坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

『娚の一生』『姉の結婚』

いつの時代も、文化は若者のものでなければならないと思う。

 しかし高齢化の時代には、若者が文化の中心でありながらも、中高年の文化に占めるシェアが大きくなる。この点、『娚の一生』と『姉の結婚』は成功した作品と言える。


 しかし、成功したこれらの作品にも、不安の残るところがある。 『娚の一生』の堂園つぐみ30半ばである。しかし、

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これでは若すぎる。

 もっともこれは田舎の葬式での顔で、この後「風呂に入るのが面倒」とお湯で体を拭き、「布団敷くのが面倒」と椅子を三つ並べて横になるなど、懸命に色気のない中年女を演出してくれるが、これを見て、中高年を主役にした作品を生み出すだけでなく、世に送り出し続けるのは若者向けの作品をヒットさせるよりはるかに難しいのではないかと思ったのである。 


娚の一生』で、堂園つぐみと海江田醇はつぐみの祖母の母屋と離れの家の鍵をそれぞれ持っていて、同居生活を始める。

 この設定はラブコメによくある「無理矢理同居」のパターンである。 

「無理矢理同居」の例は、最近では『ゆらぎ荘の幽奈さん』だろうが、この「無理矢理同居」のパターンは、ラブコメによくある割には記憶が薄い。 

あまり展開が不自然だと(というか男の願望が全開過ぎると)、人気が出なくてすぐ打ち切りになるようである。

 しかし『娚の一生』では、ラブコメがよく使う手であるだけあって、その後の展開はスムーズである。 

一方、『姉の結婚』では、「無理矢理同居」の手は使っていないが、『娚の一生』に比べて展開が非常に不自然である。

 真木誠は、図書館の本を盗んだと誤解した岩谷ヨリの弱みにつけこんでセックスを強要し、その後付きまとい行為をする。 

この真木の行為は印象が悪く、そのためこの作品は一部の読者には不評である。

 それはわかる。 しかしだからこそ問題なのである。 


作者の西炯子氏は、問題の本質をしっかりつかんでいる。

 二作品とも、ヒロインは男に疲れて一人で生きようとしている。

 このような女性は、そのまま放置しておけば、一生独身のままである。

 こういう女性の心を開こうと思って、気遣いながら心の扉を開けようとしても、女性は心を開いてはくれないのである。

 こういうメンドクサイ女性の心を開く場合、大抵は強引にこじ開けなければならない。

どんな方法でも、その女性の心を開かなければ、その女性は幸せになれない。 


こういう主体性を放棄した女性の存在が、口には出さずとも、男性優位の主張のひとつの根拠となっているのは確かである。

 ならばフェミニズムはダメなのか?

 と言いながら私はフェミニズムを明確に定義できる自信はないのだが、専門的に語れなくとも、私は男女同権派である。

 なぜなら、女性を不幸にしたのもまた男だからである。

 堂園つぐみが妻子持ちの男とばかり付き合う理由について、「仕事ができる分、男で不幸になってバランスを取っている」と説明されて、私は納得しなかった。

 この説明は本質を隠すためのカムフラージュである。

なぜなら不幸になる女性の原風景には父親がいるからである。


 不幸になる女性は、父親に見棄てられている。 

姉の結婚』で、そのことは明確になっている。

 しかし『娚の一生』より一層、メンドクサイ女性の心の開き方を描こうとした『姉の結婚』では、父親の罪を全面的に押し出すことはできなかった。

そこで妹が母親の不倫でできた子供にし、余裕のなかった父親が実の娘に辛く当たったことにした。

それが「一番尊敬する人は父親」とする風潮の中での、描ける限界だったのである。

 しかし「女性の心を無理矢理こじ開けなければならないなら、やはり男性優位の方がいいのでは?」 と思う人もいるだろう。

 しかしまた、無理矢理心をこじ開けた男がまた、女性を利用するのである。

男性優位は、女性を不幸にする原因でもある。 となるとセクハラやストーカーなどの問題があり、女性の心をこじ開けようとする行為は、せいぜい自己責任論に落ち着く。

女性が男を受け入れればOK、受け入れなければその責任を被るしかない。 


私も女性問題では痛い目にあっていて、そのこともブログに書いている。 そのリンクを貼ったりはしないが、だから私も、女性に無理矢理関わろうとはしないし、人に推奨したりもしない。

 ならばどうすればいいかと言えば、見守るしかないのである。リスクを犯せない男は。 

リスクを犯せない男は、見守る中で自分にできることを探すしかない。

それが女性を幸福にしなくとも、できることをするしかないのである。 


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パワハラ上司は無能である①

よく、仕事中に「何やってんの」と言ってくる上司がいる。 

その時、私は「ああ、こいつはパワハラ上司だな」と思う。


 パワハラ上司はよく、「なぜそのようなことをするのかわからない」という意味のことを言う。

 このパワハラ上司の言葉は、部下の否定のように見えて、実は管理能力不足の告白である。

 パワハラ上司は部下を批判することで自分を正しいとする。

そして部下への批判が増えるほど、部下が間違っていて、自分が正しいという主張をしているつもりになっているが、本当は「わからん、わからん」と繰り返すことで、自分の無能をさらけ出しているのである。


