いつの時代も、文化は若者のものでなければならないと思う。
しかし高齢化の時代には、若者が文化の中心でありながらも、中高年の文化に占めるシェアが大きくなる。この点、『娚の一生』と『姉の結婚』は成功した作品と言える。
しかし、成功したこれらの作品にも、不安の残るところがある。 『娚の一生』の堂園つぐみ30半ばである。しかし、
これでは若すぎる。
もっともこれは田舎の葬式での顔で、この後「風呂に入るのが面倒」とお湯で体を拭き、「布団敷くのが面倒」と椅子を三つ並べて横になるなど、懸命に色気のない中年女を演出してくれるが、これを見て、中高年を主役にした作品を生み出すだけでなく、世に送り出し続けるのは若者向けの作品をヒットさせるよりはるかに難しいのではないかと思ったのである。
『娚の一生』で、堂園つぐみと海江田醇はつぐみの祖母の母屋と離れの家の鍵をそれぞれ持っていて、同居生活を始める。
この設定はラブコメによくある「無理矢理同居」のパターンである。
「無理矢理同居」の例は、最近では『ゆらぎ荘の幽奈さん』だろうが、この「無理矢理同居」のパターンは、ラブコメによくある割には記憶が薄い。
あまり展開が不自然だと(というか男の願望が全開過ぎると)、人気が出なくてすぐ打ち切りになるようである。
しかし『娚の一生』では、ラブコメがよく使う手であるだけあって、その後の展開はスムーズである。
一方、『姉の結婚』では、「無理矢理同居」の手は使っていないが、『娚の一生』に比べて展開が非常に不自然である。
真木誠は、図書館の本を盗んだと誤解した岩谷ヨリの弱みにつけこんでセックスを強要し、その後付きまとい行為をする。
この真木の行為は印象が悪く、そのためこの作品は一部の読者には不評である。
それはわかる。 しかしだからこそ問題なのである。
作者の西炯子氏は、問題の本質をしっかりつかんでいる。
二作品とも、ヒロインは男に疲れて一人で生きようとしている。
このような女性は、そのまま放置しておけば、一生独身のままである。
こういう女性の心を開こうと思って、気遣いながら心の扉を開けようとしても、女性は心を開いてはくれないのである。
こういうメンドクサイ女性の心を開く場合、大抵は強引にこじ開けなければならない。
どんな方法でも、その女性の心を開かなければ、その女性は幸せになれない。
こういう主体性を放棄した女性の存在が、口には出さずとも、男性優位の主張のひとつの根拠となっているのは確かである。
ならばフェミニズムはダメなのか?
と言いながら私はフェミニズムを明確に定義できる自信はないのだが、専門的に語れなくとも、私は男女同権派である。
なぜなら、女性を不幸にしたのもまた男だからである。
堂園つぐみが妻子持ちの男とばかり付き合う理由について、「仕事ができる分、男で不幸になってバランスを取っている」と説明されて、私は納得しなかった。
この説明は本質を隠すためのカムフラージュである。
なぜなら不幸になる女性の原風景には父親がいるからである。
不幸になる女性は、父親に見棄てられている。
『姉の結婚』で、そのことは明確になっている。
しかし『娚の一生』より一層、メンドクサイ女性の心の開き方を描こうとした『姉の結婚』では、父親の罪を全面的に押し出すことはできなかった。
そこで妹が母親の不倫でできた子供にし、余裕のなかった父親が実の娘に辛く当たったことにした。
それが「一番尊敬する人は父親」とする風潮の中での、描ける限界だったのである。
しかし「女性の心を無理矢理こじ開けなければならないなら、やはり男性優位の方がいいのでは?」 と思う人もいるだろう。
しかしまた、無理矢理心をこじ開けた男がまた、女性を利用するのである。
男性優位は、女性を不幸にする原因でもある。 となるとセクハラやストーカーなどの問題があり、女性の心をこじ開けようとする行為は、せいぜい自己責任論に落ち着く。
女性が男を受け入れればOK、受け入れなければその責任を被るしかない。
私も女性問題では痛い目にあっていて、そのこともブログに書いている。 そのリンクを貼ったりはしないが、だから私も、女性に無理矢理関わろうとはしないし、人に推奨したりもしない。
ならばどうすればいいかと言えば、見守るしかないのである。リスクを犯せない男は。
リスクを犯せない男は、見守る中で自分にできることを探すしかない。
それが女性を幸福にしなくとも、できることをするしかないのである。
古代史、神話中心のブログ「人の言うことを聞くべからず」+もよろしくお願いします。