坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

ドラゴンボールを考える⑥~「破壊神シャンパ編」

現在、アニメでは「宇宙サバイバル編」が佳境に入っているが、こちらは三週遅れくらいの「破壊神シャンパ編」www 


悟空が先鋒となり、ボタモに勝利するが、第6宇宙のフリーザであるフロストが毒針での動きを封じ、悟空の場外負けとなる。

 一見、悟空が戦いの場に到着していないか、何らかの理由で戦線を離脱し、最後に戦いの場に復帰して逆転勝利するという、原作以来のパターンの踏襲のように見える。しかし原作では、悟空の戦線離脱は不可抗力である。 

『DB超』でフロストに負けたのも、不可抗力と取れないことはない。 しかし、悟空は「SSJのままでいけると思った」と言っている。

 SSJBで戦ったとしても、フロストの毒針のリスクがなくなるわけではない。しかし危険な相手には、奥の手を出させる前に勝負をつけるのが大事なのである。


 「宇宙サバイバル編」は、勝った方が地球を手に入れる戦いで、悟空達にとっては、負けても地球が第7宇宙から第6宇宙に移動するだけのことである。

 しかしフロストは、負けてはならない敵なのである。 フロストは自ら宇宙海賊を組織して星を襲わせ、その海賊を退治して正義のヒーローとして名を上げていた。

 どうもあまり得にならないような話だが、このエピソードは、フロストがフリーザ以上の悪役だと示すもので、そういう相手に負けてはならないのである。


 この後ベジータがフロストと戦うが、一撃でフロストを撃破している。しかしそれはベジータがフロストの毒針を知っていたからである。そのためベジータはSSJBになる必要がなく、悟空がSSJBで戦うべきだったことを巧妙にごまかしている。


 一方マンガ版ではフロストの自作自演の話はない。 

フロストは第6宇宙一の拳闘士としてエントリーし、「早く済ませるため」に毒針を使っている。 マンガ版のフロストはアニメ版ほどの悪辣な印象はない。

 マンガ版ではピッコロが「これからどんどんフリーザみたいになっていくかもしれんぞ」と言っている。マンガ版のフロストは、反則で負けても傷にならないというサインである。


 ベジータはマゲッタを倒し、第6宇宙のサイヤ人のキャベと戦う。

 しかしキャベは「SSJになる方法を教えて下さい」とベジータに頭を下げ、ベジータが激怒。キャベをどつき回して、煽ってキャベをSSJにする。

 「キャベ情けない」という声がネットでは多かったが、実はそんな単純な話ではない。

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「でボカスカやってればいいんじゃありません?」 と、悟空とベジータは修業をつけているウイスに言われてしまっている。

 プライドも大事だが、素直さも成長するために重要なことである。

 しかし『DB超』の悟空は、亀仙人に「何より素直で真面目」と言われた悟空ではないのである。

これはひょっとしたらキャベが再登場した時にはものすごく強くなってるんじゃないかと思ってたらそんなに強くなってなかったwww

一方マンガ版にはこのウイスのセリフはない。 


ベジータは最後の相手のヒットに「時飛ばし」で破れる。

 悟空はヒットの動きを予測して良い勝負に持ち込むが、ヒットは悟空達の真似をして気合いを入れ、「時飛ばし」の時間を延ばすのに成功する。

 面白いのは、このあたりから「構え」が強調、アピールされるようになってきている。 

『DB』では、最初は悟空も構えて戦っているが、ストーリーが進むとだんだん構えなくなってくる。 

その理由は、強さのインフレで盛り上げている作品で、構えに意味がなくなってきたからだろう。「構え」は脱インフレの意思の現れである。


 悟空破れたり、と思ったところで、今度は悟空がSSJBで界王拳を使う。しかも十倍。

 結局『DB』は脱インフレを目指しても、インフレから逃れられない。


 と思ったら、マンガ版ではSSJGで戦ってヒットを圧倒する。

しかもSSJBは一日に何回もなれず、キャベ相手に一度SSJBになったベジータは、ヒット相手にSSJBの十分の一の力も出していないというマンガ版だけの設定で、SSJGの悟空の方がヒットを上回った。レベルの違い過ぎる相手には「時飛ばし」が通用しないという設定も加味されている。

この設定が妙に説得力があるのは、相対性理論に似ているからだろう。しかも低インフレに成功している。

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そしてビルスは、簡単にSSJBになれない悟空達を理解していないし、リスクを犯してSSJBになったベジータを理解していない。悟空達との間に精神的な交流がないからである。


 以上、今回の内容と、「DB超』4巻を読んで考慮した結果、主役交代があるかどうかはわからないし、ビルスに勝てるとも思わないが、マンガ版は主役失格という意味で悟空を否定するものではないという結論になった。 