 パワハラ上司には、以下の論に当てはまらない者もいるが、差異はあっても、パワハラ上司は根本的に同じ性格である。 

また、私は十年以上工場で働いているので、基本工場労働限定で述べていく。 

工場労働に限定して述べることには特別に意味があると思う。 工場は機械を多く使っており、機械のスピードが、人間の作業量の多くを決めている。 

人間に割り振られた作業量は、適正であることもあれば、不適正なこともある。

前者の場合で作業員が過剰労働に陥っていれば、上司が適正な作業配分をしていないということであり、後者なら会社自体がパワハラ上司化している。ブラック企業と言ってもいい。 


「人間は間違えるものだ」と言って、それに異を唱えるものはいないだろう。

 また「人間は機械のようには動けない」と言って、反論する者も私は想像できない。

 しかし工場勤務でのパワハラ上司は、まさに人間が「間違えずに、機械のように」動くと信じている者のようである。


 おそらく全ての業界のパワハラ上司がそうなのだろうが、工場勤務でのパワハラ上司を特徴づけているのは、馬鹿馬鹿しいほどのスピード至上主義である。

 パワハラ上司はとにかく急がせる。 

新人の場合、仕事をどのスピードでやればいいかを理解する上で、急がせることにはそれなりに意味がある。

 問題は、スピードを上げる点で限界がないことである。

パワハラ上司の中にも、体感で人間の身体能力の限界を知っている者がいるが、パワハラ上司が人間の限界を知っているかどうかは関係ない。人間の限界を知っているかどうかに関わらず、パワハラ上司は限界を超えて働かせるのである。


 パワハラ上司には、優先順位がない。

 私は、有能、無能は優先順位がつけられるか否かが大きく占めると思っている。 

例えば仕事をする場合、自分の仕事を優先して、手が空いたら他の仕事を手伝ったりするのが、基本的な能率の上げ型である。

 しかしパワハラ上司は、部下に割り当てられた仕事が中途半端なうちに、他の仕事を手伝わせたりする。

少しでも手が止まると、「何やってんの」と言われる。

 こうして、部下の仕事が停滞すると、部下は急いで仕事を片付ける。 このようにしてパワハラ上司はスピードアップを図る。しかしパワハラ上司は気づいていないが、このように育てられた部下は、仕事が粗くなっている。 

「速く、正確に」仕事をこなしているように見えても、その仕事はパワハラ上司でない上司に育てられた部下よりも粗く、ミスをしがちである。 

パワハラ上司に従順に従う部下は、以下のように考えるようになる。つまり、 「仕事を速くすることと正確にすることの間に、理想的な均衡点があるのだろう」と。 

現在、パワハラ上司の被害に見舞われることなく仕事をしている私から見れば、このような考え方は間違いである。

 仕事は自分が正確にできるペースを見つけ、正確に作業をする習慣をつけて、その上で少しずつ作業スピードを上げていくのが基本である。

 しかしスピードと正確さの中間を取るような仕事をさせられた作業員は、あると思っていた均衡点を見つけられず、集中力を上げて問題を克服しようとする。 

工場労働には、トラブルがつきものである。

 機械はよく故障する。故障した時に、簡単な故障は自分達で直すことが多いが、その際他の機械は止めずに、作業効率を落とさずに修理を行うことが多い。

 それで問題なく回していけるのならそれでいいのだが、状況が厳しくても、パワハラ上司は機械を止めずに対応しようとする。

こうして、「機械を止めないのはわるいこと」という観念が生まれる。

 パワハラ上司の部下は、どんな状況でも機械を止めずに、生産を続けながら対応しようとし、そのために知恵を絞り続ける。 

このような対応を続けると、それなりに適応できる人もいる。

 しかし常に目一杯体を動かしている上で、状況対応のために考え続けるのは強いストレスになり、大抵長くは続けられない。

不作為の行為は加害行為である - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

のIや、

『水瓶座の女』成立の背景 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

の肩こりになった私のように、ひどいストレスに悩まされるようになる。 

肩こりは大分小さくなったが、まだ残っている。 

肩こりが小さくなってわかったことがある。すでに肩こりではなく、全身に凝りが回っていた。

 胸、腹、手足まで凝っていた。私の腹は固かったが、腹筋が鍛えられているからだと思っていた。しかし腹の凝りが減って、腹筋のために固いのではないと気づいた。

 手足の凝りも減って、筋肉はこんなに柔らかいんだと気づかされたww。もっとも完治したのではなく、未だに全身が凝っており、背中も異様な形で出っ張っている。 

今の私は健常者と同じように体が動くと思っているし、集中力も戻って事故を起こすこともないが、頻尿や他にも鼻水が止まらなかったりする症状があったりしたので、これから肩こりが小さくなることで、より体調もよくなると思う。

 そしてもちろん私やIのようになるまで働く例は稀で、大抵はその前に人は辞めている。 

パワハラ上司は、日本語がしゃべれない。 

普段から「何やってんの」で対応しているため、いざという時に適宜な指示が出せない。 これは、部下が「何やってんの」と言われることで有能になっていくが、パワハラ上司は「何やってんの」を繰り返すことで無能になっていくことを意味する。

 そしてこれはホワイトな企業に特に言えることだが、パワハラ上司は会社が求めていることを理解していない。 

会社が求めているのは、クレームを出さないことで、部下に失敗を繰り返させることで質と量をこなす人材を作ることではない。部下に失敗をさせるような余裕は、元々パワハラ上司にはないのである。


