坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

小池田マヤ『しのぶもちずり』

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小池田マヤの『しのぶもちずり』は労作である。

 傑作ではない。しかしこの作品は、作家の使命感がある。

 それは「主人公にならない人間を主人公にする」というものである。

 創作とは既成のものを打ち破るものであり、そうである以上紋切り型の作品を作る作家でも、既成のものを打ち破るのは半ば義務のようなものであり、それをしない場合、たとえ紋切り型の作品がヒットしていても、暮夜密かに作家を悔やませるものである。


 『家政婦さんシリーズ』では、全体を通じての主人公は家政婦の小田切里だが、各シリーズごとの主人公がいて、(大抵は依頼主)『しのぶもちずり』の主人公は依頼主の信夫十忍(しのぶとしのぶ)である。

 信夫は営業マンで、メンヘラである。

 営業の仕事ほど、自分の仕事の意味が分からずに悩む仕事はない。それが「主人公にならない人間を主人公にする」作品とする第一の理由である。

 営業の仕事で神経を磨り減らし、周りにはしっかりしている人のように見えても、何かに頼りたいと思ったり、人と関わるのが苦痛で身を捩ったりする。信夫はそれで離婚した。

 離婚してもしっかりして見えるし、営業マンらしく物腰が丁寧なので、信夫はもてる(男にも)。

それで家政婦とのトラブルがあり、嫌気が差した信夫が家政婦派遣に提示した条件は「依頼主と顔を合わせないこと」だった。


 『家政婦さんシリーズ』の醍醐味は、依頼主の理不尽な要望に里が答えて、なおも依頼主を満足させていくところにあるが、このシリーズでも、里は顔を合わせずに、信夫の満足のいくサービスを提供していく。 

結局顔を合わせた二人は恋仲になるが、里は信夫のメンヘラに付き合い切れなくなる。

 メンヘラは周囲を疲れさせ、人が離れていく。 

これは信夫が営業の仕事をする限り、宿命のようなものである。

 そしてこれが信夫が本来主人公になれない第二の理由である。人が幸福になるのに人とのつながりが必要なら、信夫は永遠に幸福になれない。

ハッピーエンドを迎えられない信夫は、普通は主人公になれないのである。

 しかし信夫は幸福にはなれないが、誇りがある。誇りが幸福に変えられるものだとは思わないが、幸福の代わりに誇りを持って信夫は生きていく。

信夫は多くの幸福になれない人々の代表である。


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信長の戦い②~うつけの正体

信長の父の信秀の代に、織田家は三河安城城、大垣城に進出していた。しかし安城城は今川の手に渡り、大垣城も信長が家督を継いだ年に斎藤氏に戻った。
こうして、信長の勢力尾張国内に限定され、信長の戦争もほとんどが尾張国内で行われる。家督を継いだばかりで、世評の良くない信長として、妥当な行動である。

信長公記』によれば、信長が家督を継いで最初に戦ったのは山口左馬之助とその息子の九郎二郎である。山口の軍勢は千五百、織田勢は八百である。この時織田勢は「上槍を取られた」とある。
「上槍を取られた」とはどういうことか?私は古文献に詳しいものではないが、「上槍を取られた」という記述を『信長公記』以外に知らない。
「上槍を取られた」とは、敵方の槍を自分の槍で上から押さえつけたということである。
「上槍を取られた」側は、確かに消耗が激しいだろう。しかしこの合戦は、勝敗がついていない。捕虜になった兵や馬を交換しあって両軍とも引き上げている。倍近い兵力に対し、信長は善戦したといえる。「上槍を取られた」のは兵力差から見て当然と言えるし、上槍を取った側が真面目に戦っていないような印象を受ける。

村木の砦を攻めた時は、斎藤道三に兵を借りて、那古野城を守らせて出兵している。
この時の織田勢は「数知らず負傷者・死者が出て、目も当てられないありさま」だったとある。秋山駿もその著『信長』で述べているように、「自分の力の減少を賭けて闘っ」ている。

