坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

日本型ファンタジーの誕生⑪~『亜人』:永井圭

亜人』は一巻では原作が三浦追儺、作画が桜井画門となっており、二巻以降から原作、作画共に桜井画門となる。

 なぜそうなったのか、講談社は語っていないが、想像を広ければ、設定は三浦が行ったが、作品にテーマを与え、テーマに基づいたストーリーに変えていったのが桜井ではないかと思う。


 永井圭は、突如交通事故に合い、生き返ることで自分が亜人と知り、周囲の人達にも知れる。

 『亜人』の重要なテーマのひとつは差別である。亜人とわかった人は、国に隔離される。

 隔離されることを怖れた永井は逃亡し、その逃亡を旧友の海斗が助ける。将来医者になろうとする永井は、父親が犯罪者の海斗と、それまで縁を切っていた。

 亜人は死なないのかと言えばそうではなく、死んで生き返る人間のようである。 

そこらへんは作中で議論になっているが、それはともかく、『東京喰種』の喰種のように、傷が急速に回復するのではなく、死んで生き返ると傷が全快するのが亜人である。(傷だけでなく、病気も完全に治る) 

逃亡中に足の骨を折り、永井は途方に暮れるが、その心情描写が妙である。

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なぜ永井は、自分を人間じゃないと思うのだろう。

 成績優秀な永井は、本来スクールカーストの上位にいた。なぜそのプライドが持てなかったのだろう?

 永井は首を刺してこと切れ、復活することで足の骨折を修復する。それを見た海斗の表情である。

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あ、指入っちゃった。直んねえ。まあいいやww

永井は海斗と別れ、紆余曲折を経て厚生労働省に捕まり、手足を切断され、とどめを刺されて復活し、また手足を切断されるという凄惨な人体実験を何日も受ける。

 人体実験を受ける中で、永井は幻想の中の田中功次と会話をする。 田中は人間を殺せという。

永井は黒い幽霊(以下IBM)で人間を攻撃しようとするが、その攻撃が人に当たる直前で、永井が自分を殺した時の海斗の表情が脳裏に浮かぶ永井のIBMがぶれ、その攻撃は外れる。 

下村泉は、永井とIBMのリンクが弱いと分析するが、ここで読者は、作者によってミスリードされている。

 永井のIBMは永井のいうことを聞かず、攻撃衝動が強い。しかしこの時IBMが人間を攻撃しなかったのは、永井とIBMのリンクが読者の想像よりは強いことを表している。

 永井は他の亜人よりも多くのIBMを出せ、IBMが形を保つ時間も長い。それをオグラ・イクヤは「異常なほどIBMが濃い」という。 

IBMとは、思うに人の心の闇だろう。 別に悪だという意味ではない。悪人でなくともIBMを操る亜人は多く登場する。 

中野攻がIBMを出せないのは、心に闇を持たないからである。永井のIBMが攻撃衝動が強いのは、それが永井の本性だからである。この点も、オグラ・イクヤが指摘している。

そして永井のIBMがしばしば中野を攻撃するのは、永井が心に闇を持たない中野が嫌いだからである。 

亜人だと分かる前、永井はスクールカーストの上位者だった。その永井の心の闇は、悲惨な人生を送ってきた下村泉や田中よりも深く大きいのである。 


永井の幻想の田中は、「なぜ人間を攻撃しない?」と永井に問う。

 「海斗に嫌われてしまうかもしれないから」と永井は答える。

海斗は自分のために命を賭けたが亜人である自分は命を賭けることができない。だから、

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と永井は言う。

 永井のような心境は、常に虐げられてきた人が陥る心境である。 破滅の中に、自分の存在意義を見出だそうとする。

カラマーゾフの兄弟』で、父殺しの嫌疑で逮捕されたドミトリーがこの心境になり、自分が犠牲になることが社会、引いては人類の救済に繋がると思うようになる。

 このような心境には、比較的若い人が陥るようだが、注意しなければならないのは、その自己犠牲が本当に多くの人を救うことになるのかは、実はわからないということである。本人がそう思い込んでいるだけのことが多い。

 しかしスクールカーストの上位者である永井が、つい最近陥った境遇で、なぜこれほど追い詰められているのか? 