 またパワハラ上司は、根本的に組織論を理解していない。というより、おかしな組織論を持っている。

 工場の各部署において、上司が比較的手の空く作業を担当して、部下が作業量の多い仕事をするのは妥当である。

 しかし各員の作業量配分は不動ではない。各員の作業量配分が変動する可能性は常にある。

 しかしパワハラ上司は、各員の作業量配分はどんな状況でも不動なのである。


 問題は、各部署の生産量を決めているのがパワハラ上司ではないことである。

 先に述べたように、工場での作業スピードは機械のスピードによって決まるのである。機械がより多くの生産をできるようになれば、各員の作業量も増える。そして機械の生産量を変更するのは管理職以上の者である。

 管理職以上が機械のスピードを変更するのは、ホワイトな企業の場合、作業員にきつい仕事をさせようと思ってするのではない。

各員の作業配分を調整して、変更可能なことを検証してからそれを行う。 

しかしパワハラ上司にとって、各員の作業配分は不動である。するとパワハラ上司の部下は、人間の限界を越えた作業をすることになる。

こうしてパワハラ上司の指導に耐えた部下も潰れる。


 最近お目にかからないが、去年くらいまでは、パワハラ上司と無能な上司の記事がはてなで頻繁にランキング入りしていた。 しかし私は、それらの記事に欺瞞を感じていた。

パワハラ上司と無能な上司は異なるカテゴリーではなく、同じカテゴリーである。

 そしてパワハラ上司の信念は、その成功体験ではなく、失敗によって支えられている。

部下が次々と辞めるたびに、「もっといい奴を寄越せ」といい、一人でも対応できる部下がいれば、自分が正しかったと思えるのである。

 

パワハラ上司にとって、きつい指導は部下への愛情ではない。 

パワハラ上司にとって、部下は自己正当化の手段にすぎない。パワハラ上司は無能である。 


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日本型ファンタジーの誕生⑫~「魅力的な悪役」

おそらく『ガンダム』以降だと思うが、マンガやアニメにシャアのような「魅力的な悪役」が登場するようになった。


 機略に長け、時に犠牲を顧みず、自分の目的に邁進する「魅力的な悪役」達。

 私にとって一番の「魅力的な悪役」やはりベジータ、それもナメック星でのベジータである。

 ナメック星のベジータは輝いていた。 

フリーザを始め、自分より強い敵を相手に様々な駆け引きを仕掛けて、たった一人で三つ巴の一極となる。

 ナメック星以降のベジータも嫌いではないが、「カカロットを超える」とか言ってるベジータを見ると、「お前宇宙の帝王になりたいんじゃなかったの?」と言いたくなってしまうww


 印象が強かったのは、『北斗の拳』のラオウだろう。

 襲撃したある村が、一切抵抗せずにニコニコ笑って物品を差し出すのを見て、ラオウは子供を掴んで「抵抗しろ」と言い、村長を殺す。

 抵抗しても殺し、抵抗しなくても殺すラオウは矛盾しているが、そこにラオウの強い生命力を感じる。

 ラオウはあまり頭が良くないが、他の知的な「魅力的な悪役」とも共通しているところは、生命力そのものと言える強い意思である。


 ラオウは恐怖で支配することの限界を知り、自分が誰かに倒されることを望んでいたという。

 そんなきれいごとでモヒカン頭で舌をベロベロ出したラオウの手下供が無情を感じてモヒカン頭にいきなり髪の毛が生えて惚れた女とのセカンドライフを歩む姿を見せられても全然納得がいかないのだが、「魅力的な悪役」は善人と違う手段を取るだけで、善人と変わらなくなる可能性が常にあった。

 『三国志』の曹操などもそうで、曹操を悪役でない視点から見る、また曹操を主役にする作品なども生まれたが、そうなると実はあまり面白くなくなってくる。

 曹操を主役にすると面白くなくなるのは、曹操が中国を統一できなかったからで、曹操の戦略性の弱さと後年の覇気の無さが浮き彫りになるからである。

 やはり悪役は「魅力的」でも、悪でなければならない。この点、ナメック星のベジータは合格。


 「魅力的な悪役」に取り憑かれると、より「魅力的な」悪役に出逢いたくなる。

より悪辣な手段を用い、優れた能力で困難を回避し、時に大胆で、時に慎重な、そんな悪役を求めるようになる。

 そのような中で登場したのが、浦沢直樹の『MONSTER』である。 

ヨハン・リーベルトは、そのカリスマ性を用いた洗脳術により次々と殺人事件を犯していく。

 ドラマチックなサスペンスが、浦沢が『MASTERキートン』で磨きをかけた余韻の残る引きの連続によって、スリリングに展開され、読者を興奮の渦に巻き込んでいく。

また「魅力的な悪役」が現れた。一体ヨハンの目的は何なのか!? ところが、ヨハンの最後の犯行は、自殺目的の集団殺戮だったのである…。 


『MONSTER』は、手塚治虫の『MW』のプロットの焼き直しとも言えるし、古くはドストエフスキーの『悪霊』にその起源を求めることもできる。

しかし『MW』は手塚作品の中での認知度は低かったし、『MONSTER』のヒットはドストエフスキーブームの前である。


 いずれにしろ、次のように言える。

 『魅力的な悪役」を、我々は悪人の生命力の強さの表れとして受容した。 

しかし敵を殺す、あるいは陥れることは、自分も敵に殺される、陥れられるリスクを犯すことであり、自分に刃を向けているのと同じなのである。

 そして我々が「生命力の象徴」として「魅力的な悪役」を受容し続けた結果、それが臨界に達し、「破滅的な悪役」に転じたのである。

 『MONSTER』以後、「魅力的な悪役」がどれだけ生まれたのか、私も全てのマンガを把握してるわけではないのでなんとも言えないが、私の知る限りでは、『MONSTER』とほぼ同時期に連載されていた『多重人格探偵サイコ』を除けば、『DEATH NOTE』の夜神月まで現れていないようである。しかし夜神月も、かなり厨二なキャラである。

