坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

日本型ファンタジーの誕生⑭~『寄生獣』

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人の顔だと思ったのが割れて歯の生えた口や触手になる。またはぐにゃりと変形して怪物になる。
90年代にヒットした岩明均の『寄生獣』もまた、日本型ファンタジーの誕生に影響を与えた作品である。
ある時、空から謎の物体が降りてきて、地上に降りて蛇のようになり、人間の頭部に寄生する。
人間の頭部そのものが寄生生物になり、「この種を喰い殺せ」という本能により人間を喰う「パラサイト」。
主人公の泉新一は、この「パラサイト」に右腕に寄生される。そのことにより、人間と「パラサイト」の中間的な存在となる。そして新一は、「パラサイト」の性向を知るようになる。
「パラサイト」は知能が高く、短期間で言語や社会常識を学習し、人間社会に溶け込んでいく。
そして非常に合理的である。
しかし生存戦略を合理的に思考する結果として、他者への警戒心が強く、新一のような、寄生されながらも人間の脳が残った存在を危険と感じて攻撃してくる。そして他者への同情心が皆無、あるいは希薄である。
一方、人間は感情に流され、「パラサイト」のように合理的な判断ができない。しかし人間は弱いからこそ団結する。
このように、合理的、冷酷、孤立しがちな「パラサイト」と非合理的、情緒的、そして団結力のある人間の対立の構図が出来上がる。
新一は人間の側として、人間らしい感情を大事にしたいと思う。右腕に寄生したミギーの合理的で冷酷な意見をしばしば拒否し、弱くても情緒を大事にすることこそ人間の証しだと思うようになる。

しかし、ストーリーが進行するにつれて、この構図が崩れていく。
新一が「パラサイト」の攻撃を受けて瀕死の重症を負った時、新一の身体にミギーが入って治療したことで、ミギーの細胞の30%が新一の身体に混ざり、超人的な身体能力を発揮するようになる。また精神も変化し、動揺しても深呼吸するだけで落ち着きを取り戻すようになる。
また「パラサイト」の側も、田村玲子を中心に団結していく。
「パラサイト」はS市に集まり、「広川」という人物を市長に当選させる。
また田村玲子は、出産した子供に愛情を持つようになっていく。またミギーも、最後には自己犠牲的な行動を取るようになる。

こうして人間vs「パラサイト」の構図が崩れていく中で、人間側が「パラサイト」がS市に集まっているのを知り、「パラサイト」の掃討作戦を実施する。
人間側は「パラサイト」を駆逐し、議会の会場に「広川」を見つける。
「広川」は人間の傲慢を訴え、人間を減らすために「パラサイト」が必要だと訴える。
「広川」は撃たれ、「パラサイト」でない人間だとわかる。

ここで、この作品のテーマが人間の傲慢を訴えるものだと読者は思う。しかし、断じてそんなことはない。

寄生獣』のラスボス的存在として「後藤」がいる。
五体の「パラサイト」がひとつの身体に寄生し、そのため「この種を喰い殺せ」という本能が強化されて、戦うことに喜びを見出だすようになった「後藤」だが、「この種を喰い殺せ」という本能は物語の序盤で提示され、ストーリーとして一貫しているようだが、基本構図は弱いが団結する人間と、合理的で強いが孤立する「パラサイト」の対立である。
そしてこの対立は、実は人間側の敗北で終わっている。
S市の「パラサイト」掃討戦で、人間側は「パラサイト」と誤認して、人間を撃ち殺している。
弱い人間が信頼し合うことで団結し、「パラサイト」を掃討することで人間は「パラサイト」に勝利するが、誤射のリスクを犯しても疑う姿勢で「パラサイト」を掃討したことで、人間は「パラサイト」と同じになったのである。
新一と「後藤」の戦いは人間vs「パラサイト」の決着のように見せた付け足しである。