それは、差別に理由がないからである。 差別に理由がついている場合、それはもっともらしい理由がついていても、真実理由になっていない。だから差別するものは、差別によって真に支えられていない。

 だから差別するものは、差別される側に立った時、比較的容易に、いやむしろ安易に、差別を受け入れてしまう。

 特攻隊員が、次々と自己犠牲に飛び立っていく理由も、調べたことはないが、同じ理由で説明できそうである。

 特攻隊の志願書が回ってきた時、誰かが志願しなければならないという意味で、志願は強制である。 自分は死にたくない。だから他人に押し付けようとする。 

「なぜお国のために死なないのか」と言ったりし、また殴ったりする。 こうして次々と特攻機が飛び立っていく。

しかし特攻隊員が死んで人が減ってくると、やがて自分達にお鉢が回ってくるようになる。 そして自分が「なぜお国のために死なないのか」と言われるようになる。その時には、もう「俺は死にたくない」とは言えなくなっている。

「なぜお国のために死なないのか」と言った時点で、その人が自分を守る言葉を投げ捨て、手の届かない所に追いやってしまったからである。 


亜人が自分を殺して復活する姿は、自傷行為に見える。 

自傷行為は全ての日本型ファンタジーの作品に描かれている。『進撃の巨人』の巨人化はもろに自傷行為だし、『アイアムアヒーロー』にも、自分の足を喰うZQNが登場する。『東京喰種』にも、鈴屋十三のボディステッチ(体に糸を縫うこと)や、有馬貴将に負けた金木研が自分の目をほじくる行為などに、自傷行為が表れている。

 永井と海斗の心情はずれている。自分を殺す行為をした永井を見た海斗の表情から、永井は人を傷つけてはならないと思うが、海斗の表情は、自分を傷付ける者への憐れみなのである。

 しかし永井この時、人を傷つけてはいけないという道徳を、自分のものにしたのである。


 佐藤と戦うことを決意した永井は、戸崎のグループで多くの作戦を立案する。

その作戦の多くは、多くの人を犠牲にする作戦である。 その中で永井は、人と情を交わらせるのを恐れ、また必要なのではないか思うという、矛盾した想いに苛まれる。

 佐藤との戦いで、永井の策が次々と佐藤に破られ、永井は最後の策を明かす。

 それは、ビルの中に全ての人を閉じ込め、決着がつくまで戦うというものである。そうすれば、亜人以外はほとんど死ぬだろう。しかし永井は、

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と言うのである。

実行するのは自分である。それを他人がすることのように言う。

 マキャベリストとは、他者を犠牲にする場合、自分にとって必要だという理由以外の自己正当化を不要、というよりむしろ有害だと思うタイプの人間である。

 よく見ればナポレオンもチャーチルも、時に自分を全面的に正当化したい衝動を押さえきれていないようだが、それでも彼らの行動はマキャベリストそのものである。

 マキャベリストは自分を全面的に正当化しないという点で、ひとつの生の在り方として健康的な人々であり、それゆえに多くのマキャベリストでない人達をも魅了してきた。


 永井の母は永井を「情動的な父親に少し似た」と言うが、はたして少しだろうか? 