信長のエピソードとして「火起請」がある。
「火起請」とは古代からの裁判の手段で、焼いた鉄を握らせて、持てるか否かで有罪か無罪かを決めるものである。
このエピソードは信長が無神論者だという認識が崩れた2000年代頃から作家や研究者が取り上げ始めた。
領内で窃盗があり、真偽の判定のため火起請が行われたが、容疑者は鉄を取り落とした。しかし容疑者の仲間は容疑者をかばって成敗させまいとした。
そこで信長は自ら火起請を行い、焼いた鉄を持って三歩歩き、容疑者を成敗した。この容疑者は信長の乳母兄弟の池田恒興の家来である。
やると決めたら必ず実行し、自分に近い者にも容赦しないし、犠牲も厭わない。
信長は、ちんどん屋のようなスタイル以上に、この性格によって警戒され、「うつけ」と呼ばれたようである。
「上槍を取られた」と言われたのも、信長を警戒する世間がことさらに嘲笑してみせたのではないかと思う。

信長が清洲城を手に入れた後、信長は奇妙なことをしている。
信長は清洲城尾張守護の斯波氏に譲った。これは斯波氏を神輿にする信長にとって当然の選択だが、その後信長は隠居と称し、北の櫓に移った。
信長は何の隠居になったのか?
もちろん斯波氏の隠居でも、織田家の隠居でもない。
信長は清洲城主の隠居となったのである。
しかし隠居とは家のシステムでの立場なので、城主の隠居というのはあり得ない。だから信長の態度は常識から外れているのだが、この行為により、信長は前守護職であるかのような印象を世間に与えた。しかも詐称ではない。

の信長が家督を相続してから、尾張国内での暗殺事件が相次ぐ。
尾張守護の斯波義統、信長の叔父の織田信光、信長の弟の秀孝、秀俊が殺されている。
太田満明はその著『桶狭間の真実』で、一連の暗殺の首謀者を信長だと推測する。
しかしそう思うのもわかるが、私はこの推測に同意しない。
信長の弟がそれほど重要な人物だったとは、私には思えないのである。信長にとって危険だったのは、やはり同母弟の信行くらいだろう。
信長の父信秀は、尾張の外に進出することで尾張の旗頭となり、信秀の存在により尾張の秩序は維持されていた。
信秀の死後、信長の行動は尾張に限定された。これ自体は妥当な行動だが、尾張の人々の目も国内に向くことで、下剋上が急激に進行したのである。はたして信秀のくたびれ儲けだったのか、それとも信秀が潜在的下剋上を進行させていたと見るべきか。おそらく両方だろう。
津本陽は『下天は夢か』で、叔父の信光暗殺のみを信長が黒幕だとしている。信光は守護代清洲織田について信長と戦いながら、信長と通じて守護代を殺している。津本の推測が妥当だろう。

このような尾張の情勢で、弟の信行が謀反を起こし、信長は稲生で信行と戦う。
ここで奇跡的なことが起こる。信長が信行軍を一喝すると、信行の軍勢が崩れて逃げ出したのである。
これを秋山駿は信長の人格的威厳とし、ナポレオンに比肩するものだとする。
信長に人格的威厳があることは、否定しない。しかしそれが主な原因で、信行軍が崩れたのではない。
尾張国内では下剋上が進行したが、その実態は何者でもない者が、主筋の人物を殺していただけである。
この尾張の無秩序がピークに達した後、人々は秩序の回帰を望むようになった。その時信長は尾張の前守護に準ずる者であり、さらに美濃の潜在的領主である。実は信長は、尾張で最も権威のある人物だったのである。
鉄砲の三段射ちや鉄船などの信長の技術革新は、現在ではあらかた否定されている。信長が天下を取った資質として見るべきは、その政治力である。その政治力は時として極めて日本的で、時に日本の政治の在り方を知悉し抜いてそれを破壊する。信長の尾張での戦いには、その原形がある。

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維新はなぜ共謀罪法案に賛成したのか

サブブログ更新の予定だったが、予定外の事態のため、メインを更新する。サブ更新は来月行う。 問題はこの記事、

www.asahi.com

森友、加計学園豊洲市場移転問題、など、前回の記事とかぶっている。安倍政権の支持率については、私が下がっているとしたのに対し、橋下氏は「支持率が高い」という見解で論じている。

 偶然にも論点が被りすぎたせいか、またさすが橋下氏というべきか、私のPVが下がっているww

そこで今回の記事だが、この記事の内容は橋下氏の記事への反論ではない。


 なぜ維新は共謀罪法案に賛成したのだろうか? 

