずらないようにも、この作品は細工されているのである。

 周作には馴染みの女郎がいた。

死ねば記憶は消える。秘密は無かったことになる。それはそれで贅沢なことかもしれんよ

 

と、その馴染みの女郎の白木リンは言う。

 白木リンの言葉は、危ういところで作品の中心テーマになろうとしている。 この言葉は、ストーリー作りに精通した者が、徹底的にストーリー作りに煮詰まって作り出した言葉である。 

消えるのは死んだ者の記憶で、生きている者の記憶は、死んだ者についての記憶であっても消えない。だからなくなるのではなく、忘れるのである。

 水原のことは秘密ではないが、死んだら忘れればいい。だから引きずらなくていい。 「鬼」いちゃんも戦死したと知らされて、遺骨と思って箱を開けたら石ころひとつ、これじゃ生きてるか死んでるかわからんとして、後は忘れる。

 この言葉が戦争というテーマに反映されると、全ての戦没者について忘れるとなる。これはストーリー作りをする者として、もっとも卑劣な作り方である。


 しかしこの作品は、一筋縄にいかないのである。

 周作の姉の子を不発弾の爆発で死なせ、さらに自分の右手を失い、頬にも傷を負う。 身近な人の死の忘却と身の不幸は、直接に関係がない。 しかしこれが説得力を持ってくるのは、戦死者の忘却が、さらなる戦禍を生む当時の状況と被るからである。

 すずは広島に帰ろうとする。

空爆で死んだ人を見ても何も思わず、広島に「鬼」いちゃんがいないのを良かったと思う。

すずは逃避している。しかし逃避するのは、死んだ人を忘れることができないと分かり始めているからである。

 すずは8月6日に広島に帰ろうとする。 我々は8月6日に何が起こるか知っているから、すずが広島に帰るのかやきもきする。

 すずは広島に帰らず、それが起こる。我々はほっとする。ほっとすると、怒りがこみ上げてくる。こんなストーリーの作り方があるかと。


 しかしその後、すずの意識が変わるのである。

それまで戦争に対して受身だったすずが戦争に積極的になる。しかし時既に遅しで、原爆投下の9日後に玉音放送を聴くことになる。

そんなん覚悟の上じゃないんかね?最後のひとりまで戦うんじゃなかったんかね?いまここにまだ五人もおるのに!まだ左手も両足も残っとるのに!!

 

戦争をテーマにした作品で、負けたことを真剣に悔しがる描写が生まれたことは、特筆に値するだろう。戦争にどれだけの意味があるかに関わらず、負けるのは悔しいのである。

 しかし、この後が良くないのである。

この国から正義が飛び去ってゆく…ああ、暴力で従えとったいう事か。じゃけえ暴力に屈するいう事かね。それがこの国の正体かね。うちも知らんまま死にたかったなあ…

 

一体いつ、誰が暴力で従わせられていたのだろう? 

共産党員が特高に拷問される描写が一コマもない戦争マンガで、「暴力で従えとった」 と言ってはいけない。 

このように言っても、納得しない人もいるだろう。ならばこう言おう。すずは自分の心情に素直でないのである。 

すずの戦争への積極性は報復感情に基づいている。 だから報復感情とすずが認めれば、話はずっと分かりやすいのである。

しかしすずは正義と言う。 報復感情=正義とするのも論理的には可能だが、その場合は正義を上等なものと見なすことはできない。その上等でない正義が貫徹されなければ「暴力で従えてた。だから暴力に屈する」と極端から極端に飛ぶから、すずの心情が見えにくくなっているのである。 


すずの実家は、広島の江波にある。

 『この世界の片隅に』を読まなくても、江波という地名に聞き覚えのある人もいると思う。『はだしのゲン』に登場した地名だからである。原爆投下で家屋が炎焼しなかった地域である。

 だからすずの実家も残っている。しかし母は行方不明、父は原爆症で死に、妹は床に伏せっている。 妹の腕に染みが浮かび、間もなく死ぬだろうと、読者も理解するが、妹が死ぬところまでは描かない。 

「わしが死んでも一緒くたに英霊にして拝まんでくれ。笑うてわしを思い出してくれ。それができんようなら忘れてくれ」 と水原哲が言うが、英霊にするのは普通の扱いをしない代償だからである。代わりに泣こうがわめこうが、普通に扱わない点は変わらない。だから笑って思いだせと水原は言う。