作者はまだ、読者に永井をマキャベリストだと思わせておきたいので、ミスリードすることを狙っているようである。 

マキャベリ的な永井の計画は、永井の強靭な頭脳が生み出しているが、頭脳がマキャベリストを作るのではない。

 永井はマキャベリストではない。道徳的に生きるしかない人間である。

 『亜人』は永井から見た場合、道徳的でヒューマンな自分を取り戻す物語である。

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弁護士が無能すぐるww③

sakamotoakirax.hatenablog.com

の続き。 先日、日弁連から通知がきた。

主文
本件異議の申出を棄却する。
理由
当部会が審査した結果、同議決書(山形県弁護士会の議決書)の認定と判断に誤りはなく、同弁護士会の決定は相当である。

 議決書には、日本弁護士連合会綱紀委員会第2部会長川端基彦とある。ふーんこの人が決めたのねww

で、綱紀審査委員会に申出ができるとのことなので、今日文書を提出した。 以下全文。

弁護士とは論理のわからない人がなる職業のようなので、分かりやすく説明する。
山口弁護士が「弁護士は紹介できませんので」と嘘をついたことは、原弁護士会山形県弁護士会のこと)の議決書が否定しておらず、否定しないことで嘘をついたことを原弁護士会は暗に認めている。
私は異議申出書で、「『弁護士は紹介できませんので』と対象弁護士が嘘をついたことはこれだけで弁護士法第一条、第二条に違反し、この嘘から対象弁護士の態度は「懲戒請求者の主張するような態度だと言えるので、やはり弁護士法第一条、第二条に違反している」と述べた。
弁護士法第一条の二は、「前項の使命に基づき、誠実にその職務を行」うとあり、第二条は「常に深い教養の保持と高い品性の陶やに努め」とある。嘘をつくことが「誠実にその職務を行」うことになるはずも、「高い品性の陶やに努め」ることになるはずもない。
それを原弁護士会は「嘘をついた」を、「弁護士を紹介しないこと」に話をすり替えた。
日本弁護士連合会が何をどう審査したのか、議決書からはさっぱりわからないが、懲戒すべき理由は私の主張の中で完結しており、対象弁護士に相当の理由があってはじめてそれが覆るものである。
しかし原弁護士会、日本弁護士連合会双方の議決書には対象弁護士を懲戒しない相応の理由が全く見られない。よって日本弁護士連合会の決定は著しく不当であり、即刻決定の取り消しを求める。

 

そもそも、法律は人間同士が信頼しあえないことを前提に作られている。

 それなのに弁護士が守る法律に限って「誠実に職務を行い」とか、「高い品性の陶やに努め」とか、実におかしい。

 私の母親は、「裁判をするのは悪いことだ」と、常に言っていた。 

私の母親は異常な人間ではない。平均的な日本の親である。 

だから我々は、弁護士など詐欺師同然にしか思っていない。 

今回の日弁連の決定は、弁護士自体が詐欺師であることをあからさまに示したものである。 

綱紀審査委員会は、弁護士以外の人で構成されるらしい。 しかしこのふざけっぷりなら、山口紗世子は免責されるだろう。

小池田マヤ『しのぶもちずり』

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小池田マヤの『しのぶもちずり』は労作である。

 傑作ではない。しかしこの作品は、作家の使命感がある。

 それは「主人公にならない人間を主人公にする」というものである。

 創作とは既成のものを打ち破るものであり、そうである以上紋切り型の作品を作る作家でも、既成のものを打ち破るのは半ば義務のようなものであり、それをしない場合、たとえ紋切り型の作品がヒットしていても、暮夜密かに作家を悔やませるものである。


 『家政婦さんシリーズ』では、全体を通じての主人公は家政婦の小田切里だが、各シリーズごとの主人公がいて、(大抵は依頼主)『しのぶもちずり』の主人公は依頼主の信夫十忍(しのぶとしのぶ)である。

 信夫は営業マンで、メンヘラである。

 営業の仕事ほど、自分の仕事の意味が分からずに悩む仕事はない。それが「主人公にならない人間を主人公にする」作品とする第一の理由である。

 営業の仕事で神経を磨り減らし、周りにはしっかりしている人のように見えても、何かに頼りたいと思ったり、人と関わるのが苦痛で身を捩ったりする。信夫はそれで離婚した。

 離婚してもしっかりして見えるし、営業マンらしく物腰が丁寧なので、信夫はもてる(男にも)。

それで家政婦とのトラブルがあり、嫌気が差した信夫が家政婦派遣に提示した条件は「依頼主と顔を合わせないこと」だった。


 『家政婦さんシリーズ』の醍醐味は、依頼主の理不尽な要望に里が答えて、なおも依頼主を満足させていくところにあるが、このシリーズでも、里は顔を合わせずに、信夫の満足のいくサービスを提供していく。 

結局顔を合わせた二人は恋仲になるが、里は信夫のメンヘラに付き合い切れなくなる。

 メンヘラは周囲を疲れさせ、人が離れていく。 

これは信夫が営業の仕事をする限り、宿命のようなものである。

 そしてこれが信夫が本来主人公になれない第二の理由である。人が幸福になるのに人とのつながりが必要なら、信夫は永遠に幸福になれない。

ハッピーエンドを迎えられない信夫は、普通は主人公になれないのである。

 しかし信夫は幸福にはなれないが、誇りがある。誇りが幸福に変えられるものだとは思わないが、幸福の代わりに誇りを持って信夫は生きていく。

信夫は多くの幸福になれない人々の代表である。


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信長の戦い②~うつけの正体

信長の父の信秀の代に、織田家は三河安城城、大垣城に進出していた。しかし安城城は今川の手に渡り、大垣城も信長が家督を継いだ年に斎藤氏に戻った。
こうして、信長の勢力尾張国内に限定され、信長の戦争もほとんどが尾張国内で行われる。家督を継いだばかりで、世評の良くない信長として、妥当な行動である。