保守だからというのは正しくない。維新は自民に変わって政権を目指す党である。自民と同じことをするなら、自民に吸収合併されればいい。

 政権を目指すということは、反野党なのである。

日本の政治の全ての案件による対立は表層的なもので、潜在的には護憲と改憲の対立だと、このブログで何度も指摘してきたが、護憲の立場の野党の場合、「なんでも反対」になる。 

現在の民進党につながる旧民主党がうまくいかなかったのは、二大政党制の一翼を担う立場と、護憲の立場としての「なんでも反対」の二面性を持っていたからである。

旧民主党も何度か政権の座に就いて入れば、政治への責任感が芽生えたかもしれないが、安倍政権のように長期政権、そして何より国民に強面な態度を示す政権に対しては「なんでも反対」になる。


 維新はこれまで、安保法制や労働者派遣法改正などについては、自民に譲歩しながら妥協案を提示してきた。 

それが今回無かった。松井代表は「譲歩させた」と言っているようだが、どのような譲歩を勝ち取ったのかわからない。 つまり、国民に胸を張って譲歩を勝ち取ったと言えるようなものが、今回の維新には無かったのだろう。共謀罪法案は、妥協案を提示できる代物では無かったということである。

 ならば反対すればいいとはいかないのである。

 自民に反対すれば、「なんでも反対」の野党と変わらなくなっていく。政権を担う党になるためには、「なんでも反対」の野党と一線を画さなければならないのである。


 思うに、維新とは新撰組である。 つまり、「一、士道に背くべからず、背けば切腹!」という、鉄の隊規を持っている政党である。上西小百合議員への処遇や、最近では離党届を出した党員をその日付で除名するなどの対応に、鉄の規律ぶりが表れている。 

この厳しさに党員が耐えていけるのは、政権を担うという意識と、「他の野党とは違う」という意識である。その意識がある限り、維新は何がなんでも野党と同じ行動はとれないのである。


 全ての橋下氏の言動を見たわけではないし、橋下氏がツイッターのアカウントを変更したりしたので確かなことは言えないが、共謀罪法案について橋下氏が言及したのは、共謀罪法案成立前後のようである。 

橋下氏は共謀罪法案から距離を置きたかったが、安倍政権の支持率が下がり、維新に波及しないようにてこ入れに入ったというのが真相のようである。


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「正論が通る時代」と共謀罪法案

トピック「共謀罪」について
桝添前都知事が辞任した時、「もう都民税払いたくないですよ」と答える人がいた。
冗談じゃねえ、お前らちゃんと都民税払えよ、と私は思っていた。
桝添氏は問題であっても辞任させるほどではないと私は思っていた。
桝添氏のように、日本には悪者に指定されて、そんなに悪くないのに、あるいは全く無実なのに罪とされ、集団で叩かれる例が多くある。
「失われた20年」と言われた時代は、

護憲派は逃げるな!! - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、この悪人探しが猛威を奮った時代だった。
この悪人探しの勢いが、ここにきてようやく止まってきたようである。そのことを示すのが、豊洲市場移転問題である。
地下水という、本来使用しない水の汚染を問題としたこの騒動は、石原元都知事などに矛先が向いたが、結局石原氏の責任とはならず、豊洲への移転も決定した。
悪人探しは、「悪人」に指定された人を処刑するまで止まらないのが、これまでの流れだった。しかし石原氏は免責された。「正論が通る時代」となったのである。