寄生獣』は、主人公が右腕とはいえ「パラサイト」に寄生されることで、「人間=怪物」の構図となる、日本型ファンタジーの萌芽的作品である。
こうして合理的で冷酷な精神を暗に認めた『寄生獣』が、マンガや社会にどれだけ影響を与えたのかははっきりしない。『デスノート』のような駆け引きがメインの作品に流れたような気もするが、はたしてどうだろうか。
近年の作品には、冷酷な決断や行動を示す作品が多くあるので、『寄生獣』の影響はゆっくりとしたものだったと言えるかもしれない。
寄生獣』の直接的な影響は、『ファイナルファンタジー』シリーズや『真・女神転生』シリーズなどと共に、怪物をグロテスクに表現したことである。それによって、『ドラクエ』シリーズの愛嬌のあるモンスターへのアンチテーゼとなった。『寄生獣』や『FF』シリーズの影響か、ファンタジー作品の宿命かはわからないが、『ドラクエ』シリーズも、デスピサロオルゴ・デミーラなど、鳥山明の絵でもなお、グロテスクな怪物をしばしば登場させるようになっていく。

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占いを信じない日本人と『スパークル』

エマニュエル・トッドの『問題は英国ではない、EUなのだ』で、ヨーロッパでは宗教心が失われたと述べている。 

それが単に人が教会に行かないということなのか、神を信じていないということなのかが今一わからないが、興味深い話ではあった。


 最初のキリスト教の崩壊は18世紀の半ばにパリ盆地を中心に起こり、フランス革命が起こった。

第二は1870年から1930年の間で、イギリス、ドイツ、スカンジナビア半島全域で、その結果ナチス政権が成立した。

第三が1960年代から1990年、あるいは2000年頃にかけてフランスのブルターニュ、中央山岳地帯、アルプス、ベルギー、オランダ南部、アイルランドポーランド、スペイン北部、ドイツのバイエルンなどで起こったという。

 この第三のキリスト教の崩壊がイスラム教徒の迫害に繋がっているというのがトッドの主張だが、では日本ではどうなのだろうと私は考えた。


 私の考え方に、「今流行っていないものは何か」を考えるというのがある。 例えば、今流行っていないのは「上から目線」という言葉である。

この言葉は2000年代から2010年代前半までに流行し、以後使われなくなった。 

理由は、役割を終えたからだと、私は思っている。 

この言葉が流行する以前、目上に対しては物が言いにくかった。 どんなに正論を唱えても、「目上に対してそんな言い方はないだろう」と言われてしまえば、言葉が続かなくなる。 

「上から目線」は、良い意味にも悪い意味にも使われたが、根本的な役割は、対話における上下関係を無くしてしまうことにあった。 

だから、現代の日本人は、対話において目上を全く恐れていない。言おうと思えば、どんなことでも言える。 


以上は脱線だが、今流行っていないもののひとつに占いがある。 私の記憶する限りでは、流行した占いはスピリチュアルあたりが最後である。

 苫米地英人も、占いは宗教だと言っている。ならば占いの衰退は、宗教の衰退だともとれる。


 もっとも、日本での宗教の衰退が、ヨーロッパの宗教の崩壊と同一ととれるかどうか。

 なぜなら、日本の占いの衰退は、社会への信頼と繋がっているからである。

 占いの結果が良かろうと悪かろうと、「いつかは幸福になれる」と信じているから、人は占いをするのである。

だから占いをしないのは、自分達を幸福にしてくれるはずの社会を信じていないのである。


 話は変わるが、2010年代の音楽をずっと不作だと思っていた私にも、最近いいと思える曲が耳に入るようになってきた。

星野源の『恋』やRADWIMPSの『前前前世』などである。 90年代を最高峰とする私にとってはまだイマイチの感はあるが、それでも聞ける。


 そんな中で注目したのが『スパークル』である。曲自体は緩やかなバラードだが、それでいてイントロのピアノが実に力強い。 そして、歌詞がいい。 これほどいい歌詞を解説するのも野暮だが、一部抜粋してやってみよう。

まだこの世界は 僕を飼い慣らしてたいみたいだ 望み通りいいだろう 美しくもがくよ

 

自分が世界に飼い慣らされてるというのは使い古された表現だが、今の時代では逆に新鮮である。

ついに時は来た 昨日までは序章の序章で 飛ばし読みでいいから ここからが僕だよ 経験と知識と カビの生えかかった勇気を持って いまだかつてないスピードで 君の元へダイブを

 

「カビの生えかかった勇気」というのは、従来なら「錆び付いた」などと表現されていただろう。それでは足りないという想いが感じられる。

運命だとか未来とかって言葉がどれだけ手を 伸ばそうと届かない 場所で僕ら恋をする 時計の針が二人を 横目に見ながら進む そんな世界を二人で 一生いや何章でも 生き抜いていこう

