坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

ドラゴンボールを考える③~ヤムチャは戦力外!?

昔大学の後輩が、名前は忘れたがドラゴンボールに影響を与えたか影響を与えられたかというアメコミの話をしたことがあった。

 「へー、それどういうマンガ?」

 と私が聞くと、

 「ヤムチャがいっぱい出てくるマンガです」

 と後輩。


 ヤムチャ!?


 その頃私はネットとつながっておらず、ヤムチャが戦力外代表になっているのを知らなかった。

 ネットにつながってから、「ヤムチャオズ」「ヤムチャしやがって」などとネット民に言われているのを知った。


 まず、『ドラゴンボール』(以下『DB』)では、基本的にサイヤ人以外はほとんど戦力外である。

 天津飯に置いていかれたチャオズは、戦闘の場に出られないという意味で、本当の戦力外である。

 これには理由がある。

チャオズは戦力能力の低さを超能力で補うタイプである。

 しかし超能力というのが曲者で、強さのインフレ率の高い『DB』では、強い敵に普通に超能力が効いては強い敵を出した意味が無くなってしまう。

 だからナッパには、チャオズの超能力は効かなかった。その後、チャオズはナッパとの心中を狙い自爆する。

 チャオズを再び戦いの場に出しても、チャオズには自爆しか手がない。だからチャオズは、天津飯に置いていかれた。


 ならばチャオズも超能力に頼らずに、戦闘力を上げればいいんじゃないかといえば、そうはいかないのである。

 バトルメインのマンガで、小さい体では説得力がないのである。

 悟空も最初は小さかったが、ギャグ要素満載のアドベンチャー路線だから問題なかった。

だから孫悟飯は、5歳の時に少年期の悟空(15歳まで)より体格が良く描かれている。

 ならばチャオズの体格を良くすればいいと思う人は、あの顔で大人の体格になったチャオズを想像して見ればいいだろう。


 さて、ヤムチャである。 ヤムチャの戦歴は確かに良くない。

 しかし数字は忘れたが、サイヤ人編では、ヤムチャの戦闘力はクリリンと大きな違いはなかったと思う。(なぜかわからないが、ヤムチャの戦闘力は検索でヒットしない。一件だけ「超非公式」という名目で、サイヤ人編でのヤムチャの戦闘力があった。1480である。クリリンは1770) 

ヤムチャの戦歴が良くないのは、クリリンの引き立て役だからである。

 クリリンは日本人の好きな「弱いのに頑張るキャラ」で、亀仙人の修行を受けて以来、ヤムチャクリリンはほぼ同等のレベルだと思っている。クリリンが最長老に潜在能力を引き出されるまで) 


実は、ヤムチャが戦力外代表になったのは、ブルマをベジータに獲られたからである。

 よくプライドが高いといわれるベジータだが、カカロットに先を行かれて背中を丸めて悔しがるベジータは、それほどプライドは高くないと思っている。

 しかしブルマの夫になりながら、ベジータヤムチャを出入りさせて少しも動揺しない。

 ベジータは働かないが、星の住民を全滅させる仕事をしていた宇宙人にサラリーマンをさせるのもひどい話だし、ブルマが金持ちだから問題はない。しかしそれでもという思いは出てくるものだが、それを補うのがヤムチャとの関係である。

ベジータヤムチャに嫉妬しないことで、ベジータの株が上がるのである。


 そして、悟空がセルゲーム以降死んでいた理由もこのあたりにある。 子煩悩、愛妻家とポイントを上げてきたベジータに対し、父親失格と言われた悟空が働く姿を、鳥山は想像できなかった。これが鳥山が悟空を死んだままにした一番の理由である。

 『DB超』では悟空は農業をしているが、原作ではニートである。

 『DB超』でも、最初の悟空の働く姿はひどかった。超サイヤ人になるたびに畑を穴だらけにし、とてもじゃないが収穫があるとは思えなかった。

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もっとも最近は真面目に働く場面が増え、「孫さんとこの野菜は評判がいい」とまで言われてるが、これには理由がある。また後に語ろう。


 さて、コキュとなったヤムチャである。 ブルマがベジータと結婚してもブルマの回りをうろつくヤムチャが、どう見えるだろうか? 