信長公記』によれば、信長が家督を継いで最初に戦ったのは山口左馬之助とその息子の九郎二郎である。山口の軍勢は千五百、織田勢は八百である。この時織田勢は「上槍を取られた」とある。
「上槍を取られた」とはどういうことか?私は古文献に詳しいものではないが、「上槍を取られた」という記述を『信長公記』以外に知らない。
「上槍を取られた」とは、敵方の槍を自分の槍で上から押さえつけたということである。
「上槍を取られた」側は、確かに消耗が激しいだろう。しかしこの合戦は、勝敗がついていない。捕虜になった兵や馬を交換しあって両軍とも引き上げている。倍近い兵力に対し、信長は善戦したといえる。「上槍を取られた」のは兵力差から見て当然と言えるし、上槍を取った側が真面目に戦っていないような印象を受ける。

村木の砦を攻めた時は、斎藤道三に兵を借りて、那古野城を守らせて出兵している。
この時の織田勢は「数知らず負傷者・死者が出て、目も当てられないありさま」だったとある。秋山駿もその著『信長』で述べているように、「自分の力の減少を賭けて闘っ」ている。

信長のエピソードとして「火起請」がある。
「火起請」とは古代からの裁判の手段で、焼いた鉄を握らせて、持てるか否かで有罪か無罪かを決めるものである。
このエピソードは信長が無神論者だという認識が崩れた2000年代頃から作家や研究者が取り上げ始めた。
領内で窃盗があり、真偽の判定のため火起請が行われたが、容疑者は鉄を取り落とした。しかし容疑者の仲間は容疑者をかばって成敗させまいとした。
そこで信長は自ら火起請を行い、焼いた鉄を持って三歩歩き、容疑者を成敗した。この容疑者は信長の乳母兄弟の池田恒興の家来である。
やると決めたら必ず実行し、自分に近い者にも容赦しないし、犠牲も厭わない。
信長は、ちんどん屋のようなスタイル以上に、この性格によって警戒され、「うつけ」と呼ばれたようである。
「上槍を取られた」と言われたのも、信長を警戒する世間がことさらに嘲笑してみせたのではないかと思う。

信長が清洲城を手に入れた後、信長は奇妙なことをしている。
信長は清洲城尾張守護の斯波氏に譲った。これは斯波氏を神輿にする信長にとって当然の選択だが、その後信長は隠居と称し、北の櫓に移った。
信長は何の隠居になったのか?
もちろん斯波氏の隠居でも、織田家の隠居でもない。
信長は清洲城主の隠居となったのである。
しかし隠居とは家のシステムでの立場なので、城主の隠居というのはあり得ない。だから信長の態度は常識から外れているのだが、この行為により、信長は前守護職であるかのような印象を世間に与えた。しかも詐称ではない。

の信長が家督を相続してから、尾張国内での暗殺事件が相次ぐ。
尾張守護の斯波義統、信長の叔父の織田信光、信長の弟の秀孝、秀俊が殺されている。
太田満明はその著『桶狭間の真実』で、一連の暗殺の首謀者を信長だと推測する。
しかしそう思うのもわかるが、私はこの推測に同意しない。
信長の弟がそれほど重要な人物だったとは、私には思えないのである。信長にとって危険だったのは、やはり同母弟の信行くらいだろう。
信長の父信秀は、尾張の外に進出することで尾張の旗頭となり、信秀の存在により尾張の秩序は維持されていた。
信秀の死後、信長の行動は尾張に限定された。これ自体は妥当な行動だが、尾張の人々の目も国内に向くことで、下剋上が急激に進行したのである。はたして信秀のくたびれ儲けだったのか、それとも信秀が潜在的下剋上を進行させていたと見るべきか。おそらく両方だろう。
津本陽は『下天は夢か』で、叔父の信光暗殺のみを信長が黒幕だとしている。信光は守護代清洲織田について信長と戦いながら、信長と通じて守護代を殺している。津本の推測が妥当だろう。