 

「運命」や「未来」という言葉が、恋愛にとって邪魔なのである。

 「時計の針が二人を横目に見ながら進む。そんな世界を二人で」 というのは、周囲がその恋愛を快く思っていないということであり、二人は幸福な未来を描けていない。

 二人にとって恋愛は人生ではなく物語であり、いつか終わりが来るものである。

 現代ほど自由恋愛が認められている時代はないというのに、何が二人を邪魔しているというのだろう。

 それは「運命」や「未来」を説く者であり、そのために二人は疲弊し、勇気にも「カビが生えかか」っている。

そんな勇気を奮い起こして、「いまだかつてないスピード」だから、二人は「未来」が信じられないのである。

   

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『GODZILLA 怪獣惑星』

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GODZILLA 怪獣惑星』を見たのは、去年の『シン・ゴジラ』のヒットと、今回のゴジラの脚本が、『まどか☆マギカ』の実質的な作者だったからである。
もっとも直前で来年5月に次作があると知り、三部作という噂もあるが確認できていない。続きがあるため、今ここで書けることは少ない。また『シン・ゴジラ』と違い、現状ヒットしていない。
それでも今回書くのは、はてなでこの作品を紹介した記事が、この作品について何も感じ取っていなかったようだったからである。その記事はランキング入りしたが、ブクマなどをつけていないので、誰の記事かわからない。
GODZILLA 怪獣惑星』はあらゆる点で現代の作品を踏襲している。
まずは「忘却」がキーワードとなっていることである。地球人がゴジラに勝てずに宇宙に逃亡したのを、サカキ・ハルオは「忘却」と言う。ハルオはゴジラを倒す方法を見つけるが、それを実践しなかったことを「忘却」と言うのである。
「あの状況では無理だった」という意見もあり、こちらの方が真実だろう。しかしハルオは「忘却」と思い、苔の化石を見て、「俺達は忘却したのに、地球は俺達を忘れていなかった」と言う。
また、地球に次々と怪獣が出現する中で、二つの宇宙人のグループが地球人に協力するという設定に設定が重なる構成も、『君の名は』以降よく見られるものである。
二つの宇宙人グループの一方が頑健な肉体と合理主義、一方が「献身」を教義とする宗教なのは興味深い。特に宗教は、今までの日本の作品では、ごく一部でしか取り上げてこなかったものである。
物資と兵力が乏しい中で、消耗戦を繰り広げるのも、「進撃の巨人」を踏襲している。
部隊が地球に上陸した時に、ゴジラの亜種に襲撃され、隊長は撤退を決意する。しかしそのための行動は、別の地点に上陸した部隊と合流するという規程の路線だった。追い詰められた者には選択肢さえない。
移動中「このまま撤退したら俺はゴジラに会わずに帰ることになる」とハルオが言うが、メトフィエスは「ゴジラがこちらを見つける」と言う。このゴジラは逃げ切ることができない。追い詰められた状況をとことん演出するのも最近の作風である。
ランキングした記事は、「対象となる風景がないのでゴジラの大きさがわからない」と言っていたが、製作者はそれが分かっているから、森が盛り上がってゴジラが姿を表すという演出をしている。
このゴジラは、2万年の間成長を続けていた。
ここに、個体が進化する怪物からの脱却の可能性を、私は感じている。
人類は宇宙を放浪し、何十年も苦しんだが、その苦しみは、問題を解決するための苦しみではなかった。人類が苦しんでいる間、その問題は幾何級数的に膨張していたことを暗示しているようである。


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従軍慰安婦問題での右翼の本音は「無謬性の追求」

従軍慰安婦問題は、多くの議論がなされたが、日本のコンセンサスを作るという点では不毛な議論だった。

 右派の議論に納得できる点は多々あった。 

「戦後の価値観で判断するべきではない」という意見はその通りだし、「日韓基本条約で補償は決まったのだから、それ以上の補償は必要ない」という主張には一定の説得力があった。「我々はいつまで謝罪すればいいのか」という主張も、「謝罪が足りていない」と主張する左派に対して、謝罪の限度を想定していない現実を露呈させる効果があった。 