「まだブルマに未練がある」 

「食いつめてブルマのところに恵んでもらいに行っている」 

と思われるのがオチだろう。 

このような見方は主にネットで醸成され、故意に戦力外と見る空気ができあがった。


 本来、ヤムチャは真面目には働かないかもしれないが好青年で、クリリンと同等の武道家だった。 

『DB超』でのおおぼらを吹いたり、軽はずみな発言をしたり、都合が悪いと言うことをコロコロ変えるヤムチャは、この空気を取り入れてできあがったキャラである。

 この間もヤムチャ主役の野球回があったが、ボールを気弾のように操作すれば「あいつもう武道家じゃないな」と18号に言われ、さんざんいたぶられた挙げ句、

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なんで俺達これが何を意味するかわかるんだろうねー\(^o^)/


 そして、戦力外通告されたヤムチャの代わりに、亀仙人が戦力になった。戦闘力139。

 

合掌。 

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あざなわvsトイアンナ、真相は!?

サブブログ更新の時期ですが、気になることがあるのでメインを更新。サブは3月に更新します。 

気になるのはコレ。

「名前を出してはいけないあのお方」の名前を出した途端、エゴサーチでいきなり晒されるスラップRTの恐怖 - あざなえるなわのごとし

昨日はてなのトップを飾った記事なので、ご存知の方も多いはず。内容を紹介せずに本題に入ろう。 Twitterのアカウントは持っているが、ほとんど使っていないのでわからないことが多い。読者の皆様にコメント頂いて、考えが合っているか指摘して頂ければ幸いである。

「晒す」って公式RTとか(あとで打消できるように)非公式RTとかだと思うんですが、ご丁寧にキャプってトリミングしてアップロードして、お忙しいのに確定申告が済んでほっとしたんだか何だか知りませんが。

 

とあるが、公式RTとか非公式RTとかあるの?公式とか非公式タグでもついてるの? よくわからなかったんで、非公開のRTが晒されたと書いてあるのかと思った。 

もちろんそれならハッキングされたことになるので、はてなのトップでみんなでワイワイどころの話じゃない。 

つまり公式も非公式も関係なく、公開のRTが晒された、って話でいいんだよね?


 ここでエゴサの話だけども、エゴサってそんなに悪いことなの!?

 エゴサなら俺も定期的にしてるよ。泡沫すぎて誰も悪口言ってないけどww 

しかし当たり障りのないことばかり書いてるならともかく、人と衝突することもあるブロガーが、誰かが自分の悪口を言っていないか誰も気にならないって?え!?


 そんな嘘をつくヤツあ、はてなにはひとりしかいないぜ!! 


ネットの世界だから、誰かが悪口言ってるのに気づかなかったらいつの間にか拡がっていたということもある。 

別に理由を問い質す必要もない。自分がdisられてるのを見つけたら、自分が効果的だと思う方法で対処すればいい。 

だからスクショを張ってRTくらい、問題ないのである。 問題は、

しかも「なんですか!」とかリプを送ってくるわけでもなく、いきなり 「晒しますね」 とリプ。

 

ここである。なぜこの部分をスクショなどして載せないの? 

実は、エゴサなどより、この部分が重要なのである。 ネットでの中傷への反論は自由である。 しかし「晒しますね」とあることで、

自分のフォロワーに対して 「ほら、こんなドイヒーな輩がいるんだよー、私の信者のみんな、こういう輩は吊るされて当然よねー」って言ってるようなもの。

 

と、数にものを言わせた態度に見えてしまう。

 トイアンナさんがリプしたなら、あざなわのTwitterにリプがあるはずだがない。 

リプを否定しても、「名前を出してはいけないあのお方」がひとり歩きしてしまっているので意味がない。


 どうも、あざなわに踊らされたようである。 かくいう私も昨日は、

sakamotoakirax 力と力のぶつかり合いに乾杯!!ネットはルール無用、弱者演じながらちゃんと張り合ってるんだから心配ないよwww

 

と楽しんでしまってた。こりゃトイアンナさんに謝んなきゃかもね。

 なにより、あざなわに踊らされたのが不快なので、この記事を書いた。

あざなわの音頭じゃ、もう踊れない。 


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見えない世相③~日本人は父親を尊敬していない

見えない世相②~ネガティブな誠実さ - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で、「一生ひとつの会社で働きたい」が半年の間に60%から30%に下がっていることについて、これは若者の、ひいては日本の職業観形成の失敗である。