安倍政権の支持率が下がっている。
もっとも

news.yahoo.co.jp

にみられるように、マスコミのアンケート結果はまちまちだが、支持率が下がっているのは間違いないようである。
支持率が下がっている理由として、共謀罪法案、森友、加計学園があげられている。
このうち森友学園問題は、既に政治問題ではない。現在籠池前理事長に捜査の手が及んでいるが、容疑は詐欺罪等であり、汚職ではない。
ならば加計学園問題はどうかというと、これも違うようである。

gendai.ismedia.jp

安倍政権がこの二つの問題で、証人喚問拒否、文書の存在の否定などを行ってきたのは、都合の悪いものがあるからではなく、そうするのが支持率を上げるのにつながるからだと思う。だから支持率が下がると再調査、文書の存在を認める方向にシフトした。
先に述べた「悪人探し」が今の安倍政権の支持率を下げているのかといえば、そうではないだろう。
むしろ逆で、「悪人探し」が安倍政権の支持率を支えていたのである。「悪人探し」は、人々が「悪人」を必要としているから行われる。だから悪人がいなくなってはむしろ困るのであって、安倍政権は国民が必要とする「悪人」を提供し続けることで政権を維持してきた。人を処刑するまで止まらない「悪人探し」も、時の政権にとっては政権維持の働きをする。
しかしそれが止まり、支持率が下がってきたのは、共謀罪法案の成立によるところも大きいが、安倍政権が「悪人」を演じることで支持率を上げる手法が限界に達したのである。
共謀罪法案が支持率下落の要因なのは確かだが、まだ大きく捉えることができないのは、共謀罪法案が安倍政権の支持率を支えている要因でもあるからである。

テロ等準備罪というが、日本にはオウム事件以降、テロ事件は起こっていない。今後起こる可能性も、日本にイスラム圏の移民がほとんどいない以上まずないといっていい。
だから共謀罪法案は、国民に無実の罪で逮捕される恐れを抱かせることで、国民の自由な活動を制限するのが目的である。
そして日本には、既に日本の衰退さえ望んでいると言っていい層が生まれ初めている。
アメリカに見離される可能性をトランプに突き付けられて、すっかりおとなしくなった右翼、増税に反対して年金が減額されたため、その現実を突き付けられたくないため、年金額が元に戻るのを望まない人々。
彼らは日本が後進国並に衰退すれば、「これは仕方がないんだ」と言えるようになると思い初めている。そういう人々が、自分達の正体を暴く者が現れるのを封じるために、共謀罪法案を指示しているのである。


もっとも安倍首相は優れた寝技師だが、寝技師は寝技師のままで終わる。憲法を改正するのは、安倍首相ではないだろう。

 

と、二年前に

安倍首相が「憲法改正に意欲」を示した意味 (おまけ)謎の共産党投票者達 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたのを、今私は思い出している。

野党は壊滅する - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたのと違い、来年の衆院選で、与党は3分の2を割ると思い初めている。
2020年の憲法改正発議まで、安倍政権は維持する必要があるとこの前まで思っていたが、今は政権維持にこだわっていない。
私は、自衛隊違憲とする裁判を起こす方法を考えている。そうすれば、最高裁の判決が出る前に憲法改正国民投票がなされるだろう。これは個人でもできることである。

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ドラゴンボールを考える④~『神と神』編:強くなるビルス

まずはこのOPから なんかすぐ削除されてしまいそうだけどww 

それでもアニメのOPのままで視聴するのがいいだろう。

 『限界突破×サバイバー』に代わるまで、約1年半『ドラゴンボール超』(以下『DB超』)のOPだった曲である。

 OPは大体据え置きで、EDは1クールごとに変わるという、原作をアニメ化していた時とは大分違うスタイルで、『DB超』は放送されている。

 EDは印象のない曲が多く、ネットでの評判も良くない。 しかし意図して、このようなスタイルをとられているようである。


 『ドラゴンボールGT』(以下『GT』と比較して、『DB超』の曲を批判する声もあった。 確かに曲は『GT』の方がいい。

しかし『GT』はきれいすぎるのである。 

『GT』はすでに完成された『DB』の世界観をそのまま引き継いで、さらに悟空達を活躍させようとした。その結果話が盛り上らず、きれいに話を畳もうとするようになった。 それに合わせて曲もきれいになっていった観がある。

 『DB超』は破壊神ビルス、そして後に全王を世界観の中心に据え、悟空を世界観の中心から外すことで、悟空達は不完全なキャラでいることができるようになり、常に新鮮なストーリー展開ができるようになった。