それでいて従軍慰安婦問題の議論は、国民的合意の形成からは遠かったのである。

 その理由は、右派の主張が少しずつ違いながらも、その違いを右派が議論しなかったことにある。

 元々謝罪自体が必要ないとする右派も多かったのに、「謝罪は十分した」「いつまで謝罪すればいいのか」という右派との間の議論は行われなかった。

 このような右派の在り方は、私にある状況を想起させた。 

学校でも会社でも何でもいいが、ある人が被害を受けたとする。 

被害者は周囲を巻き込んで加害者の非を訴える。それに対して周囲は、「あの人は本当はいい人なんだよ」などと庇ったりする。それでも被害者が訴えていくと、「わかった。だがお前にも悪いところがあった」などと言われて、妥協が成立したような状況になる。

 しかしまた加害者が加害行為に及び、被害者が訴えると、今度は「お前が悪いんじゃないか」と言われたりする。

「お前にも悪いところがあった」が「お前が悪い」に替わっているのである。こうして被害者が加害者以上に問題にされ、状況は何も変化していない。

「従軍慰安婦の強制連行は事実無根」は事実無根!! - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

を書いた頃と違い、私は日本軍が韓国人女性を従軍慰安婦として強制連行したとは思っていない。(『河野談話の検証報告書』が従軍慰安婦の強制連行を認めた報告書なのを否定したわけではないので注意) 

その理由は朴裕河の『帝国の慰安婦』を読んだからで、(まだ読みかけだが)挺身隊の強制連行を従軍慰安婦の強制連行と誤認されたか、業者が日本軍を装って強制的に連行した可能性を指摘するこの本は、従軍慰安婦の強制連行の点では日本軍を無罪とする。しかし国家としての日本の責任はあるとしている。

この論は私にとって納得のいくものだった。 朴の議論は、多くの点で日本の右派の主張と共通していた。今従軍慰安婦問題の議論が大部鎮静化しているのは、朴のおかげだろう。 

しかし、日本で朴がしたようなアウフヘーベンができなかったのは、先に述べた右派の一見理性的な主張のためなのである。 

「強制連行の証拠がない」「いつまで謝罪すればいいのか」といった理性的な部分に耳を傾けると、いつの間にか「日本に全く罪はない」という議論に発展するから、左派は全く右派の主張を受け付けなかったのである。 

つまりこれらの「理性的」な主張は、「わかったが、お前にも悪いところがあった」という、相手に少しでも理性が働いたところで一気に追い落としにかかる類いの、集団の悪意なのである。 

ここまで「右派」と言ってきたが、「右派」とは本来、穏健な中道右派まで含むものである。しかし従軍慰安婦問題に関して、99.9%は極右であり、議論は多様性があるようで、実質は無個性な集団に過ぎなかった。 

この無個性は、無謬を無限に追求することでできあがり、その心理の裏には強い加害者意識がある。 

加害者意識の極みが、「従軍慰安婦は娼婦」などという発言である。現代でも、風俗嬢が自らの意思のみで風俗に勤めることは少ないと思うが、当時ならなおさらやむを得ない事情があって従軍慰安婦になったのである。それに対し、レッテル貼りをして自らを無謬とする。強制連行の事実がなかったのに、右翼は罪の意識を露呈しているのである。


 弁論部に所属していた学生時代なら、この手の付き合いきれない議論に対し、先輩などから「アウフヘーベンする努力をするんだよ」と言われたりした。 

今私は、この手の議論に対し、アウフヘーベンをすべきではないと思っている。 

無謬性追求の議論は、相手が受け入れる姿勢を取る度に、相手を無限に否定してくるのである。

 だからこの手の議論には、真実があってもそれを受け取らずに徹底拒否し、質の悪い議論が繰り返されるなら人格批判をする必要もある。

 無謬性追求の議論者に必要なのは、今のままでは自分が受け入れられず、人格まで否定される可能性があることを分からせることである。 

無謬性の議論に対する者に必要なのは、議論の選択肢を増やすことである。平行線、泥仕合、それを自らの力不足と思う必要は全くない。議論でのアウフヘーベンは相手がいてできることで、相手に力量がないのにアウフヘーベンは不可能である。

 そして相手が無謬性を追求していると判断する限りアウフヘーベンは選択肢の順位は下位に置くことである。 

相手が疲弊しなければ受け入れさせることできない議論がある。それを知らないと自分は疲弊する。そのことを知るべきである。 


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日本型ファンタジーの誕生⑬~『東京喰種』:1金木研は神代利世とセックスする