 就職直後に「一生ひとつの会社で働きたい」と答えているのは、学生時代にその考えを育てているからである。

それが半年で半分が転向するのなら、転向した新卒はどれだけフレキシブルに動けるようになるのだろう。


 新卒の待遇が悪いわけではない。資料を取りそびれたが新卒の待遇は非常に良くなっている。

新入社員意識調査・特徴とタイプ | 日本生産性本部

で「調査・研究」「新入社員意識調査」と見ていくと、新卒の意識にちぐはぐな印象を受ける。

 年功序列での昇格を望む割合 42.3% 【過去最高】 良心に反する手段で進めるように指示された仕事であっても従う 45.2%という数値を示したのに対し、

「働く目的」では「楽しい生活をしたい」が増加(昨年度37.0%→41.7%)し、過去最高を更新した。「自分の能力をためす」は(昨年度13.4%→12.4%)過去最低を更新。「社会のために役立ちたい」も3.2ポイント低下(昨年度12.5%→9.3%)

 

と、個人主義的傾向を持ちながらも「自分の能力を試す」は減少である。

「良心に反する手段で進めるように指示された仕事であっても従う」人は増えても、自分の時間が無くなるのは嫌な人も増えている。

 そして日本生産性本部のサイトから、「一生ひとつの会社で働きたい」という項目が消えている。来年度以降は、この項目がアンケートに含まれない可能性が高い。

 「年功序列での昇格を望む」という設問はちょっとずるい。 この設問は、「一生ひとつの会社で働きたい」という設問にあるような、徹底的に理不尽さに耐える覚悟を問うていない。

設問の意味が希薄化しており、既に「一生ひとつの会社で働きたい」という人が減少し、ストップをかけられなくなったことを示すものでしかない。 


今の教育システムでは、「一生ひとつの会社で働きたい」という考えが学生時代に形成されるのは必然なのだろう。 

しかし個人主義の進行が若者の意識を分裂させ、就職後早い時期にこの考えを崩壊させている。

 ならば教育システムから終身雇用にあこがれを抱かせるような要素を排除し、個人主義を育てるようにした方がいいのだろう。

 もっとも今の若者の一番の心配は、非正規に落ちることだろう。だから非正規の待遇の改善して、学生から社会人まで一貫した職業観を持っていけるようにすべきであろう。

 以上の会社に対する新卒、ひいては社会の意識の変化は、「尊敬する人」にも影響を与えているようである。

尊敬する人ランキング!偉人・歴史上の人物vs両親・恩師?

には3つのランキングが載っている。 

ひとつはgooランキングで、一位が「親」である。しかし近年まで、若者が父親を尊敬していると言われていたのに対し、父親か母親かはっきりしない。

 しかも二位に「尊敬する人いない」がきている。一位との間に三倍近い差があるとしても二位である。 

二番目は高校生向けのアンケートで、一位が「特になし」、二位が「母親」となっている。 

三番目は親世代向けのアンケートで、一位が母親である。

3つのアンケートのうちひとつも、「父親」が尊敬する人の一位になったものはなかった。 

父親」は、家庭内の社会の象徴である。会社への忠誠心の低下は、「父親」の存在感をも低下させた。

日本人は父親を尊敬していない。


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日本型ファンタジーの誕生⑧~ゲームがファンタジーへの扉を開いた

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私の子供の頃のファンタジーについての記憶は、学校の図書室でのことである。

 小学生の頃は図書室で、『西遊記』や『グリム童話』などをよく読んでいた。

 するとある時、友人が私のところに来て、 「そんなのを読むなんて気取ってるな」 というようなことを言った。 

だから私の子供の頃のファンタジーのイメージは、気取った奴が読むものだった。

 

このような記憶は私だけのもので、多くの人が共有するものではないだろう。 

しかし私の子供の頃の記憶を語るのは、それが世間一般から大きく解離したものではないと思うからである。なにしろ私の子供時代は、アニメはロボットアニメが主流で、ファンタジー作品はほとんどなかったからである。 


この流れを変えたのはテレビゲームだった。

 70年代の終わりからアーケードゲームとして出現したゲームは、80年代にテレビ用ゲームとして発展して言った。 

このゲームからRPGが派生するが、RPGの発展は少々独自で、欧米でRPGが生まれ、パソコンゲームで発展していった。 

欧米のRPGは加齢によってステータスが下がるなどの要素があり、日本のパソコンゲームもその流れを踏襲していた。

例えば『ザナドゥ』ではレベルアップすると鍵の値段が高くなったり、カルマが上がるとレベルアップできなくなるなどの制約があった。

プレイヤーはこのような制約の中で、どのようにプレイすればクリアできるのかを考え、それがRPGのゲーム性になっていった。

 一方、RPGの導入では遅れながらも、ゲーム業界では主流だったファミコンでは、ステータスが下がる要素が排除されたゲームが製作され、それがパソコンのRPGを駆逐していった。 