その理由もわかっている。作者が提示し、読者が受け入れた世界観を作者が否定するのは本来邪道なのである。だから先行した劇場版とアニメはスピンオフ的なものなのである。 古代史、神話中心のブログ「人の言うことを聞くべからず」+もよろしくお願いします。 

信長の戦い③~桶狭間

太田満明著『桶狭間の真実』で、太田は従来の今川軍25000、織田軍2000という説を否定している。

 25000というのは100万石の全軍だが、今川義元が国を空にして遠征をするはずがなく、また駿遠三の三国では100万石もないとして、桶狭間での今川軍を一万としている。

 一方織田軍は、信長が岩倉織田を除いて、尾張の大部分を統一していたという。 その織田軍の精一杯の動員が2000ということはないので、織田軍の総数を5000と見積もっている。

 5000vs10000で、勝つ見込みは充分にある戦いである。

 また桶狭間は義元が上洛を目指して起こった戦いでもない。信長が丸根、鷲津などに五つの砦を築いて今川領を圧迫したために起こった戦いである。


 さらに近年の研究により、桶狭間で信長が奇襲で勝ったという従来の説は否定されている。 義元の本陣は窪地ではなく、桶狭間山にあったのであり、さらに織田軍の行軍中のどしゃ降りは止んでいる。藤本正行の『信長の戦争』では、今川軍は織田軍の行軍をはっきり確認できたとしている。これでは奇襲にならない。


 このように見ると、桶狭間は信長の采配の鮮やかさを示すものではなく、随分と平凡なものである。

 司馬遼太郎も信長の戦術面での能力を高くは見ずに、戦略、政略の面を評価した。


 戦術面での信長は平凡である。しかし信長の平凡さに気づくことが、信長の非凡さを知る鍵となる。


 井沢元彦は『逆説の日本史』で、桶狭間の後に徳川家康と同盟を結び、今川領に手をつけなかった信長を英雄と評している。 

確かに今川領に手を出せば、武田信玄と境界を接することになり上洛どころではなくなる。 今川領に手を出さなかったからこそ、信長は上洛して天下をとった。

 なるほど、ならば残る課題は義元の首が獲れたのが偶然か必然かである。偶然ならば信長の天下において、信長の力量はそれだけ割り引きされるのであり、必然ならば信長の力量は再認識される。


 そもそも、一度の戦いで総大将の首が獲れること自体、滅多にないことである。

 義元の首が獲れたのが必然なら、桶狭間は信長が義元の首を獲るために仕掛けた戦いということになる。


 丸根砦が陥ちて、佐久間大学が死んだのを、太田は「必ず助ける」と信長が嘘をついて砦を死守させたと推測している。

 実際そうだろう。死ぬまで戦う士気の高さは、信長への信頼があるからこそのものである。また砦が陥ちる前に信長が前線に到着していれば、随分有利に戦えると思うから、佐久間も疑問に思わない。

 太田は信長が丸根、鷲津砦を見捨てたのを、今川軍の勢力を削るためと推測する。しかしはたしてそうだろうか? 


これが、義元の首を獲るための鍵なのである。

 丸根、鷲津を救援しなかった理由がさっぱりわからない。


 義元は、信長をかなり警戒していたらしい。

 若い頃の評判も聞いていただろう。「うつけ」と言われた信長が、尾張を統一しようとし、今川領をも圧迫してくる。何をするかわからないという思いがどこかにあったのだろう。 


それが生産性が全くないという意味で、本当にわからない行動を相手がとった場合、緊張の反動による弛緩と、異質なものを否定したいという思いから、敵への警戒心をすっかり失ってしまうのである。


 信長は織田軍の総数の5000ではなく、2000で今川軍に突入した。今川軍は織田軍を阻むことなく、織田軍を易々と義元の本陣に入れてしまったと見るしかない。 


このように見ると、桶狭間は純然たる奇襲ではないが、奇襲らしい効果を生んで信長が勝利した戦いだということができる。 

戦術面での信長に見るべき面が少ないのはその通りだが、信長は重要な局面において、敵の心の隙に乗じるような戦術をとるのである。


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リベラルの停滞と再生の話

最近、リベラルが停滞している。
はてなでリベラルな記事はほとんどない。
たまにリベラルな記事があったかと思って見れば、それはどちらかといえば保守系の記事である。
最近パワハラについての記事があったが、それはパワハラ上司、またはブラック企業が無能だという記事である。
パワハラブラック企業を批判するリベラルは多くいたが、それらを無能だと言うリベラルはいなかった。
作業の標準化は世界的な流れだが、作業標準化の流れとパワハラブラック企業批判がほぼ同一軌道を描いているのは、馬鹿でない限りわかることだった。
だから保守系パワハラ無能論と、リベラルのパワハラブラック企業批判が手を結べば、パワハラブラック企業も簡単に一掃できた。しかしリベラルはそれをしなかった。
結局近年のリベラルの隆盛は、パワハラブラック企業にとどめをさせない程度のリベラルだったのだと、最近の動きから見えてくる。