いやーやっと『東京喰種』を書ける。連載の方はもう終わろうとしてるけどwww
『東京喰種』は、日本型ファンタジーの作品群の中で、私の一番お気にの作品である。日本型ファンタジーの中で最も奥が深い。
実写映画で霧島董香役だった清水富美加は、宗教の道に入って女優を引退した。その際「人肉を食べるような役柄」に良心や思想信条との葛藤を覚えたという意味のことを言ったといい、その役柄が『東京喰種』のことだという。
しかし宗教家となった清水がどう思おうと、『東京喰種』はヒューマンな作品である。

進撃の巨人』や『亜人』の女性キャラが物足りないのに比べ『東京喰種』は女性キャラの心理が良く描けている。
『東京喰種』には多くの暗示があるが、その多くは多義的である。
金木研(以下カネキ)が半喰種になるきっかけとなる「大喰い」神代利世(以下リゼ)の存在も多義的だが、第一にはリゼは淫乱の象徴である。
一見清楚な女性に見えながら、若く線の細い人間の男を狙って補食するリゼは、補食を含めて男との関わりは全てセックスの暗示である。
月山習はリゼと美食について語り合うが、リゼと考えが合わない。「おいしいに越したことはないけど、お皿に盛れる量じゃ足りないもの」と言われてしまう。
月山の美食は、リゼとの関係においては二人で高め合うセックスを意味するが、「お皿に盛れる量じゃ足りない」とは、相手が一人じゃ足りないということである。
「あなたも退屈。ああ、でも、そんなにキライじゃなかったわ」
と去り際にリゼに言われる万丈数壱など、正に遊ばれた男が言われるセリフである。

上記の件で、月山を怒らせたセリフ。

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喰種は人間に憧れ、人間を羨み、人間になることを目指す。
カネキの半喰種化や、クインケ、クインクス、オッガイなどばかりではなく、喰種が人間を目指すことで、人間=怪物という、日本型ファンタジーの条件が成立している。そしてリゼは、人間を目指さずに喰種として快楽を追求するキャラである。

初期のカネキは、赫子を使うと女言葉を使い、貪欲に人間を食おうとする。それはカネキの中のリゼが語っているようである。
カネキは赫子を使いたくないという。自分に制御できない力を使ってはならないと。それは清楚な女性と思ってリゼに近づいたカネキが、淫乱女だと知ってリゼから逃げていることを意味している。
しかし暗示の多義性により、上記とは矛盾しないが、女言葉で人間を食おうとするのは、実はカネキ自身である。
後にリゼと再会したカネキが、極度の飢餓状態により、正気を失っているのを見て、「あなたがいないと僕は空っぽだ」と失望するが、それに対して「お前は自分の力で戦ってきた」と四方がいうのは、そうゆう意味である。カネキは自分の中の他人から奪いたいほどの貪欲さや凶暴性に無自覚、または無自覚であろうとし続ける。この状況は『東京喰種:re』で、カネキが有馬貴将と戦う時まで続く。

『東京喰種』7巻で、カネキは「アオギリの樹」に捕らわれ、「アオギリ」の幹部のヤモリに手足の指を切られ、再生してはまた切られるという拷問を受ける。カネキの髪は真っ白になり、爪は赤黒くなる。
精神的に追い詰められたカネキは、妄想の中でリゼと会話をする。
リゼは「ヤモリを許せるか」と尋ね、カネキは「許せない」と答える。
「でも赫子は使いたくないんでしょう?」とリゼが聞くと、「制御できればいい、僕があなたを超えればいい」と答え、妄想の中でリゼを喰う。
それまでカネキは赫子を「僕の中の喰種」と言っていたが、それを否定し、「僕は喰種だ」という。そしてヤモリを倒す。

その後カネキは「反アオギリの樹」を結成し、20区から6区に移動する。目的はリゼの正体を探るためである。
「神代理世という喰種は存在しない」とイトリに教えられ、「アオギリ」に拐われたのも、カネキがリゼの赫子を持っていたからである。
しかしリゼの過去を探るこの絵

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これってリゼの男関係を気にするカネキの姿にしか見えないんだけどww。「神代叉栄!?昔の男か!?」って声が聞こえてきそうwww。お義父さんですよお義父さんwwww。