 抗戦の道を失ったすずは、死んだ人の記憶を持ち続けることに自分の存在意義を見出だす。『「鬼」いちゃん冒険記』も、記憶と空想の産物である。

 フィナーレが近い。しかしここでこうのは、180度真逆に舵をとるのである。

 広島で周作を待つすずを、周作が見つける。

この世界の片隅で、うちを見つけてくれてありがとう周作さん

 

とすずはいう。しかし、「ヒロシマ」は世界の片隅ではない。 世界の中心であるべきである。この作品の中では。 


こうの史代は、どちらかと言えば長編が苦手な作家だと思う。 こうのが得意なのは、人のちょっとした心情を捉えた描写である。

そしてこの絵はグロテスクな表現に向かないし、こうの自身グロい絵を描きたくないだろう。こうのは中沢啓治ではないのである。

 こうのの話題作『夕凪の街』の時代設定が昭和30年なのも、原爆投下直後を回想にすることでグロい描写を避けるためのものである。 

しかし「ヒロシマ」はその悲惨さのため、時代設定はずらせても「ヒロシマ」を外側から見ることはできない。「ヒロシマ」は「ヒロシマ」からしか描けない。 

だからこの作品は、『夕凪の街』に味を占めた編集者に描かされた作品だとわかる。こうのもあとがきで、「正直、描き終えられるとは思いませんでした」と語っている。この点私はこうのに同情するものである。

 「死者の忘却」から「死者の記憶を持って生きる」に変化するストーリーは、楠公飯や『愛国いろはかるた』などの戦時のエピソードやユーモアがヴェールになって見えにくいが、明確に見えなくとも、読者は何かを感じとることができる。 

しかし「死者の記憶を持って生きる」が全面にでた直後に、「ヒロシマ」の大忘却がなされると、真実より現代日本人の願望でできあがった戦時の風景に埋没した読者には、その大忘却が読み取れなくなってしまうのである。 


先に私は「こうのはどちらかと言えば、長編が苦手な作家だと思う」と述べた。 

しかしこの作品を見ると、それを撤回したい衝動にも駆られてしまうのである。 

この世界の片隅に』は、こうのが「ヒロシマ」から全力で、奸智を尽くして逃げ切った作品である。しかもタイトルの言葉で締めることで、歪みながらも筋が通ってしまった。

 こうのがこれほどの底力を見せることは今後はないと思うが、それでもこの作品は、こうのの魔的な力量を感じさせるのである。


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トランプ氏が大統領になる

私自身は、基本的に情報に疎い。

 だから、世間が相当騒いでから、少しずつ情報収集をする。 トランプ氏の情報収集をしたのも、去年の4月頃からである。

 トランプ氏に注目を始めた頃は世間が騒然としていたこともあり、「これは大統領になるか」と思ったが、やがて大したことはないと思うようになった。

 その理由は、トランプ氏は米軍駐留費を全額負担しろと言いながら、一方で各方面での軍事力の増強を主張していたからである。 軍事力増強が基本路線なら、同盟国への負担の要求は難しくなる。結局トランプ氏が大統領になっても、同盟国への負担という点では実を挙げられないのではないかと思ったのである。


 肩書きが立派でも、本物だと感じられない人物がいる。 ただし、その人物が本物でないのに、立派な肩書きを持っている理由を知る機会はほとんど持ったことがない。

 やがて、共和党の有力者(名前も覚えていない)から、共和党候補がトランプ氏になっても不支持が出たりして、トランプ氏が苦境になり出した。その頃にはもう、「どっちが勝つ」と言わないようにしようと決めていた。