 『超絶☆ダイナミック』も、くたびれたオッサンがもう一度夢を見よう(なんか俺みたいww)という含みがあって、悪くない。

 『限界突破×サバイバー』も、何か秘密がありそうである。しかしまだ様子を見たいので、この話は後にしよう。

 『ドラゴンボールZ 神と神』 『ドラゴンボールZ 復活のF』を経て、『DB超』はスタートした。

 だから劇場版、TVアニメ、マンガ版の三つを比較した方がいいだろう。

 劇場版の『神と神』は、破壊神ビルスの顔見せの面がある。

 破壊神というと魔王同様に捉えられかねないので、悪人でない破壊神を視聴者に見せる必要があった。

 超サイヤ人ゴッド(以下SSJG)になった悟空は、自分一人でSSJGになれなかったことを悔しがるが、ビルスは「そんなことを言うサイヤ人は珍しいぞ」と言う。 

サイヤ人の人数が少ないので、悟空がサイヤ人の中で珍しい考えをするのかはわからない。

「そのプライドは弱点になるぞ」ともビルスは言う。

ビルスは悟空を、そして『DB』の世界観をも、これまでと違う方向に導こうとしているようである。


 『神と神』の時点で、悟空のキャラが大分変わっている。

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これは約束を守らない者の態度である。 原作の悟空は、こんなことを言わなかった。

 悟空はSSJGの力を八割までしか出していなかった。 

全力で戦おうとする時に、SSJGが時間切れになる。 しかし悟空はSSJGのパワーの大部分を吸収しており、それほどパワーダウンしない。

 TVアニメでは、悟空がSSJGのパワーを完全に吸収したことになっている。

 このように変更されたのは、不自然だからである。 

劇場版では地球を破壊しようとするビルスの攻撃を、一瞬だけSSJGになって跳ね返す。 

悟空がSSJGの力を吸収するだけで奇跡なのに、手続きを飛ばしてSSJGになるなど、奇跡が二度起こっている。この不自然さを解消するためにこのようにしたのだと思う。


 TVアニメでは、ビルスの破壊は無意味だという。

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と言って、星を半分破壊ww

単なる気紛れなのである。

 このビルスが、悟空に感化されて少しずつ変わっていく。 というのが『DB超』の重要な話の流れだが、劇場版ではビルスは七割の力を使っているのに対し、TVアニメでは全然本気じゃなかったという。

 マンガ版では、悟空のSSJGは解けていない。

 ちなみにマンガ版の悟空は、アニメのようなバカキャラなところはない。ただがさつなところが時々指摘されている。

 マンガ版の悟空は、ほぼ原作のキャラをそのまま引き継いでいる。

 SSJGでもビルス相手には力不足だが、徐々にSSJGの力を引き出していって、地球を破壊しようとするビルスの攻撃を跳ね返す。 

ビルスは「面白い」と言って、地球を破壊するのをやめる。 

ビルスの悟空に対する感情は、劇場版は感動であり、TVアニメでは感化されている。

しかしマンガ版は興味にすぎない。悟空の人格がビルスに与える影響がないのである。そしてビルスはやはり、少なくとも劇場版よりは強くなっている。 

これは結構深刻で、TVアニメ版はアホキャラの悟空を強調して、最終的に悟飯が悟空を越えて主役交代をすると思っていたが、マンガ版は原作の悟空に越えられない壁を作り、その壁を悟飯が越えることで主役交代を図ろうとしているようである。

その兆候は『未来トランクス編』まで進んでいる3巻に、既に表れているようである。


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護憲派は逃げるな!!

安倍首相が、2020年に憲法改正を行うと決めた。
内容は、憲法九条の一項と二項を残したまま、第三項として自衛隊を明記するというものである。
私は、この改正案に消極的に賛成である。
この憲法改正で、護憲派は一時的に息を吹き返す可能性がある。
この憲法改正は条文自体が矛盾するのだが、元々自衛隊違憲としながら、70年近く自衛隊を許容してきた護憲派である。鬼の首を取ったようにこの矛盾に目を瞑り、平和憲法は正しいと唱えるかもしれない。
私の望むのは九条の削除、自衛隊の明記であり、それに伴う戦前からの流れ全般の総括である
(参考