半年ほど喰種のみを喰う、いわゆる共食いをして、カネキは強くなる。赫子が増大し、顔の半分が赫子で隠れる「半赫者」にまでなる。
要するにパワーアップだが、
共食いは喰種を狂わせる。
CCGの篠原特等と戦った時のカネキ。

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何喋ってんのかわかんねえwwww
「これまで会った喰種の中で、一番イカれてやがるね君…!!」
と篠原に呆れられる始末。
この後亜門鋼太郎と戦ってやや正気に戻る。「ただの喰種でいいんだな!!」という亜門に、「もう食べたくない」とカネキが答えるのが印象的。そしてカネキは逃走するが、完全に正気には返らない。カネキは合流した万丈を傷つけてしまう。

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「助けにきたよ」と言いながら、万丈の腹を貫く。
戦闘能力の低い万丈を稽古する時、カネキは万丈を徹底的に言葉責めにする。

何が“盾”だ。その程度の力で一体何が守れる?大事な人、愛する者、守りたい存在、弱ければこぼれ落ちる

 

「この世の全ての不利益は当人の能力不足」というヤモリの言葉に感化され、カネキはトレーニングに励み、共食いをして強くなった。
より強い敵が現れればもっと強くなり、敵の勢力が大きければ自分も勢力を増やす。あるいは部下を強くする。
そうして自分、部下に強さを求めていく。強さを求めるのに際限がない。
部下が弱ければ非難する。それが「助けにきたよ」と言いながら、万丈を貫いた意味であり、鯱(神代叉栄)が「それでは貫くか折れるしか道は無し」と言う理由である。

カネキは自分の道が正しいのかわからなくなり、リゼに会いにいくが、上記の理由で愕然とする。

僕が見たリゼさんは…僕が聞いたリゼさんは…余裕があって…奔放で…強くて…凶悪で…

 

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犯行現場写真ですwwww

その後カネキは芳村と話し、「君が捨てようとしているものは、君の半分を占めている部分なんだよ」と諭される。リゼは人間の要素のない喰種なのである。
芳村の説得により、カネキは「あんていく」に戻る決意をする。

霧島董香(以下トーカ)は、ツンデレのようでツンデレでないキャラである。
ツンしかない時期は、デレが全くない。
そのトーカがカネキを恋愛対象として意識するのは、「アオギリ」と戦った時である。
弟のアヤトが「アオギリ」の幹部で、アヤトと戦い、傷つき、仲が良かった過去を想い、「一人にしないで…」と呟く。そこに「(一人に)しないよ」と言って、カネキが助けに入る。この時である。
カネキが「反アオギリ」を結成する時、トーカもついて行こうとするが、カネキは拒絶する。
後にトーカと再会した時に、「みんなを守るために戦っている」と言うが、「みんなはあんたのものじゃない」と、トーカに否定される。
「それでもいいよ。君が一人にならないために…」
とカネキは言うが、永近英良にカネキが嘘をつく時の癖を教えられていたトーカは騙されず、カネキをボコにする。本当はカネキはリゼを追っているのである。

そのトーカが『東京喰種:re』で、

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と尋ねる。

童貞ですよ、カネキくんはwww

セックスしたと言っても妄想の中だし。

人間は無制限に、自分にも他人にも強さを求める時はあるし、男は淫乱女のフェロモンにやられる時期があるしwww

トーカがこんなことを聞くのは、リゼとのことが気になるからである。

まー「君を一人にしないために」なんて嘘つくってことは、二股かけようとした自覚はあるんじゃないの?

こうして、カネキは真の伴侶と結ばれる。(こーゆーオチかよ!!)