この流れについては賛否両論あり、私は批判的な方だが、『ウィザードリィ』がめんどくさくて途中で投げ出し、『ドラクエII』でシドーを倒せなかった私には、偉そうなことは言えない。

 だからここでは、少し違ったアプローチをしようと思う。 


今では3Dが主流になり、『FF XV』に至っては実写と見まがうほどになってしまったが、かつてのファミコンRPGの演出も悪いものではなかったと思う。

 ファミコン時代のRPGの演出は、「古さ」を醸し出すことにあった。茶色と黒だけの色でレンガを構成するのもそうだし、『ドラクエI』のひびの入った壁もそうである。

 この「古さ」の演出は、単に時代の古さだけではなく、ファンタジーの世界に没入させるために重要だった。今の3Dでは、かえって「古さ」の演出は難しいのではないか? 


そして、RPGのストーリーはステレオタイプだった。

剣と魔法、囚われた姫、火を吐くドラゴンとステレオタイプなストーリー、キャラクターが踏襲された。

 ステレオタイプなのは、ロム用量が少なくてストーリーを盛り込めないからである。

ストーリーを盛り込めないから、ゲームは最もストーリーを感じさせる演出をした。

それは西洋のファンタジーの世界観の基本的な要素を繰り返すことだった。 

ドラクエI」の主人公の設定もそうで、「勇者ロトの子孫でその生まれ変わり」というのは、最も宿命を感じさせる設定である(生まれ変わりという概念が西洋にはないとしても)。

すなわち竜王を倒す宿命で、その宿命がストーリーとなる 。

ドラクエI』と言えば「カニ歩き」が有名だが、少ない用量でプログラムを作った苦労話はよく知られている。

カタカナは「へ」と「り」をひらがなと併用し、18文字しか用いなかったなどである。 

しかし、ちょっと待って欲しい。『ドラクエI』は、用量の少なさが話題になる割には、動きがなめらかである。

 動きがなめらかなのは当たり前ではない。『ハイドライド』などは動きがぎこちない。 そして『ドラクエI』の、このエンディングである。 このエンディングを削れば、四方面のドット絵くらい作れるとは、誰でも思うだろう。

 つまり『ドラクエI』は、キャラクターに「カニ歩き」をさせてもストーリーを重視した作品なのである。

 動きがなめらかなのも、ぎこちなくても動けばいいという考え自体が、プレイ重視のゲーム性追求の発想であり、『ドラクエI』では動きをなめらかにするのは、ストーリー性の追求に必要だったのである。


 もうひとつ、『ドルアーガの塔』(以下『ドルアーガ』)を見てみよう。 

ドルアーガ』は難易度の高いゲームだが、この作品は難易度の高かったパソコンゲームとは別系統に属する。 

その理由は難易度の種類にある。

 『ドルアーガ』は体力値の概念があって、体力値の表示がないゲームで、それ自体がこの作品を難易度の高いものにしているが、それ以上にゲームの難易度を上げているのはその謎解きにある。 

ドルアーガ』は全部で60のステージがあり、そのほとんどに宝物があるが、その宝物を出現させる方法を、各ステージごとに見つけなければならない。

しかもヒントは一切ない。 

アーケードが初出の『ドルアーガ』は、プレイヤーを悩ませた。攻略法を知るため、他のプレイヤーのプレイを見て、攻略法をメモった人もいるという「伝説」のあるゲームである。 

ゲームの黎明期ならではの伝説だろう。黎明期の頃は、プレイヤーはゲームの難易度など分からなかったし、考えなかった。

 また『ドルアーガ』は、「呪文」「化身」という言葉を最初に使ったゲームだった。

現代人はファンタジー慣れして、特に「化身」という言葉は使わないが、当時は非常に新鮮だった。マジシャンの呪文が、本当に「呪いの文字」のように見えたものである。

 『ドルアーガ』はファミコンに移植され、攻略本も出て、プレイヤーは攻略本を片手にプレイした。やがて『裏ドルアーガ』も見つかり、全120ステージとなったが、その攻略法もすぐに紹介された。

 攻略法を見てプレイするというと「根性がない」と思いそうだが、『ドルアーガ』に限ってはそれは当たらない。 

プレイヤーはプレイをしながら、ストーリーを追っていた。

 それは実に不条理なストーリーだった。全ての謎を解くのに、どれだけの犠牲があったのかをプレイヤーは感じずにはいられなかった。またこの不条理なストーリーを必要とするほど、日本人はファンタジーに飢えていた。