 現在でも、「魅力的な悪役」の分身的なキャラは登場するが、「魅力的な悪役」にピッタリと該当しそうなキャラは思い当たらない。


 いや、本質的な問題は、我々が悪をテーマにするにあたり、悪の自己破滅性から目を背けた結果、「魅力的な悪役」が生まれ続けたのである。

そして「魅力的な悪役」は、「破滅的な悪役」を導くために必要な存在だったのである。

 この「破滅的な悪役」が、『ナウシカ』以降のグロテスクな怪物融合して、日本型ファンタジーに受け継がれていく。 


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日本の右翼を牛耳る外国人勢

最近のツイッターのハイライトでしばしば人気ツイートになるのが石平、いやツイッター名義の石平太郎氏、ケント・ギルバート氏などの外国人勢である。

 内容は多くが韓国、中国批判、沖縄米軍基地移転批判、共謀罪法案賛成、など、右翼そのものの言動である。

 ところが、実は最近の右翼は上に述べたようなことを言っていない

。 少なくとも、Googleで検索できるところでは、右翼は上に述べたような言動をしない。

 今や、日本の右翼のリーダーは外国人勢である。

 もっとも最近は北朝鮮のミサイル、核実験問題などで日本の右翼が注目を集めることもあるが、あれだけ毎日のようにバカスカミサイルを打っていれば私だって問題視するのであって、北朝鮮くらいの問題がなければ、日本の右翼は注目を集めることができない。


 いや失礼。石平太郎氏が日本国籍を取得したという意味で、立派な日本人であるのは承知している。

 でも俺達って、外国人に対して心の狭い日本人じゃなかったっけ? 

外国人に不寛容なのは日本人だけではない。寛容、不寛容はその民族の特性にすぎない。

特性を失っているのは寛容になったからではない。 それに、石平氏がいくら日本の風景を愛でようが、私には石平氏の精神が日本人のものに見えない。


 保守派の中に、アメリカが衰退した結果として、日本を守らなくなる可能性について、警鐘を鳴らす者がいた。 

また、保守派の中に、日本の赤字を減らすのに減税する必要はなく、マネーサプライを増やして赤字を減らせばいいと主張する者もいた。

 この二つの意見は、それぞれは正しい。

しかし二つの主張を合わせて考えると、おかしなことになる。

 中国が南沙、西沙諸島を押さえ、日本のシーレーンが脅かされた時に、インフレ前提のケインズ政策を行えば、スダグフレーションになる可能性さえある。

少し前まで、保守派(保守派と右翼は、だいたい同じ人だと思っていると了解されたい)はこんなことを平然と言っていた。

 トランプによって、アメリカが日本を守らない可能性があることが示唆されてから、右翼の韓国批判は弱くなった。

それは韓国を敵に回したくないということである。

結局右翼も、国のことを考えているように見せかけて、目先のことさえ見えていなかったのである。

 現状、トランプが日本を切るとは考えにくいが、右翼は相変わらず元気がない。 

元気がないのは、負け癖がついているからである。後先考えずに発言するとこうなる。 

そして外国人勢の右翼には、この「後先考えない」ところがないのである。それが私が、石平氏の精神が日本のものとは思えない理由である。


 右翼が韓国批判を抑えているのは正しい。ただそれまで口を揃えて韓国批判をしてきただけに、それ以上のことができなくなっているが。

 ならば今でも平然と韓国批判をする石平氏はどうか? 

平氏は、本音は日本のことはどうでもいいのだと、私は思っている。彼ら外国人勢は、弱気になった日本人相手に金を稼げればそれでいい。

 そしてそれが、今の日本の右翼のリーダーである。


 しかし外国人勢は論戦に強い。 5月25日の石平氏のツイート。

共謀罪」法案に「懸念」の書簡を送った国連関係者をツイッタで批判すると、左翼らしい人は「石平、国連関係者を差別主義者と呼ばわり、誰か国連にチクって」と呟く。私の言論を批判するならともかく、「国連に口告げせよ」との発想は実に卑しい。日本の濡れ衣の多くは、こういう告げ口から発祥する。

 

国連にチクって」という人がどれだけいるかという点はほとんどわからない。

 外国人勢は、しばしばこのような弱い意見を選択して取り上げて、反対勢力の全体の意見のように語っている。

 このようなやり方を常に放置しておくべきではなく、細野豪志氏や長島昭久氏のような発信力のある人物が、時には「それは全体の意見ではない」と釘を指していくべきである。

 時には自分に同意する者の反感を買ってもそうしないと、外国人勢に足下を掬われることになるだろう。


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ドラゴンボールを考える⑤~『宇宙サバイバル編』の予想と『復活のF』