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立憲民主は選挙で落とすべし

衆院選挙が終わった。

 自民は4議席減らしただけ、公明との連立では議席数は代わらず、与党が三分の二を占めた。

 ある記事で与党は三分の二を割るだろうと述べたが、その予想は外れた。しかも消費増税を訴えての勝利である。 

今回、保守本流とは何かが分かったような感じがする。

 保守本流の役目は、各階層への利益配分である。 この役目は本来、野党からの突き上げによって実践されるが、それだけに突き上げが無いと、「これは違う」と感じるものらしい。

その感覚は長く政権を担ってきたことで培われたものである。


 もっとも、安倍政権が下層への配慮をしたと言えるかどうかだが、教育無償化に世論が流れている中で、安倍政権は消費増税分を子育て支援に充てるとしたのは、教育無償化論への反発である。 

増税見送りによって年金が減額されたのだから、増税分は年金額を戻すのに充てるべきである。ここに私は、安倍首相の考えの分裂を見る。

安倍首相は先に年金を減額することで、今回国民に増税を飲ませるのに成功した。

 しかし年金減額を決めたのが安倍首相である以上、年金額を戻すのは、先の決定が失政だとすることになり、安倍首相の不名誉である。この点、安倍首相も闇に食われた。 

しかし盛り上った教育無償化論に流されなかった点、安倍首相の保守本流の精神はまだ生きていると言えるだろう。


 しかし与党以外の結果は、全て中途半端である。

 立憲民主が57議席を取り、立憲民主を抜くと見られた希望の党は及ばなかった。

 注目すべきは、共産、維新が議席を減らしたことである。 共産が議席を減らしたのは、共産の平和主義が票を集められなかったからである。そして注目が集まった希望に対し、新味に欠ける維新が議席を減らした。

 ここから読み取れるもの、それはリベラルの崩壊に危機を感じた国民が、立憲民主に票を入れたということである。

リベラル崩壊の危機に、平和主義は見捨てられた。リベラルは土俵際で踏み留まった。 

しかしリベラルが生き残ったという明るさが感じられない。

はてなでも、選挙結果の記事がランキング入りしていない。これから書くかもしれないが、山猫日記さえ、現時点で書いていない。 

そもそも、リベラルは民進党を支えていたのかという疑問が湧いてくる。 

リベラルが自由にその発言ができるのも、旧民主党以来の流れがあるからである。 

ならば平和主義がリベラルの勢力を弱めているのは自明であり、リベラルが力を増すように、リベラルに平和主義を捨てるように唱えることもできたのに、それをしていない。 

はてなのランキングを見て、リベラルは発言が減ってきているように感じられる。 


リベラルはリベラルな政党を支えていないし、リベラルな議論は、今後減っていくと思われる。

 リベラルが立憲民主を支えたのは、今回僅かに得票率が上がったことからも明らかである。

しかし今後得票率が右肩上がりになるとはほとんど期待できない。むしろまた下がっていくだろう。


 それは、リベラルが真に社会的弱者の立場に立っていないからである。 真の社会的弱者は非正規労働者である。

今の日本社会は、非正規労働者に絶対に報いない、利益配分しないことで成立している。 

声を挙げない非正規も問題だが、中間層が非正規を無視することで、非正規は右翼的言動と生活保護受給者や障害者二級の人逹を差別することにアイデンティティを見出だすようになった。リベラルが右翼を増やしているようなものである。


 今後の政局として、短期的には希望と維新で票を食い合う展開などはあるが、中長期的にはリベラルが勢力を減らしていくだろう。

 リベラルが勢力を減らしても、ポピュリズムがリベラルの代用をする可能性があるが、共謀罪法案の時に見るように、橋下氏のいない維新は保守反動となる。希望も恐らくそうなるだろう。 


そもそも2015の労働者派遣法改正の時に、全面的に改正に反対した野党こそが、非正規労働者の敵である。

 リベラルの復権に、まず立憲民主を守るという考えに、私は全面的に反対する。

非正規労働者を見ない立憲民主は選挙で落とすべきである。 

猿は木から落ちても猿だが、政治家は選挙に落ちればただの人である。ただの人が増えれば、その中から非正規労働者と同じ視線で語る者も生まれてくるだろう。 


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ハイデガーとキリストと夜神ライトと

私は哲学を学んだことがない。
だからハイデガーの『存在と時間』と時間について、哲学的に考えて論じることはできない。
もっとも思想自体は新書で学んだ。もっとも解釈が別れるケースもあるようだが、ここでは一般的な解釈で語ろう。
つまり、人間は生まれてきた場所について、その場所にいることに意味があるという解釈である。
だから国家や共同体に貢献することが、人間の人生を有意義にするというものである。これに対し、「国家や共同体に貢献しても、国家や共同体が個人に充分に報いてくれるとは限らないし、その環境が個人が力量を発揮するのに適しているとも限らない。だから努力に報いてくれて、力量を発揮するのに適した場所に身を置く方がいいのではないか」という反論が出てくる。
この反論を認めれば、人間がひとつの場所に留まる理由が無くなり、自分の利益になる場所に移動していいことになり、『存在と時間』の意味が無くなる。だから多くの人が、その場所に留まることに無形の意味があると説いてきたが、それが成功してきたとは言えない。
この問題に答えを与えてくれるのがキリストである。