 今回のアメリカ大統領選挙は、史上最低の大統領選挙と言われた。

どのようなネガティブキャンペーンが行われたかについては、詳しく追っていないし、仕入れた情報もほとんど忘れてしまった。覚えているのは、 

「大統領選挙で不正が行われている」 

という、トランプ氏の発言だった。

この時点で、私はトランプ氏の負けと判断した。


 蓋を開けたら、トランプ氏が勝っていた。

 それも僅差などではない、充分に差を着けた勝利である。 私の予想は外れた。

blog.kuroihikari.net

ではしごたん氏もトランプ氏勝利を予想していたが、私は外した。

 この時、私はトランプ氏を認めた。

 トランプ氏は、アメリカの大統領にふさわしいのである。すなわち、衰退した国の大統領として。 

この人物は、風呂敷を広げて成果を挙げずに泣き寝入りする人物ではない。

 極端に言えば、世界がどれほど混乱しようとも国益をもぎ取ろうとする人物である。

 それでもイスラム圏とロシアの橋頭堡となるEU諸国に対しては、トランプ氏も譲歩しなければならない場面も増えるだろう。だからトランプ氏が得点を稼ぎに来るのは極東、つまり日本である。

 TPPをやめるといっても、トランプ氏は二国間交渉はすると言っている。米軍駐留費負担の問題は、経済問題と絡めた複雑なものになるだろう。

 特に注目すべきは、トランプ氏が沖縄米軍基地問題について何か語った形跡がないことである。 トランプ氏は、本土と沖縄の対立を利用して漁夫の利を得るつもりである。

本土と沖縄の対立に利はなく、沖縄米軍基地を本土に移転させてでも対立を回避するべきである。


 トランプ氏のアメリカに対し、日本はいくらかの譲歩をせざるを得ないだろうというのが私の見解である。

対抗するには、沖縄やアジア諸国との連係を密にすることを、地道にやっていくことである。

ナンセンスギャグの限界~『暗殺教室』

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出欠確認と同時に始まる一斉射撃。 不意討ちでターゲットの命を狙う生徒達。マッハ20のターゲットは生徒達の攻撃を難なくかわす。
ターゲットは最高の教師。殺せんせーの指導で、生徒達は勉強にも自信をつけていく。
勉強も暗殺も一生懸命。まかり間違って流れ弾が殺せんせーに当たって死んだら、生徒達全員が大喜びしそうな、異様な感触を感じてしまう。こんなことを書けば、

何言ってんだ。それがナンセンスギャグだろうが。
と言われてしまうだろう。その通りです。すいません。

暗殺教室』には、それなりの駆け引き、戦略がある。 中学生が訓練により忍者のような動きをするなど、少年誌らしいご都合主義的な面があるが、それでもやはり駆け引き、戦略はある。

しかし、だからどうした。所詮ナンセンスギャグじゃないか。

ナンセンスギャグとしての駆け引きは、読者の身にならない。結局はご都合主義過ぎて、リアリティーに欠けるのである。

暗殺教室』よりリアルな駆け引き、心理戦を表した作品として、『デスノート』『ライアーゲーム』などがあるように、日本人は心理戦、駆け引きの物語が好きである。
しかし二つの作品とも、ファンタジー、あるいは非日常の世界を舞台にして成立している。そして現実世界は心理戦や駆け引きの物語として作品化されない。

あんたのプロ意識を信じたんだよ。信じたから警戒してた

 

と、『暗殺教室』の作中で赤羽業は言う。
その通り、現実世界にも駆け引きはある。そしてその駆け引きは、敵に対する敬意を持つことで磨かれていく。 しかし

私の擬装請負体験① - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で見るように、現実の駆け引きとは、いかに敵を過小評価し、弱く思うかに終始している。

現代人は、駆け引きの重要性を理解している。
しかしバーチャルな世界でなければ、現代人は駆け引きを楽しめない。はたしてバーチャルな世界の駆け引きの物語を受容し続けることで、いつか現実世界の駆け引きの物語がヒットするのだろうか?

弁護士が無能すぐるww①

水瓶座の女』を出版した太陽出版の編集プロダクションのザブックからは、2年間印税をもらっていない。

 『水瓶座の女』がいくら売れたのかもわからない。2014年の夏まではザブックの山下隆夫と話していたが、話が進展しないのと、私自身本が売れていなかったのがわかっていたので、それ以降約2年間連絡しなかった。山下からも連絡はなく、いくら売れているのかもわからなかった。


 今年の4月になって、ようやく山下に電話をした。 話は紛糾し、データを送ってもらうことになったが、そのデータには2014年10月までの販売記録しかなかった。当然売り上げは0。 