さて、『ドラゴンボール超』(以下DB超』)の今クールED『遥』の動画をご覧頂こう。 少し前まで、「悟空が見えない敵と戦っている」という動画がyoutubeにアップロードされていたが、今はない。 

あの動画がなければ、これから述べることは考えなかった。 このEDは、『宇宙サバイバル編』のラストを表すものである。しかし敵は見えないのではない。 

序盤、画面が暗いが、削除防止のため動画が加工されているためで、実際はもっと明るい。

 各宇宙の戦士達が出てくるが、第11宇宙の三人の戦士の背後に炎がある。これは、この三人が武舞台に残っているからである。

他の宇宙の戦士達は、全員脱落して全王に宇宙ごと消滅させられたのである。

 悟空は草原の真ん中にいて、悟飯が悟空のそばにくる。

 第7宇宙の他の戦士は、やはり草原にいるので、悟空に近い場所にいるとわかる。しかし彼らは見ているだけである。 

その理由は、彼らは脱落してベンチ席にいるからである。武舞台に残っているのは、悟空と悟飯しかいないのである。

 注目すべきは、ベジータが脱落していることである。『DB超』は悟空が主役、ベジータが準主役の構成だが、ベジータが脱落して悟飯が残れば、悟飯が準主役である。 

そして『DB』は悟空が勝てない敵に勝ったり、悟空ができないことを誰かがやったりすると(ブルマが悟空が作れない機械を作ったりするなどは除いて)主役交代である。

悟空が脱落して、悟飯が最後に武舞台に残るようなことがあれば、実力が悟空が上でも悟飯が主役である。


 第9宇宙が全王に消滅させられてドン引きさせられた反発で、生き残った戦士達が反乱を起こすという予想が出ているが、そのようなことは起こらない。

 鳥山が界王神のようなやさしい神でなく、ビルスや全王のような「荒ぶる神」を登場させた以上、『DB超』は神話である。

 神話では、神は人間に試練を与え、人間は神の試練を受けて、それまでと違う人格へと変貌する。

 神は人間に試練を与えるが、試練=神ではない。神への反逆は試練の否定であり、神話の否定で、そのような展開を『DB超』がするはずがない。 

なお、スーパードラゴンボールで消滅させられた宇宙が復活する可能性はあると思っているが、それは単純なハッピーエンドではない。悟空か地球、あるいは両方に災厄が降りかかる展開になるだろう。

 第11宇宙のディスポがビルスに似ているのは、ディスポを倒す者が「ビルスを倒しうる者」だからである。

 悟空の相手がジレンで、ラスボスの風格を漂わせているが、ディスポは裏のラスボスで、その相手は悟飯である。

 この間の放送で、ディスポのポテンシャルが悟空以上なのがはっきりして、経験知で悟空とヒットが勝ったので優勢だったが、これは悟飯が主役になるための布石である。

 そして、これは悟飯vsビルスの対戦が無いことを意味している。

その理由も先に述べた『DB超』が神話だからで、悟空vsビルスは可能性があるが、悟空はビルスに勝てないだろう。

 以上の伏線が見えてきたことから考えると、『宇宙サバイバル編』は恐らく最後の長期シリーズで、その後は最終回に向けた展開になるだろう。


 さて、『復活のF』である。 『ナメック星編』では余裕があり過ぎて掘り下げきれなかったフリーザの悪の本質を、『復活のF』は見事に描き出している。

 「地球の地獄」は花が咲き誇り、妖精やぬいぐるみがパレードや歌を披露する世界である。

 フリーザミノムシ状態で、その光景を見せつけられ続ける。 この世界がフリーザには限りない苦痛なのだという。 

フリーザにとって、人が自由に楽しんでいること自体が苦痛なのである。

何かクラスの中に見えない階級とかがあって、「どのくらい大きな声で笑っていい」とか、「教室の中でどのくらい自由に楽しそうにふるまっていい」かが決められてるみたいな…

 

と『3月のライオン』でも言っているが、悪人にとって、人が自由であること自体許せないことなのである。

 思うに、尼崎連続殺人事件でも、人が殺される順番はこのような感情で決まっていたのではないだろうか。

 つまり殺された人間を、殺した人間が笑う。

 より多く笑った人間が生き残り、笑わなかった人間が次のターゲットになる。 

同じ笑った人間でも、笑いの少ない者が次のターゲットになる。

殺された人間を笑わないのが、殺した人間への批判になるからであり、人が自分を批判する自由を持つことを、悪人は許さないからである。


 『復活のF』は、劇場版とTVアニメに、大きな違いはない。ただTVアニメは尺を長く取ることで、フリーザの悪がさらに掘り下げられているようである。 

『復活のF』で、超サイヤ人ブルー(以下SSJB)が初登場する。 「でも所詮超サイヤ人じゃないですか」 というフリーザに対し、

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っていうけどへっ!どゆこと!? 

あにこ便のツイートにはなかなかいいツッコミがある。

@t_setsuna スーパーサイヤ人ゲシュタルト崩壊してる

 

ザブトン三枚。 他にもいいツッコミがある。『神と神編』での、ビーデルの妊娠報告の時のツイート。

 @tokyo_teleport ビルス様もう地球破壊しちゃっていいよ(・_・) 

 

ザブトン全部取っちゃってww

 ってザブトンがどうとか今の若い人達にわかんのかなー。


 で、話を戻すとSSJBとは何か


?う~ん…。


 ウン、つまり青>赤>黄なのね!?