 このようなRPGのヒットによって、ファンタジーへの扉が開いた。

 マンガ、アニメなどで西洋のファンタジーを模倣した作品が作られ、その勢いは、当時の主流だったロボットアニメを一分野にしてしまった。

 ゲームがファンタジーへの扉を開いたが、日本人はまたそれだけ、ファンタジーを求めていたのである。 古代史、神話中心のブログ「人の言うことを聞くべからず」+もよろしくお願いします。

日本は中国に勝てない

トランプ氏が大統領になる - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

を書いた時にいい忘れたが、この記事は、

米軍駐留費の負担についてだが、これはのらりくらりとかわすべきだろう。「負担しなければ撤退」はブラフで、トランプ氏の安全保障への意識は高い。おそらく負担を負わせられることなく、トランプ氏と渡り合えると思う。

 

と述べた

トランプ氏から見る世界情勢 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

の訂正である。


 最近、エマニュエル・トッドの『問題はイギリスではない、EUなのだ』 を読んでいる途中だが、

エマニュエル・トッド - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べた私の見解と違い、イギリスのEU離脱は移民が原因ではなく、ナショナリズムの発露だと言うことだった。

 トッドによれば、現在グローバリズムからナショナリズム移行が始まっており、グローバリズムの地域版としてのEUは解体するということだった。しかもスコットランドも分離独立しない。 

それでもドイツが健在ならEUは維持されるのではないかと思うと、ドイツは男子の高等教育の進学率が低下し、出生率が1.4%と低いため、ドイツは不安定な状況にあるという。

 予言者とまで言われる人には、やはりかなわない。 


少し気になるのが、日本についての言及が少ないことである。

 トッドは日本に好意的な発言をいくつかしているが、それは概ね個人的な好意である。 

一方中国についても発言している。 中国の超大国化は幻想で、GDPの40~50%が設備投資と極端に高く、個人消費は35%と低い。

 そして貧富の格差が著しいが、中国は平等を重んじる社会で、今はナショナリズムを発揮していても、将来的には格差の是正のためにエネルギーを内に向けなければならなくなるという。 ひとまずは朗報である。

 しかしまた、トッドはこうも言っている。

まず大事なことは、中国との関係において、シンメトリック(対称的)な対決の構図に入らないということです。

 

またトッドは、中国の高等教育の進学率が17%程度で、一定しない教育を受けたけれども高等教育に進まない層がマジョリティを占めているのは、ナショナリズムが最も高まり安い状態だと述べている。 

しかし日本もまた、そういう方向に進んでいるのである。 


安倍政権は、年金支給額の減額に踏み切った。 

今後、低所得層は社会の保護が薄くなっていく。高等教育の進学率も下がるだろう。

 しかし、私は危惧しているのはナショナリズムの高まりではないのである。 


今、トランプ政権による米軍駐留費負担が問題になっているが、アメリカがアジアから撤退すれば、日本は中国に勝てない。

派遣社員はよく、「歳をとったらのたれ死にする」と言っている。

 

ヒューマニズムと社会性 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で私は述べたが、私は問題だとは思っていても、同情はしていないのである。

「野垂れ死にする」と言って何もしないのは、野垂れ死にして当然と思うような人生を歩んでいるからである。 

そのような者達が国民の多くを占めている国が、中国に勝てるか? 

旗色が悪かったり、戦争が長期化したりすれば、すぐに厭戦気分になるだろう。

 政府はそのような死にたがりをますます増やす政策を取っている。そんな国が中国に勝てるとは思えない。

 よくアメリカの覇権が終わり、地域ごとに覇権を握る国が現れてそれぞれの地域で秩序を作るという人がいるが、それならアジアの覇権国は中国である。

力と力のぶつかり合いなら、中国が優勢なのである。 

日本は中国と対抗するヴィジョンを欠いている。

日本が格差のない社会を作り、他のアジア諸国を日本に倣わせるくらいのヴィジョンがなければ、中国の野心を押さえ、そのエネルギーを内に向けるようにできるかどうかは運次第でしかない。 