と思っていた矢先、はあちゅう氏のセクハラの告発、ヨッピー氏の「はあちゅう氏を批判するな」発言、それに対するよしき氏の反論がはてなで話題になった。

tyoshiki.hatenadiary.com

その前に、私も「童貞」発言をブログ内でしているので、
社会的弱者への配慮を欠いた不適切な発言としておわび致します。
その後よしき氏がヨッピー氏に謝罪、ヨッピー氏も謝罪した。
一方フミコフミオ氏のように、岸氏を叩くことを優先すべきだったという意見もある。

delete-all.hatenablog.com

私はフミコフミオ氏には同意しない。
フミコフミオ氏は目的がずれている。目的はセクハラ、パワハラを無くすことだろう。岸氏を叩くのが目的ではない。

tyoshiki.hatenadiary.com


どの運動でも、この手の人たちは無制限に応援し、そして全面的支持をしない人を馬鹿にする。

そして、この手の人達は、殆どの場合問題について「ふわふわとした概念的な話」ばかりを強調して「実際の運用」にはこれっぽっちも興味がない。

 

 

私はここに、よしき氏の独特の問題意識を感じていた。
さらにメロンダウト氏の記事。

plagmaticjam.hatenablog.com

だからといって経験が大事じゃないとは言わないし発言を間違うな、憎しみをためるなとも自分は言わない。生きている限りなにか間違う。ただ間違ったら謝ればいい。そして許してもらえたりもらえなかったりする。

それでもなに考えてるかわからない他人と生きていくしかない。

せめても凡人であることを自覚しながら、さ。

 

正にこれである。
罪の無い人間はいない。今までのリベラルの動きは、問題となった人を糾弾することで、自分が「善人」になる運動だったのである。それが限界に達したのが、最近のリベラルの停滞の原因だと私は見ている。
しかし現状は悪いことばかりではない。罪のある者も主張する権利があり、また正しいことをしている者も批判されるのを受け入れていくことが、リベラル再生の鍵になると思っている。

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日本型ファンタジーの誕生⑭~『寄生獣』

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人の顔だと思ったのが割れて歯の生えた口や触手になる。またはぐにゃりと変形して怪物になる。
90年代にヒットした岩明均の『寄生獣』もまた、日本型ファンタジーの誕生に影響を与えた作品である。
ある時、空から謎の物体が降りてきて、地上に降りて蛇のようになり、人間の頭部に寄生する。
人間の頭部そのものが寄生生物になり、「この種を喰い殺せ」という本能により人間を喰う「パラサイト」。
主人公の泉新一は、この「パラサイト」に右腕に寄生される。そのことにより、人間と「パラサイト」の中間的な存在となる。そして新一は、「パラサイト」の性向を知るようになる。
「パラサイト」は知能が高く、短期間で言語や社会常識を学習し、人間社会に溶け込んでいく。
そして非常に合理的である。
しかし生存戦略を合理的に思考する結果として、他者への警戒心が強く、新一のような、寄生されながらも人間の脳が残った存在を危険と感じて攻撃してくる。そして他者への同情心が皆無、あるいは希薄である。
一方、人間は感情に流され、「パラサイト」のように合理的な判断ができない。しかし人間は弱いからこそ団結する。
このように、合理的、冷酷、孤立しがちな「パラサイト」と非合理的、情緒的、そして団結力のある人間の対立の構図が出来上がる。
新一は人間の側として、人間らしい感情を大事にしたいと思う。右腕に寄生したミギーの合理的で冷酷な意見をしばしば拒否し、弱くても情緒を大事にすることこそ人間の証しだと思うようになる。

しかし、ストーリーが進行するにつれて、この構図が崩れていく。
新一が「パラサイト」の攻撃を受けて瀕死の重症を負った時、新一の身体にミギーが入って治療したことで、ミギーの細胞の30%が新一の身体に混ざり、超人的な身体能力を発揮するようになる。また精神も変化し、動揺しても深呼吸するだけで落ち着きを取り戻すようになる。
また「パラサイト」の側も、田村玲子を中心に団結していく。
「パラサイト」はS市に集まり、「広川」という人物を市長に当選させる。
また田村玲子は、出産した子供に愛情を持つようになっていく。またミギーも、最後には自己犠牲的な行動を取るようになる。

こうして人間vs「パラサイト」の構図が崩れていく中で、人間側が「パラサイト」がS市に集まっているのを知り、「パラサイト」の掃討作戦を実施する。
人間側は「パラサイト」を駆逐し、議会の会場に「広川」を見つける。
「広川」は人間の傲慢を訴え、人間を減らすために「パラサイト」が必要だと訴える。
「広川」は撃たれ、「パラサイト」でない人間だとわかる。