当たり前のことだが、恐らく前提になっていないことを述べよう。
それはキリストがユダヤ人であり、キリスト自身には新宗教を創始したつもりはないということである。キリストはユダヤ教の一派として教えを説いたのである。
そしてその教えは、当時のユダヤ社会の問題を背景にしている。
当時のユダヤ人はローマ帝国に支配されていた。
ユダヤ教は、神の教えを守れば聖地カナンに国を持つことができると説く宗教である。
逆に言えば、国を失うのは神の教えを守らなかったからであり、それだけにユダヤ人は神の教えを守り、守った証しとしての独立を求めてきた。
その想いはアッシリア新バビロニアなどに支配される度に強化されてきた。
そしてローマに支配された当時のユダヤ人も、当然のごとく密かに独立を期した。しかしローマはアッシリア新バビロニアよりさらに強大であり、客観的に見ても、独立はほとんど絶望的だった。
独立できないことは、ユダヤ人にとっては耐えられなかった。多民族に支配されるのは神の教えに背いたからで、ユダヤ人は神からの罰が恐ろしかった。

民族の独立は重要であり、多民族の支配を受け入れるように説くのは、本来慎重を要することである。
しかし独立が不可能な場合、支配者がその支配を受け入れるに足る対象かは、時に独立より重要である。チャーチルが「イギリスの歴史はカエサルドーバー海峡を渡った時に始まる」と述べたように、支配を受けることさえ、その民族のアイデンティティになることがある。
キリストは、ローマに支配を受け入れるに足る対象と見なしたのである。
だからキリストは愛を説いた。我々の神は人を罰する神ではないんだ。ローマの支配を受け入れても、神は我々を愛してくれるのだと。
普遍性は、特殊性を無視することではない。
カエサルのものはカエサルに」という政教分離の言葉はもちろん、「右の頬を打たれれば左の頬を出せ」という言葉にも、この時代の特殊性を考えるべきだろう。犠牲の精神は普遍性に繋がるが、実際には有害な場合の方が多い。頑なに独立を求める人々をたしなめるために、強い言葉を使ったと考えた方がしっくりとする。
「神よ、なぜあなたは私を見捨て給うたか」
という、磔刑に処せられたキリストの言葉を、覚悟の足りなさ示すものとも思わない。
覚悟が人を泰然と死に赴かせるというのを、私は半分しか信じていない。キリストは最後の瞬間まで希望を持っていたのであり、希望による情熱を苦痛が上回った時に、心が折れたのである。だからこの言葉はキリストの生命力の表れであり、何よりキリストが自分のために生きていた証拠である。

キリストによってユダヤ人が変わったかと言えば、ほとんど変わらなかった。
キリストの死後、ユダヤ人は反乱を起こし、ローマの手でエルサレムの大神殿は破壊され、ユダヤ人はディアスポラの歴史を送る。
約2000年の後に、ユダヤ人は聖地カナンに帰り、再び国を起こし、周辺国と戦い、パレスチナ人を弾圧、虐殺している。キリストは共に生きたかった人々に対し、今なお敗北者のままである。

キリストの教えはユダヤ人の小数派で終わるか、消滅するはずだった。
しかし、そこにパウロが現れた。
パウロギリシャ人で、ギリシャ人としてキリストの教えを理解した。パウロによって、キリストの教えは世界宗教になった。

ハイデガーの思想は、今自分のいる場所が自分に利益を与えることを述べたのではない。
利益、不利益に関わらず、その場所に留まることで生まれるエネルギーの大きさを述べたのである。
『Death note』の夜神ライトが、その優れた頭脳のわりに厨二なままなのは、ライトがデスノートにより、世界に直結したからである。世界中がライトの居場所だったのである。
「その場所が利益をもたらす」と説くのは、むしろ不適切である。神に聖地カナンを約束されたユダヤ人こそが、ディアスポラの民だったのだから。


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