 納得!! 


悟空がSSJBになり、フリーザゴールデンフリーザになって戦うが、力はフリーザの方が上である。 

『DB』では、悟空が終始優勢に戦うのが勝利の定番だったが、『復活のF』以降、悟空が劣勢を挽回して勝つ展開がしばしば見られるようになる。

 ゴールデンフリーザはパワーの消費が激しいため逆転するが、その前にフラグが立っている。ビルスが「ベジータと二人で戦えば勝てる」と言っているのである。

 優勢になったところで、悟空がソルベの光線銃に胸を撃たれて再逆転され、ベジータが交替する。

 ビルスの星での修行中に、ウイスが「自分の強さに自信があり過ぎて油断している場面がよくある」と、悟空に忠告する。しかし悟空が油断しがちだと言われたのは、『復活のF』が最初である。


 SSJBになったベジータフリーザにとどめを刺せるところまで追い詰めるが、フリーザが地球ごと破壊してしまう。


 でえじょうぶだ、ナメック星のドラゴンボールで元通りだ!!

 と言ってはいけないww。確かにそうなのだが、ここはこの場の雰囲気を汲み取るべきである。

 家族が死んで悲しむ仲間達や、悟空の後悔する様子が描かれる。

 人間は死んだら終わりだが、『DB』の世界観では死んでも生き返れる。 しかしそれでは、人が死なないために懸命に戦う場面を描ききれない。だから『復活のF』の中だけでも、悲しみ、後悔する場面を入れたのである。


 ウイスが時間を巻き戻して、フリーザが地球を破壊する前に、悟空がかめはめ波でとどめを刺す。

 戦いが終わり、パーティーが開かれるが、1度地球を破壊されたことの気分の重さは払拭できない。

 悟空が、「たまには組んだ方がいいと思うか?」 とベジータに聞くと「それでも俺はごめんだ」 とベジータ

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と悟空。 ここで初めて、我々はほっとするのである。

元の『DB』の世界観が戻ってきたと。 まるでマジックである。

 『DB』は、悟空が常に優勢に戦うことで、読者、視聴者が安心して楽しめる世界観が売りである。

 だから時間の巻き戻しをしても、我々は地球が破壊されたことへの気落ちは無くならない。

 ドラゴンボールで地球を復活させた場合、ここまで気落ちしないだろうと思うのは、ドラゴンボールは既に戦略に組み込まれているからである。 誰もドラゴンボールを思い出さないと、その絶望感は見るに絶えないほどのものだった。 

そして悟空のこのセリフで、『DB』の世界観が戻ってきたが、それは悟空とベジータが、地球の運命を考えずに戦いを楽しむ世界観となったのである。

 マンガ版では、『復活のF』のところがごっそり抜けている。

それはマンガの悟空が原作を引き継いだキャラで、油断したり、地球の運命を考えずに戦いを楽しむキャラではないからである。 


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流行

コアラ、ラッコ、エリマキトカゲ、その他いくつもの、私の覚えていないほどの流行が私の子供の頃にあった。 

大人も子供も、常にこの話題で持ちきりだった。 それは一種の強迫観念で、時に苦痛なものだった。

 私にとって苦痛だったのは『ガンダム』の流行だった。 

何しろ小学校低学年の時である。 同級生は『モビルスーツカッケー』と盛んに言っていたが、そう言う理由は、『ガンダム』流行の主体はティーンエイジャーで、小学校低学年にはストーリーが全くわからないのからである。

プラモデルなども流行ったが、不器用な私はプラモを作るのもしんどかった。

 いや、苦痛だという自覚も当時はなかったかもしれない。 

流行についていかないと、自分が人間としておかしいように思えるので、必死になってついていった。

 少年期の頃の流行は、ついていかないと人としてまともに見られないという強迫観念があった。


 高校生になったあたりから、流行が人間の評価から切り離された。

 なぜそうなったのか、私の中で未だに結論は出ていないが、人々が「新しい」「古い」を言わなくなったのと、それは連動していた。

「新しい」ものが正しく、「古い」ものが間違っていて、捨てなければならないものだという論法で、人はよく価値判断をしていたのである。

 「新しい」「古い」を議論の論法として頻繁に使った人で、私が見た最後の人物は、私の大学の同期の人物だった。

もう誰も使わない「新しい」「古い」の論法で自分の主張を正当化しようとする彼を、私はシーラカンスを見るように見ていた。 


流行は古今東西にあるものであり、また途切れることのないものだった。 

その流行が途切れたのは、『永遠の0』の後だった。

永遠の0』からしばらく、流行と言えるものが現れなくなったのである。

 流行とはストーリー作品に限ったものではない。2000年代には習字の練習さえ流行になった

。そのような中身の薄い、軽薄な流行さえ見当たらないようになったのである。


 『永遠の0』の流行の後、流行と呼べるものが現れなくなった理由はわかる気がする。

 『永遠の0』は特攻礼賛の作品として受容された。 しかし『永遠の0』は、「特攻隊員が生きて帰る」物語だったのである。

 主人公の宮部久蔵の代わりに帰還する大石賢一郎は、宮部の妻と結婚する。 

これは特攻した隊員が生きて帰ることはできないので、大石自体が宮部の真の代理だった。つまり特攻で死ぬべきではないというのが、『永遠の0』のメッセージだった。

 読者及び視聴者は、このメッセージを誤解せずに、正しく読み取った。

 その結果、特攻がテーマの作品のレビューが、零戦ファイトに興奮する内容で溢れるようになった。特攻礼賛のものとして受容された作品が、特攻を否定するものだったため、人々はこれを正しく評価できなかったのである。