このような尾張の情勢で、弟の信行が謀反を起こし、信長は稲生で信行と戦う。
ここで奇跡的なことが起こる。信長が信行軍を一喝すると、信行の軍勢が崩れて逃げ出したのである。
これを秋山駿は信長の人格的威厳とし、ナポレオンに比肩するものだとする。
信長に人格的威厳があることは、否定しない。しかしそれが主な原因で、信行軍が崩れたのではない。
尾張国内では下剋上が進行したが、その実態は何者でもない者が、主筋の人物を殺していただけである。
この尾張の無秩序がピークに達した後、人々は秩序の回帰を望むようになった。その時信長は尾張の前守護に準ずる者であり、さらに美濃の潜在的領主である。実は信長は、尾張で最も権威のある人物だったのである。
鉄砲の三段射ちや鉄船などの信長の技術革新は、現在ではあらかた否定されている。信長が天下を取った資質として見るべきは、その政治力である。その政治力は時として極めて日本的で、時に日本の政治の在り方を知悉し抜いてそれを破壊する。信長の尾張での戦いには、その原形がある。

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維新はなぜ共謀罪法案に賛成したのか

サブブログ更新の予定だったが、予定外の事態のため、メインを更新する。サブ更新は来月行う。 問題はこの記事、

www.asahi.com

森友、加計学園豊洲市場移転問題、など、前回の記事とかぶっている。安倍政権の支持率については、私が下がっているとしたのに対し、橋下氏は「支持率が高い」という見解で論じている。

 偶然にも論点が被りすぎたせいか、またさすが橋下氏というべきか、私のPVが下がっているww

そこで今回の記事だが、この記事の内容は橋下氏の記事への反論ではない。


 なぜ維新は共謀罪法案に賛成したのだろうか? 

保守だからというのは正しくない。維新は自民に変わって政権を目指す党である。自民と同じことをするなら、自民に吸収合併されればいい。

 政権を目指すということは、反野党なのである。

日本の政治の全ての案件による対立は表層的なもので、潜在的には護憲と改憲の対立だと、このブログで何度も指摘してきたが、護憲の立場の野党の場合、「なんでも反対」になる。 

現在の民進党につながる旧民主党がうまくいかなかったのは、二大政党制の一翼を担う立場と、護憲の立場としての「なんでも反対」の二面性を持っていたからである。

旧民主党も何度か政権の座に就いて入れば、政治への責任感が芽生えたかもしれないが、安倍政権のように長期政権、そして何より国民に強面な態度を示す政権に対しては「なんでも反対」になる。


 維新はこれまで、安保法制や労働者派遣法改正などについては、自民に譲歩しながら妥協案を提示してきた。 

それが今回無かった。松井代表は「譲歩させた」と言っているようだが、どのような譲歩を勝ち取ったのかわからない。 つまり、国民に胸を張って譲歩を勝ち取ったと言えるようなものが、今回の維新には無かったのだろう。共謀罪法案は、妥協案を提示できる代物では無かったということである。

 ならば反対すればいいとはいかないのである。

 自民に反対すれば、「なんでも反対」の野党と変わらなくなっていく。政権を担う党になるためには、「なんでも反対」の野党と一線を画さなければならないのである。


 思うに、維新とは新撰組である。 つまり、「一、士道に背くべからず、背けば切腹!」という、鉄の隊規を持っている政党である。上西小百合議員への処遇や、最近では離党届を出した党員をその日付で除名するなどの対応に、鉄の規律ぶりが表れている。 

この厳しさに党員が耐えていけるのは、政権を担うという意識と、「他の野党とは違う」という意識である。その意識がある限り、維新は何がなんでも野党と同じ行動はとれないのである。


 全ての橋下氏の言動を見たわけではないし、橋下氏がツイッターのアカウントを変更したりしたので確かなことは言えないが、共謀罪法案について橋下氏が言及したのは、共謀罪法案成立前後のようである。 

橋下氏は共謀罪法案から距離を置きたかったが、安倍政権の支持率が下がり、維新に波及しないようにてこ入れに入ったというのが真相のようである。


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「正論が通る時代」と共謀罪法案

トピック「共謀罪」について
桝添前都知事が辞任した時、「もう都民税払いたくないですよ」と答える人がいた。
冗談じゃねえ、お前らちゃんと都民税払えよ、と私は思っていた。
桝添氏は問題であっても辞任させるほどではないと私は思っていた。
桝添氏のように、日本には悪者に指定されて、そんなに悪くないのに、あるいは全く無実なのに罪とされ、集団で叩かれる例が多くある。
「失われた20年」と言われた時代は、