日本が憲法を改正しない本当の理由 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」


しかしそれが国民にすぐに受け入れられないならという意味で、九条を残した改憲もありだと思うが、その場合、護憲と改憲の議論は長期的に継続される。

この間、

憲法九条改正は全く不要である - 読む国会

という記事があった。
この記事では憲法九条を理念法とし、

憲法記念日こそ、あえて問い直す。我々国民は、九条の改正に時間と税金を使う政府に対し、十四条や二十五条の誠実な履行を求めていく必要があるのではないか。

 

と述べ、九条改正の必要を全くないものといっている。
九条は理念法ではない。
全文にあるならともかく、条文としてある以上、本来法的拘束力を求められるべきものである。だから「やはり軍隊は必要」という平明な現実論があり、その平明な現実論に「右翼!」と反撃するレッテル貼りの議論が繰り返された長い歴史があるのである。
十四条や二十五条の「誠実な履行」というが、それができていないのも、平和憲法があったからである。
戦後の日本の政治は、経済にしろ何にしろ、多くの政治問題の対立は表面的なもので、潜在的な護憲と改憲の対立が真の対立軸だった。このことは

「この道しかない」の本音は、「憲法を守るにはこの道しかない」 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

などで、私が主張してきたことである。

田中角栄、バブル、そして憲法 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で、バブル経済が護憲と改憲の対立のために生まれたものだと指摘したが、バブル、55年体制崩壊後の「失われた20年」の時代は、悪玉だった自民に変わる悪人探しの時代である。
この時代の悪人は多くは官僚で、そのため日本はデフレ経済に陥った。
改憲を期す自民が政権の座にいないため、国民の悪人探しは90年代後半から2000年代に渡り、存在しない悪人を探して猛威を奮った。悪人探しは永田町、霞ヶ関以外にまで波及し、朝青龍問題や、死刑廃止を巡ってアグネスティ・インターナショナルと徹底的に対立するまでに至ったのである。

戦後の年金制度は、多くを企業年金に依存し、終身雇用制度によって全ての国民が年金を受給できるようにしてきた。
しかし終身雇用制度が崩壊したことで、年金を満足に受け取れない層が生まれた。
この層に満足な年金が行き渡るように制度変更をするには、企業年金に依存しないEU諸国よりも大きな力が必要だった。
その力を完全に削いだのが、護憲と改憲潜在的な対立である。
護憲派は多くが革新でありながら、消費増税に反対し、年金制度維持のための財源作りを阻害してきた。
結局消費増税を進めてきたのは、ほとんどが自民である。
その消費増税も限界に達し、とうとう去年、安倍首相は年金を減額した。
年金が減額された以上、政府支出を増やして景気を拡大しようとしても、国民は収入を貯蓄に回すため、景気は拡大しない。だから今後、ケインズ主義的な政策はほとんど行われない。消費増税ケインズ政策がセットで実施できる環境が整った時のみ、ケインズ政策は実施される。
護憲と改憲の対立は潜在的だからこそ、改憲により対立を解消しない限り無くならない。
そして消費増税は、革新勢力のバックアップ無しに、年金制度を維持できる率に押し上げることはできない。しかし革新勢力は、護憲と改憲の対立を利用して、中間層の利益のみを図り、貧困層を無視した。
改憲をスルーして貧困対策を行うなど、所詮不可能なのである。

読む国会氏の記事は、護憲派の逃げの記事である。
その後読む国会氏は、

国会が無力化した夜 - 読む国会

などで、共謀罪法案を批判したが、私も検証不十分ながら、共謀罪法案を危険なものと思っている。
しかしそれも、

特定秘密保護法、解釈改憲、靖国参拝 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたようなことを、政府と国民が繰り返してきた結果なのである。
国民は改憲を必要としながらも、自分達が改憲に踏み切れないから、政府に横暴であることを求め、自分達は被害者だという体裁をとろうとする。
それを繰り返すうちに、本当に必要な権利まで奪われようとしているのである。