 『永遠の0』の後、『シン・ゴジラ』まで流行不在の時期が続く。

 『シン・ゴジラ』に続いて『君の名は』、『PPAP』、『けものフレンズ』と流行が続くが、今再び、流行と呼べるものがない時代になっている。 

このうち『PPAP』は、流行の中によくある、本当になぜ流行ったかわからないものである。

 『けものフレンズ』について、私はここで詳しく言及する気はないが、今のところ言えるのは、『けものフレンズ』が中級のヒットであり、『けものフレンズ』が時代を反映したものかは、類似のヒット作品が現れるかどうかで決まると思っている。


 流行がないとは、我々の心情を反映するものがないということである。 なぜ流行がなくなったのだろうか?

 その理由は、日本国憲法があるからだと私は思っている。

 今から70年前に制定された日本国憲法の何が問題なのか?

九条ではない。国民主権がその大きな理由である。 

周知の通り、日本国憲法制定以前は天皇主権である。

 もっとも天皇主権といっても、天皇は誰かの代わりに行為するもので、意思決定者は別にいる。天皇機関説統帥権の議論などに、このことは表れている。

 日本は古来よりこのような体制で、将軍も大名も、果ては庄屋に至るまで、主権者は誰かの代わりに意思決定を行う者だった。

 だから見方によっては、日本は昔から民主的な国だったと言える。ただ意思決定者に責任が伴わなかっただけである。


 天皇制はまた、責任の忘却システムである。 幕末の攘夷から開国、佐幕から勤王への転換も、この忘却システムによってなされた。だから体制の変換も短期間に、犠牲も少なく行うことができた。 

しかし天皇主権から国民主権となって、国民は責任を他に転嫁することができなくなったのである。

 国民が平和主義を唱えながら自衛隊日米安保を保持する自民党を政権につけるシステムも、戦前の犠牲者への責任を回避するためのものだった。 

けれども国民主権である以上、この戦後のシステムは有限、期間限定のものだった。

 今なお戦後のシステムは維持されているが、我々の方がこのシステムに耐えられなくなっており、自分を見失った者達が、流行を生み出せなくなっているのである。


 日本人は、責任の忘却システムがあって日本人らしくあることができた。

 しかし忘却システムがなくなった以上、責任を受け入れることでしか、我々は自分達が自分達らしいと思うことができない。

流行がなくなっているのは、自分達が「らしい」生き方ができていない証しである。


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日本型ファンタジーの誕生⑪~『亜人』:永井圭

亜人』は一巻では原作が三浦追儺、作画が桜井画門となっており、二巻以降から原作、作画共に桜井画門となる。

 なぜそうなったのか、講談社は語っていないが、想像を広ければ、設定は三浦が行ったが、作品にテーマを与え、テーマに基づいたストーリーに変えていったのが桜井ではないかと思う。


 永井圭は、突如交通事故に合い、生き返ることで自分が亜人と知り、周囲の人達にも知れる。

 『亜人』の重要なテーマのひとつは差別である。亜人とわかった人は、国に隔離される。

 隔離されることを怖れた永井は逃亡し、その逃亡を旧友の海斗が助ける。将来医者になろうとする永井は、父親が犯罪者の海斗と、それまで縁を切っていた。

 亜人は死なないのかと言えばそうではなく、死んで生き返る人間のようである。 

そこらへんは作中で議論になっているが、それはともかく、『東京喰種』の喰種のように、傷が急速に回復するのではなく、死んで生き返ると傷が全快するのが亜人である。(傷だけでなく、病気も完全に治る) 

逃亡中に足の骨を折り、永井は途方に暮れるが、その心情描写が妙である。

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なぜ永井は、自分を人間じゃないと思うのだろう。

 成績優秀な永井は、本来スクールカーストの上位にいた。なぜそのプライドが持てなかったのだろう?

 永井は首を刺してこと切れ、復活することで足の骨折を修復する。それを見た海斗の表情である。

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あ、指入っちゃった。直んねえ。まあいいやww

永井は海斗と別れ、紆余曲折を経て厚生労働省に捕まり、手足を切断され、とどめを刺されて復活し、また手足を切断されるという凄惨な人体実験を何日も受ける。

 人体実験を受ける中で、永井は幻想の中の田中功次と会話をする。 田中は人間を殺せという。

永井は黒い幽霊(以下IBM)で人間を攻撃しようとするが、その攻撃が人に当たる直前で、永井が自分を殺した時の海斗の表情が脳裏に浮かぶ永井のIBMがぶれ、その攻撃は外れる。 