護憲派は逃げるな!! - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、この悪人探しが猛威を奮った時代だった。
この悪人探しの勢いが、ここにきてようやく止まってきたようである。そのことを示すのが、豊洲市場移転問題である。
地下水という、本来使用しない水の汚染を問題としたこの騒動は、石原元都知事などに矛先が向いたが、結局石原氏の責任とはならず、豊洲への移転も決定した。
悪人探しは、「悪人」に指定された人を処刑するまで止まらないのが、これまでの流れだった。しかし石原氏は免責された。「正論が通る時代」となったのである。

安倍政権の支持率が下がっている。
もっとも

news.yahoo.co.jp

にみられるように、マスコミのアンケート結果はまちまちだが、支持率が下がっているのは間違いないようである。
支持率が下がっている理由として、共謀罪法案、森友、加計学園があげられている。
このうち森友学園問題は、既に政治問題ではない。現在籠池前理事長に捜査の手が及んでいるが、容疑は詐欺罪等であり、汚職ではない。
ならば加計学園問題はどうかというと、これも違うようである。

gendai.ismedia.jp

安倍政権がこの二つの問題で、証人喚問拒否、文書の存在の否定などを行ってきたのは、都合の悪いものがあるからではなく、そうするのが支持率を上げるのにつながるからだと思う。だから支持率が下がると再調査、文書の存在を認める方向にシフトした。
先に述べた「悪人探し」が今の安倍政権の支持率を下げているのかといえば、そうではないだろう。
むしろ逆で、「悪人探し」が安倍政権の支持率を支えていたのである。「悪人探し」は、人々が「悪人」を必要としているから行われる。だから悪人がいなくなってはむしろ困るのであって、安倍政権は国民が必要とする「悪人」を提供し続けることで政権を維持してきた。人を処刑するまで止まらない「悪人探し」も、時の政権にとっては政権維持の働きをする。
しかしそれが止まり、支持率が下がってきたのは、共謀罪法案の成立によるところも大きいが、安倍政権が「悪人」を演じることで支持率を上げる手法が限界に達したのである。
共謀罪法案が支持率下落の要因なのは確かだが、まだ大きく捉えることができないのは、共謀罪法案が安倍政権の支持率を支えている要因でもあるからである。

テロ等準備罪というが、日本にはオウム事件以降、テロ事件は起こっていない。今後起こる可能性も、日本にイスラム圏の移民がほとんどいない以上まずないといっていい。
だから共謀罪法案は、国民に無実の罪で逮捕される恐れを抱かせることで、国民の自由な活動を制限するのが目的である。
そして日本には、既に日本の衰退さえ望んでいると言っていい層が生まれ初めている。
アメリカに見離される可能性をトランプに突き付けられて、すっかりおとなしくなった右翼、増税に反対して年金が減額されたため、その現実を突き付けられたくないため、年金額が元に戻るのを望まない人々。
彼らは日本が後進国並に衰退すれば、「これは仕方がないんだ」と言えるようになると思い初めている。そういう人々が、自分達の正体を暴く者が現れるのを封じるために、共謀罪法案を指示しているのである。


もっとも安倍首相は優れた寝技師だが、寝技師は寝技師のままで終わる。憲法を改正するのは、安倍首相ではないだろう。

 

と、二年前に

安倍首相が「憲法改正に意欲」を示した意味 (おまけ)謎の共産党投票者達 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたのを、今私は思い出している。

野党は壊滅する - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたのと違い、来年の衆院選で、与党は3分の2を割ると思い初めている。
2020年の憲法改正発議まで、安倍政権は維持する必要があるとこの前まで思っていたが、今は政権維持にこだわっていない。
私は、自衛隊違憲とする裁判を起こす方法を考えている。そうすれば、最高裁の判決が出る前に憲法改正国民投票がなされるだろう。これは個人でもできることである。