とは言っても、米軍のアジア撤退はいくつかあるシナリオのひとつである。

それでは他のアジア情勢を見てみよう。 

トランプ大統領が「ひとつの中国にこだわらない」と述べたことで、中台関係に激震が走ったが、これについては私は好意的である。 

戦争になる危険性を危惧する人もいるが、今まで台湾の意識の方が甘過ぎたのである。

 トランプ大統領の発言で、フィリピンに続いてタイも中国に擦りよろうとしていたが、その流れも止まった。悪い情勢ではない。

 しかし、これでトランプ政権がアジアを撤退する気がないと見るのは楽観的過ぎる。

 そのような見解は、「利益の最大化」と「優先順位」を混同している。

「利益の最大化」は、同盟国に軍事費を負担させた上での覇権の維持であり、「優先順位」は軍事費の肩代わりにある。


 そしてトランプ政権への移行と期を同じくして、韓国が釜山の日本総領事館竹島従軍慰安婦像を設置する動きに出たが、これは韓国がアメリカに特に要求されていることがないのを示している。

つまり日本はメキシコと同様に、狙い打ちされている。 

また、台湾に米軍基地を移転する話が出ているが、これは台湾が今のところ無反応なので、なんとも言えない(台湾も反応しようがないのだろうが)。しかし実現すれば、トランプ大統領は日本に軍事費を負担させる最大の切り札にするだろう。

台湾に米軍基地の半分を移転させるとして、日本に要求する金額は駐留費のほぼ全額だろう。

 実にビジネス的な話で、実質負担額は半分である。

そして日本はそれを飲みそうである。なぜなら本土の人間は、いくら金を払っても、沖縄の米軍基地が本土に移転させたくないからである。 


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日本型ファンタジーの誕生⑦~アイアムアヒーロー②

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進撃の巨人』(以下『進撃』がマキャベリズム的な冷酷さを打ち出すことで、逆に作品に生命力の強さが打ち出されているのに対し、『アイアムアヒーロー』には自殺が多い。
アウトレットモールで、村井はBB弾が切れると橋から飛び降り、カメラマンの荒木は少年の身代りに、ガソリンをかぶってZQNを道連れに焼身自殺をする。
このような違いが、『進撃』に対して作品の色調の暗さとなっているのは否めない。

しかし、なぜ自殺の話が多いのかを考えるのは有益であり、この特徴が『進撃』にない、『アイアムアヒーロー』の長所となっている。
『進撃』では巨人が襲ってきて人間を喰う。人間は喰われるだけだが、『アイアムアヒーロー』ではZQNに人間が噛みつかれると、噛みつかれた人間はZQNになる。
『進撃』と『アイアムアヒーロー』の設定の違いが自殺の数の差(『進撃』にも自殺はある)になっている。

しかし巨人とZQNの差が、『アイアムアヒーロー』の自殺の多さの決定打ではない。
ZQNに噛まれるのが死なら、自殺しなくても死ぬのは変わらないからである。
この問題に対するひとつの答えは、ZQNになれば人を襲うからである。だから早狩比呂美もしばしば「ZQNになったら遠慮なく殺して」と言う。

しかし、もう1つの答えがある。
アウトレットモールの混乱から逃げる小田つぐみの前に、伊浦が立ちはだかる。
伊浦はZQNに噛まれていないが、感染している。 伊浦は自慰をしながら小田に話しかける。
「話中に、しごくのやめたら?」 と小田に言われても、伊浦は理解できない。
その伊浦が、「奴らZQNが何なのかわかった」と言う。


不老不死ってヤツ?ああ~最高だぁ昭和52ねん生きてるって冬の大三角ぅすばらしいんだろう

 

この脈絡の無さがZQNの特徴だが、ここで伊浦はひとつの強い執着を見せている。生への執着である。

つまり伊浦にとって、生きていればどんな生き方でもいいのである。
しかしZQNは、医学的には死んでいる。ZQNの生き方は、人間の生き方ではないのである。
どんな生き方でも生きていればいいのではなく、ZQNとしての生は拒絶しなければならない。
そう思った者がZQNになるよりも死を選び、感染した小田つぐみも「人間として死にたい」と言って、比呂美に自分を殺すように言う。

ZQNの言葉の脈絡の無さは、『亜人』や『東京喰種』にも共通している。
亜人』の「黒い幽霊」のカタコトは、社会経験の乏しさを表してもいるが、闇の力を具現化した「黒い幽霊」の性質そのものともいえる。
「黒い幽霊」は訓練すれば自分の判断で動けるようになるが、整然と語る「黒い幽霊」は今のところ登場していない。
また『東京喰種』では、喰種を喰ってパワーアップした金木研が、CCGの篠原と戦う時に喋る内容があまりに支離滅裂で、篠原に「今まで会った喰種の中で、一番イカれてやがるね」と呆れられている。
『進撃』には、言葉の脈絡の無さは基本的にない。
巨人は喋らずに、その知性のない表情で、巨人とは何かを語っている。
闇の力は、人を知性から遠ざけるのである。