貧困の解消も権利の保全も、護憲派が逃げの議論を繰り返す間はできない。

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日本型ファンタジーの誕生⑩~グロテスクな怪物たち

昔あるブロガーが「虫も子供の頃から慣れ親しんでいれば、大人になっても虫に触れるようになる」と言っていたが、私は違うと思った。

 私は子供の頃に平気で虫に触っていたが、今は全く触れないからである。

 ただ、なぜ子供の頃に触れた虫に、今触れないのか、その時はわからなかった。しかし今は答えられる。


 80年代から、マンガやアニメにグロテスクな怪物が登場するようになってくる。その始まりは、私が思うに『風の谷のナウシカ』である。

 『風の谷のナウシカ』には、蟲と呼ばれる怪物が出てくる。

この蟲は昆虫を大きくしたようでいて、昆虫よりグロテスクである。

 ナウシカは蟲が好きで、ことあるごとに蟲を助けようとする。ナウシカが蟲が好きなことで、読者も蟲に感情移入できる構成に、風の谷のナウシカはなっている。

 しかし構成によっても、蟲への感情移入は個人差があって、私はナウシカを介しても、蟲に感情移入できない方だった。 そこで原作者の宮崎は、蟲に感情移入できるように仕掛けを施していく。

 例えば蟲の王である王蟲は、「個にして全、全にして個」だという。ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワンというわけだ。

 しかし「個にして全、全にして個」の行き着く先は、大海嘯で供に食い合い、供に滅び、腐海の森になることだった。宮崎が蟲に善の要素を付け加えるほど、その善は破滅的なものになっていった。

 私は映画の『ナウシカ』は好きではないが、原作マンガの方は好きなのは、ここに理由がある。

 蟲のグロテスクさは、そのまま人間の心の醜さであり、このグロテスクな怪物を善なるものにしようとしても様にならず、感情移入し同一化しようとすれば、結局同一化した者(この場合は人間)も破滅への道を歩んでしまうのである。だから大団円になった映画の『ナウシカ』は、どうしても不自然に感じてしまう。

 私が蟲に触れないのは、子供の頃に虫に親しまなかったからではなく、虫に人間の醜さを見るからである。

それは子供の頃には感じることはなく、人生経験によって得られるものである。

 そして『風の谷のナウシカ』は、破滅の中に自らの道を見出だした傑作である。

 『風の谷のナウシカ』は、

日本型ファンタジーの誕生④~戦後の平和主義的正義観を変えたガンダム - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

以降のストーリー作品の変化の指標となる作品である。

 『ナウシカ』のようなグロテスクな怪物が登場する作品が表れる一方で、『ドラゴンボール』やRPGのような、キャラクターが無限に成長する作品が登場するようになる。

 人間が急激に、天上知らずに成長するのは、本来の人間の成長のあり方ではなく、消費者の手っ取り早く成長したいという願望が反映されている。

 このように言うと不健康なことのようだが、私はそんなに不健康なことではないと思っている。

 『ナウシカ』以降のグロテスクな怪物の中には、バイオテクノロジーの発展の影響もあって、細胞が急速に増殖して巨大化したり、固体で進化する生物が登場したりする。

 例えばこのような。 このような怪物は、天上知らずに成長するキャラクターの裏の顔である。

 消費者は天上知らずの成長を、人間の成長ではなく、人間以外の生物に進化するものと捉えており、このような怪物も合わせて消費することでバランスをとっていた。

 細胞増殖や固体で進化する怪物は、欠損部が急速に回復する種類の怪物とも親和性がある。 ピッコロのように欠損部がモコモコと動いて回復しようが、『進撃の巨人』のように蒸気を出して回復しようが、そのような回復の仕方をする生物も、人々は怪物だと捉えていた。

 『進撃の巨人』で、エレンの傷の回復する様子を見せないのは、エレンを人間だと認識させるためである。

読者はエレンを人間と思っているから、欠損部の回復を奇跡のように見る。 


また、『進撃の巨人』の逆を行った作品もある。

 『亜人』の永井圭は人体実験で身体の各部を切断され、とどめをさされてまた人体実験をされるという苦痛を何日も味わう。 

また『東京喰種』の金木研は、手足の指を何度も切断させる拷問を受ける。

 両者ともこのような拷問を受けて、精神的に変化する。

 この拷問は、神話学的には通過儀礼なのだが、この拷問の意味は『東京喰種』の方が、その意味を理解する意味では良く表している。

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この拷問は自分が怪物であり、怪物としての自分を受け入れるための通過儀礼なのである。 古代史、神話中心のブログ「人の言うことを聞くべからず」+もよろしくお願いします。