「現在までのデータを下さい」 とFAXを送ると、今度は2016年3月までのデータと手紙を送ってきた。 このデータも売り上げは0。

しかし手紙を見て見ると、手紙の内容がデータと照合しない。 よく見ると、日付が2014年3月になっている。 

「山下さんが送ったものかどうかはわからないが、2016年までのデータと、2014年4月の手紙が届いた。これは山下さんが送ったものか?」

 とFAXを送ると、返事が返ってこない。

そこで、 「4月に送られたデータを山下さんが送ったものと認めることはできません」 とFAXを送ってやった。

 もうこれは裁判が必要と考え、山形県の及川善大弁護士に相談した。及川氏は係争を受任した。

 「坂本さんは最低でもどのくらい売れていると思いますか?」 

及川氏が尋ねた。 

「最低でも20万くらいは売れていると思います」

 私はその理由を答えた。 「『坂本晶』で検索すると、7ページ以内にネット書店での『水瓶座の女』が15件前後検索に引っ掛かります。また相手方から届いた、2016年まで売り上げが0になっているデータで、2015年6月に、在庫が全部消えております。これは私がこの時に

私の擬装請負体験① - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

(全22回)で、『水瓶座の女』のPRをして売れたからです」 

(ああ、言っちゃった)

 と私が思ったのは、『私の擬装請負体験』は評判が悪く、記事更新の間にPVが3/4になったものだからである。 

(悪い影響が出なきゃいいけど。まいっか、別に俺が悪いわけじゃないし) 

私はこの時、違和感を感じていた。しかし弁護士に受任してもらった安心感から、その違和感が何かを深くは考えなかった。

 しばらくして及川氏に電話すると、 「私が代理人になったのは通知しましたので、相手方がやっぱり売り上げ0だよと言ってくるか…」 

「山下は電話でも売り上げ0だと言ったんですね?」 

「あ、いや」 と話がそれて色々話した挙げ句、 

「こりゃどうにもならんもんか、いっぺん検討させて下さい」 と言う始末。 

(手付金払わせといて何を言うとるんじゃコラ)

 私はこの時点で、及川氏に見切りをつけた。 

(予感的中。でもまあいいや。へぼでも何か引っ張り出してくれるかもしれないし、最悪へましなければ)

 次に及川氏に電話すると、 

「2015年の6月に何で在庫が消えたのか聞いてみようと思うんですよ」 と及川氏。

 私は及川氏の判断に任せることにした。 その後、山下から文書が届いた。もちろん代理人の及川氏の方にである。

 「内容については、坂本様が受けたのと同様の内容です」 とのことで、 「なら相手方に印税がないとは言ってないのですね?」 と言うと、 

「私の説明に誤解があったとしたら大変申し訳ございません。 現段階での相手方の主張は,これまで下垣様に行ってきたものと同じ内容です。 ですので,「これ以上の印税の支払義務はない」ということになります」 と及川氏。 

(何言うとるんじゃ)

 実際文書を見て見ると、印税0と書いてある。 

さらに及川氏は、受任契約を解約したいと言ってきた。

 私は慰留した。弁護士任せが気楽だったからだ。

 「月曜に話し合いましょう」 と言って、その後考え直して解約を受けようと思って月曜に待っていると、月曜に電話がこない。

 「坂本晶」で検索して、何件『水瓶座の女』があるかを見てもらおうと思ってメールをしても返事が返ってこない。

 金曜にやっと及川氏が捕まり、解約が決まった。 「報酬は結構なんで」 と及川氏。

 (ラッキー!!そうだ、相手方の書類の原本をもらわないと) と思ってメールを送った。

 それからしばらくして、 (あ、及川さんへましやがった) と気づいた。

 つまり、私は2016年3月まで売り上げ0になっているデータを無効にしているのである。 しかし及川氏はその無効にしたデータについて相手方に質問したことで、無効にしたデータが有効になってしまった。


 この失敗を、及川氏一人の責任とはいわない。私も気づいていなかったのだから。

 しかし代理人は 頭脳であり、やはり責任は及川氏の方が大きい。自分がなぜ受任したかがわかっていればしない失敗を及川氏はしてしまった。

 それから解約手続きの書類が送られてきたが、 

「回答書に返金先の口座を記載して送って下さい。着手金の返金手続が終了次第、相手方からの書類の原本を送付します」 と書類にある。 

(きな臭えなあ、まいっか)

 回答書に書いて返信用の封筒に入れ、郵便局に向かう。 

(なんとかなるだろ)


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