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「ヒロシマ」は「この世界の片隅」ではない

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この世界の片隅に』は、話題になった時に一度買い、古本屋に売った。 

今回映画になって、映画は見ずにもう一度マンガを買った。

 読んでみて、新たに気づいたことがある。

 すずの婚家は、戦時中の一般的な家庭の姿ではない。 

私もそうだが、すずのようにぼんやりしている人間にとって、太平洋戦争の時期はもっとも生きにくい時代である。 それだけ殺伐とした時で、ぼんやりしたり失敗したりすれば普通に罵声が飛んだりする時期である。

 それなのに婚家の北條家はすずを包容している。

戦争をテーマとした作品で、世間一般と同じ家庭が登場する必要はないが、北條家の延長線上に世間があり、世間がすずを包容することで作品が成立している。これなら戦争に反対して世間に白眼視された『はだしのゲン』のゲンの父親の方が、作品として説得力がある。

 「すずは普通じゃ」と、すずに未練を持つ、幼なじみの水原哲はいい、海軍で自分が普通に扱われていないことを仄めかしているが、ならばその普通に扱われていない部分を描くべきだろう。全般に都合の悪い部分、読者、観客が見たくない部分を描かないようにしている作品である。

 すずは広島から呉の北條家に嫁ぐ。

 北條家の生活で、色々なことがある。 

入湯上陸した水原が、すずのいる北條家に上がり込む。狙いはすずである。 夫の周作は愉快に思わないが、水原を納屋に泊め、すずを中に入れて外から鍵をかける。

 色々言いたくなるところだが、戦場に行かない者の心情はこんなものかもしれないとも思う。 だから流れとしてはこれでいいのだが、もう少し引きずって欲しいところである。

 しかしまた、引きずらないようにも、この作品は細工されているのである。

 周作には馴染みの女郎がいた。

死ねば記憶は消える。秘密は無かったことになる。それはそれで贅沢なことかもしれんよ

 

と、その馴染みの女郎の白木リンは言う。

 白木リンの言葉は、危ういところで作品の中心テーマになろうとしている。 この言葉は、ストーリー作りに精通した者が、徹底的にストーリー作りに煮詰まって作り出した言葉である。 

消えるのは死んだ者の記憶で、生きている者の記憶は、死んだ者についての記憶であっても消えない。だからなくなるのではなく、忘れるのである。

 水原のことは秘密ではないが、死んだら忘れればいい。だから引きずらなくていい。 「鬼」いちゃんも戦死したと知らされて、遺骨と思って箱を開けたら石ころひとつ、これじゃ生きてるか死んでるかわからんとして、後は忘れる。

 この言葉が戦争というテーマに反映されると、全ての戦没者について忘れるとなる。これはストーリー作りをする者として、もっとも卑劣な作り方である。


 しかしこの作品は、一筋縄にいかないのである。

 周作の姉の子を不発弾の爆発で死なせ、さらに自分の右手を失い、頬にも傷を負う。 身近な人の死の忘却と身の不幸は、直接に関係がない。 しかしこれが説得力を持ってくるのは、戦死者の忘却が、さらなる戦禍を生む当時の状況と被るからである。

 すずは広島に帰ろうとする。

空爆で死んだ人を見ても何も思わず、広島に「鬼」いちゃんがいないのを良かったと思う。

すずは逃避している。しかし逃避するのは、死んだ人を忘れることができないと分かり始めているからである。

 すずは8月6日に広島に帰ろうとする。 我々は8月6日に何が起こるか知っているから、すずが広島に帰るのかやきもきする。

 すずは広島に帰らず、それが起こる。我々はほっとする。ほっとすると、怒りがこみ上げてくる。こんなストーリーの作り方があるかと。


 しかしその後、すずの意識が変わるのである。

それまで戦争に対して受身だったすずが戦争に積極的になる。しかし時既に遅しで、原爆投下の9日後に玉音放送を聴くことになる。

そんなん覚悟の上じゃないんかね?最後のひとりまで戦うんじゃなかったんかね?いまここにまだ五人もおるのに!まだ左手も両足も残っとるのに!!