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ドラゴンボールを考える④~『神と神』編:強くなるビルス

まずはこのOPから なんかすぐ削除されてしまいそうだけどww 

それでもアニメのOPのままで視聴するのがいいだろう。

 『限界突破×サバイバー』に代わるまで、約1年半『ドラゴンボール超』(以下『DB超』)のOPだった曲である。

 OPは大体据え置きで、EDは1クールごとに変わるという、原作をアニメ化していた時とは大分違うスタイルで、『DB超』は放送されている。

 EDは印象のない曲が多く、ネットでの評判も良くない。 しかし意図して、このようなスタイルをとられているようである。


 『ドラゴンボールGT』(以下『GT』と比較して、『DB超』の曲を批判する声もあった。 確かに曲は『GT』の方がいい。

しかし『GT』はきれいすぎるのである。 

『GT』はすでに完成された『DB』の世界観をそのまま引き継いで、さらに悟空達を活躍させようとした。その結果話が盛り上らず、きれいに話を畳もうとするようになった。 それに合わせて曲もきれいになっていった観がある。

 『DB超』は破壊神ビルス、そして後に全王を世界観の中心に据え、悟空を世界観の中心から外すことで、悟空達は不完全なキャラでいることができるようになり、常に新鮮なストーリー展開ができるようになった。

 『超絶☆ダイナミック』も、くたびれたオッサンがもう一度夢を見よう(なんか俺みたいww)という含みがあって、悪くない。

 『限界突破×サバイバー』も、何か秘密がありそうである。しかしまだ様子を見たいので、この話は後にしよう。

 『ドラゴンボールZ 神と神』 『ドラゴンボールZ 復活のF』を経て、『DB超』はスタートした。

 だから劇場版、TVアニメ、マンガ版の三つを比較した方がいいだろう。

 劇場版の『神と神』は、破壊神ビルスの顔見せの面がある。

 破壊神というと魔王同様に捉えられかねないので、悪人でない破壊神を視聴者に見せる必要があった。

 超サイヤ人ゴッド(以下SSJG)になった悟空は、自分一人でSSJGになれなかったことを悔しがるが、ビルスは「そんなことを言うサイヤ人は珍しいぞ」と言う。 

サイヤ人の人数が少ないので、悟空がサイヤ人の中で珍しい考えをするのかはわからない。

「そのプライドは弱点になるぞ」ともビルスは言う。

ビルスは悟空を、そして『DB』の世界観をも、これまでと違う方向に導こうとしているようである。


 『神と神』の時点で、悟空のキャラが大分変わっている。

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これは約束を守らない者の態度である。 原作の悟空は、こんなことを言わなかった。

 悟空はSSJGの力を八割までしか出していなかった。 

全力で戦おうとする時に、SSJGが時間切れになる。 しかし悟空はSSJGのパワーの大部分を吸収しており、それほどパワーダウンしない。

 TVアニメでは、悟空がSSJGのパワーを完全に吸収したことになっている。

 このように変更されたのは、不自然だからである。 

劇場版では地球を破壊しようとするビルスの攻撃を、一瞬だけSSJGになって跳ね返す。 

悟空がSSJGの力を吸収するだけで奇跡なのに、手続きを飛ばしてSSJGになるなど、奇跡が二度起こっている。この不自然さを解消するためにこのようにしたのだと思う。


 TVアニメでは、ビルスの破壊は無意味だという。

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と言って、星を半分破壊ww

単なる気紛れなのである。

 このビルスが、悟空に感化されて少しずつ変わっていく。 というのが『DB超』の重要な話の流れだが、劇場版ではビルスは七割の力を使っているのに対し、TVアニメでは全然本気じゃなかったという。

 マンガ版では、悟空のSSJGは解けていない。

 ちなみにマンガ版の悟空は、アニメのようなバカキャラなところはない。ただがさつなところが時々指摘されている。

 マンガ版の悟空は、ほぼ原作のキャラをそのまま引き継いでいる。

 SSJGでもビルス相手には力不足だが、徐々にSSJGの力を引き出していって、地球を破壊しようとするビルスの攻撃を跳ね返す。 

ビルスは「面白い」と言って、地球を破壊するのをやめる。 

ビルスの悟空に対する感情は、劇場版は感動であり、TVアニメでは感化されている。

しかしマンガ版は興味にすぎない。悟空の人格がビルスに与える影響がないのである。そしてビルスはやはり、少なくとも劇場版よりは強くなっている。 

これは結構深刻で、TVアニメ版はアホキャラの悟空を強調して、最終的に悟飯が悟空を越えて主役交代をすると思っていたが、マンガ版は原作の悟空に越えられない壁を作り、その壁を悟飯が越えることで主役交代を図ろうとしているようである。

その兆候は『未来トランクス編』まで進んでいる3巻に、既に表れているようである。


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