下村泉は、永井とIBMのリンクが弱いと分析するが、ここで読者は、作者によってミスリードされている。

 永井のIBMは永井のいうことを聞かず、攻撃衝動が強い。しかしこの時IBMが人間を攻撃しなかったのは、永井とIBMのリンクが読者の想像よりは強いことを表している。

 永井は他の亜人よりも多くのIBMを出せ、IBMが形を保つ時間も長い。それをオグラ・イクヤは「異常なほどIBMが濃い」という。 

IBMとは、思うに人の心の闇だろう。 別に悪だという意味ではない。悪人でなくともIBMを操る亜人は多く登場する。 

中野攻がIBMを出せないのは、心に闇を持たないからである。永井のIBMが攻撃衝動が強いのは、それが永井の本性だからである。この点も、オグラ・イクヤが指摘している。

そして永井のIBMがしばしば中野を攻撃するのは、永井が心に闇を持たない中野が嫌いだからである。 

亜人だと分かる前、永井はスクールカーストの上位者だった。その永井の心の闇は、悲惨な人生を送ってきた下村泉や田中よりも深く大きいのである。 


永井の幻想の田中は、「なぜ人間を攻撃しない?」と永井に問う。

 「海斗に嫌われてしまうかもしれないから」と永井は答える。

海斗は自分のために命を賭けたが亜人である自分は命を賭けることができない。だから、

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と永井は言う。

 永井のような心境は、常に虐げられてきた人が陥る心境である。 破滅の中に、自分の存在意義を見出だそうとする。

カラマーゾフの兄弟』で、父殺しの嫌疑で逮捕されたドミトリーがこの心境になり、自分が犠牲になることが社会、引いては人類の救済に繋がると思うようになる。

 このような心境には、比較的若い人が陥るようだが、注意しなければならないのは、その自己犠牲が本当に多くの人を救うことになるのかは、実はわからないということである。本人がそう思い込んでいるだけのことが多い。

 しかしスクールカーストの上位者である永井が、つい最近陥った境遇で、なぜこれほど追い詰められているのか? 

それは、差別に理由がないからである。 差別に理由がついている場合、それはもっともらしい理由がついていても、真実理由になっていない。だから差別するものは、差別によって真に支えられていない。

 だから差別するものは、差別される側に立った時、比較的容易に、いやむしろ安易に、差別を受け入れてしまう。

 特攻隊員が、次々と自己犠牲に飛び立っていく理由も、調べたことはないが、同じ理由で説明できそうである。

 特攻隊の志願書が回ってきた時、誰かが志願しなければならないという意味で、志願は強制である。 自分は死にたくない。だから他人に押し付けようとする。 

「なぜお国のために死なないのか」と言ったりし、また殴ったりする。 こうして次々と特攻機が飛び立っていく。

しかし特攻隊員が死んで人が減ってくると、やがて自分達にお鉢が回ってくるようになる。 そして自分が「なぜお国のために死なないのか」と言われるようになる。その時には、もう「俺は死にたくない」とは言えなくなっている。

「なぜお国のために死なないのか」と言った時点で、その人が自分を守る言葉を投げ捨て、手の届かない所に追いやってしまったからである。 


亜人が自分を殺して復活する姿は、自傷行為に見える。 

自傷行為は全ての日本型ファンタジーの作品に描かれている。『進撃の巨人』の巨人化はもろに自傷行為だし、『アイアムアヒーロー』にも、自分の足を喰うZQNが登場する。『東京喰種』にも、鈴屋十三のボディステッチ(体に糸を縫うこと)や、有馬貴将に負けた金木研が自分の目をほじくる行為などに、自傷行為が表れている。

 永井と海斗の心情はずれている。自分を殺す行為をした永井を見た海斗の表情から、永井は人を傷つけてはならないと思うが、海斗の表情は、自分を傷付ける者への憐れみなのである。

 しかし永井この時、人を傷つけてはいけないという道徳を、自分のものにしたのである。


 佐藤と戦うことを決意した永井は、戸崎のグループで多くの作戦を立案する。

その作戦の多くは、多くの人を犠牲にする作戦である。 その中で永井は、人と情を交わらせるのを恐れ、また必要なのではないか思うという、矛盾した想いに苛まれる。

 佐藤との戦いで、永井の策が次々と佐藤に破られ、永井は最後の策を明かす。

 それは、ビルの中に全ての人を閉じ込め、決着がつくまで戦うというものである。そうすれば、亜人以外はほとんど死ぬだろう。しかし永井は、

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と言うのである。

実行するのは自分である。それを他人がすることのように言う。

 マキャベリストとは、他者を犠牲にする場合、自分にとって必要だという理由以外の自己正当化を不要、というよりむしろ有害だと思うタイプの人間である。

 よく見ればナポレオンもチャーチルも、時に自分を全面的に正当化したい衝動を押さえきれていないようだが、それでも彼らの行動はマキャベリストそのものである。

 マキャベリストは自分を全面的に正当化しないという点で、ひとつの生の在り方として健康的な人々であり、それゆえに多くのマキャベリストでない人達をも魅了してきた。


 永井の母は永井を「情動的な父親に少し似た」と言うが、はたして少しだろうか? 

作者はまだ、読者に永井をマキャベリストだと思わせておきたいので、ミスリードすることを狙っているようである。 

マキャベリ的な永井の計画は、永井の強靭な頭脳が生み出しているが、頭脳がマキャベリストを作るのではない。

 永井はマキャベリストではない。道徳的に生きるしかない人間である。

 『亜人』は永井から見た場合、道徳的でヒューマンな自分を取り戻す物語である。

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