 

戦争をテーマにした作品で、負けたことを真剣に悔しがる描写が生まれたことは、特筆に値するだろう。戦争にどれだけの意味があるかに関わらず、負けるのは悔しいのである。

 しかし、この後が良くないのである。

この国から正義が飛び去ってゆく…ああ、暴力で従えとったいう事か。じゃけえ暴力に屈するいう事かね。それがこの国の正体かね。うちも知らんまま死にたかったなあ…

 

一体いつ、誰が暴力で従わせられていたのだろう? 

共産党員が特高に拷問される描写が一コマもない戦争マンガで、「暴力で従えとった」 と言ってはいけない。 

このように言っても、納得しない人もいるだろう。ならばこう言おう。すずは自分の心情に素直でないのである。 

すずの戦争への積極性は報復感情に基づいている。 だから報復感情とすずが認めれば、話はずっと分かりやすいのである。

しかしすずは正義と言う。 報復感情=正義とするのも論理的には可能だが、その場合は正義を上等なものと見なすことはできない。その上等でない正義が貫徹されなければ「暴力で従えてた。だから暴力に屈する」と極端から極端に飛ぶから、すずの心情が見えにくくなっているのである。 


すずの実家は、広島の江波にある。

 『この世界の片隅に』を読まなくても、江波という地名に聞き覚えのある人もいると思う。『はだしのゲン』に登場した地名だからである。原爆投下で家屋が炎焼しなかった地域である。

 だからすずの実家も残っている。しかし母は行方不明、父は原爆症で死に、妹は床に伏せっている。 妹の腕に染みが浮かび、間もなく死ぬだろうと、読者も理解するが、妹が死ぬところまでは描かない。 

「わしが死んでも一緒くたに英霊にして拝まんでくれ。笑うてわしを思い出してくれ。それができんようなら忘れてくれ」 と水原哲が言うが、英霊にするのは普通の扱いをしない代償だからである。代わりに泣こうがわめこうが、普通に扱わない点は変わらない。だから笑って思いだせと水原は言う。

 抗戦の道を失ったすずは、死んだ人の記憶を持ち続けることに自分の存在意義を見出だす。『「鬼」いちゃん冒険記』も、記憶と空想の産物である。

 フィナーレが近い。しかしここでこうのは、180度真逆に舵をとるのである。

 広島で周作を待つすずを、周作が見つける。

この世界の片隅で、うちを見つけてくれてありがとう周作さん

 

とすずはいう。しかし、「ヒロシマ」は世界の片隅ではない。 世界の中心であるべきである。この作品の中では。 


こうの史代は、どちらかと言えば長編が苦手な作家だと思う。 こうのが得意なのは、人のちょっとした心情を捉えた描写である。

そしてこの絵はグロテスクな表現に向かないし、こうの自身グロい絵を描きたくないだろう。こうのは中沢啓治ではないのである。

 こうのの話題作『夕凪の街』の時代設定が昭和30年なのも、原爆投下直後を回想にすることでグロい描写を避けるためのものである。 

しかし「ヒロシマ」はその悲惨さのため、時代設定はずらせても「ヒロシマ」を外側から見ることはできない。「ヒロシマ」は「ヒロシマ」からしか描けない。 

だからこの作品は、『夕凪の街』に味を占めた編集者に描かされた作品だとわかる。こうのもあとがきで、「正直、描き終えられるとは思いませんでした」と語っている。この点私はこうのに同情するものである。

 「死者の忘却」から「死者の記憶を持って生きる」に変化するストーリーは、楠公飯や『愛国いろはかるた』などの戦時のエピソードやユーモアがヴェールになって見えにくいが、明確に見えなくとも、読者は何かを感じとることができる。 

しかし「死者の記憶を持って生きる」が全面にでた直後に、「ヒロシマ」の大忘却がなされると、真実より現代日本人の願望でできあがった戦時の風景に埋没した読者には、その大忘却が読み取れなくなってしまうのである。 


先に私は「こうのはどちらかと言えば、長編が苦手な作家だと思う」と述べた。 

しかしこの作品を見ると、それを撤回したい衝動にも駆られてしまうのである。 

この世界の片隅に』は、こうのが「ヒロシマ」から全力で、奸智を尽くして逃げ切った作品である。しかもタイトルの言葉で締めることで、歪みながらも筋が通ってしまった。

 こうのがこれほどの底力を見せることは今後はないと思うが、それでもこの作品は、こうのの魔的な力量を感じさせるのである。


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