ここで、この作品のテーマが人間の傲慢を訴えるものだと読者は思う。しかし、断じてそんなことはない。

寄生獣』のラスボス的存在として「後藤」がいる。
五体の「パラサイト」がひとつの身体に寄生し、そのため「この種を喰い殺せ」という本能が強化されて、戦うことに喜びを見出だすようになった「後藤」だが、「この種を喰い殺せ」という本能は物語の序盤で提示され、ストーリーとして一貫しているようだが、基本構図は弱いが団結する人間と、合理的で強いが孤立する「パラサイト」の対立である。
そしてこの対立は、実は人間側の敗北で終わっている。
S市の「パラサイト」掃討戦で、人間側は「パラサイト」と誤認して、人間を撃ち殺している。
弱い人間が信頼し合うことで団結し、「パラサイト」を掃討することで人間は「パラサイト」に勝利するが、誤射のリスクを犯しても疑う姿勢で「パラサイト」を掃討したことで、人間は「パラサイト」と同じになったのである。
新一と「後藤」の戦いは人間vs「パラサイト」の決着のように見せた付け足しである。

寄生獣』は、主人公が右腕とはいえ「パラサイト」に寄生されることで、「人間=怪物」の構図となる、日本型ファンタジーの萌芽的作品である。
こうして合理的で冷酷な精神を暗に認めた『寄生獣』が、マンガや社会にどれだけ影響を与えたのかははっきりしない。『デスノート』のような駆け引きがメインの作品に流れたような気もするが、はたしてどうだろうか。
近年の作品には、冷酷な決断や行動を示す作品が多くあるので、『寄生獣』の影響はゆっくりとしたものだったと言えるかもしれない。
寄生獣』の直接的な影響は、『ファイナルファンタジー』シリーズや『真・女神転生』シリーズなどと共に、怪物をグロテスクに表現したことである。それによって、『ドラクエ』シリーズの愛嬌のあるモンスターへのアンチテーゼとなった。『寄生獣』や『FF』シリーズの影響か、ファンタジー作品の宿命かはわからないが、『ドラクエ』シリーズも、デスピサロオルゴ・デミーラなど、鳥山明の絵でもなお、グロテスクな怪物をしばしば登場させるようになっていく。

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占いを信じない日本人と『スパークル』

エマニュエル・トッドの『問題は英国ではない、EUなのだ』で、ヨーロッパでは宗教心が失われたと述べている。 

それが単に人が教会に行かないということなのか、神を信じていないということなのかが今一わからないが、興味深い話ではあった。


 最初のキリスト教の崩壊は18世紀の半ばにパリ盆地を中心に起こり、フランス革命が起こった。

第二は1870年から1930年の間で、イギリス、ドイツ、スカンジナビア半島全域で、その結果ナチス政権が成立した。

第三が1960年代から1990年、あるいは2000年頃にかけてフランスのブルターニュ、中央山岳地帯、アルプス、ベルギー、オランダ南部、アイルランドポーランド、スペイン北部、ドイツのバイエルンなどで起こったという。

 この第三のキリスト教の崩壊がイスラム教徒の迫害に繋がっているというのがトッドの主張だが、では日本ではどうなのだろうと私は考えた。


 私の考え方に、「今流行っていないものは何か」を考えるというのがある。 例えば、今流行っていないのは「上から目線」という言葉である。

この言葉は2000年代から2010年代前半までに流行し、以後使われなくなった。 

理由は、役割を終えたからだと、私は思っている。 

この言葉が流行する以前、目上に対しては物が言いにくかった。 どんなに正論を唱えても、「目上に対してそんな言い方はないだろう」と言われてしまえば、言葉が続かなくなる。 

「上から目線」は、良い意味にも悪い意味にも使われたが、根本的な役割は、対話における上下関係を無くしてしまうことにあった。 

だから、現代の日本人は、対話において目上を全く恐れていない。言おうと思えば、どんなことでも言える。 


以上は脱線だが、今流行っていないもののひとつに占いがある。 私の記憶する限りでは、流行した占いはスピリチュアルあたりが最後である。

 苫米地英人も、占いは宗教だと言っている。ならば占いの衰退は、宗教の衰退だともとれる。


 もっとも、日本での宗教の衰退が、ヨーロッパの宗教の崩壊と同一ととれるかどうか。

 なぜなら、日本の占いの衰退は、社会への信頼と繋がっているからである。

 占いの結果が良かろうと悪かろうと、「いつかは幸福になれる」と信じているから、人は占いをするのである。

だから占いをしないのは、自分達を幸福にしてくれるはずの社会を信じていないのである。


 話は変わるが、2010年代の音楽をずっと不作だと思っていた私にも、最近いいと思える曲が耳に入るようになってきた。

星野源の『恋』やRADWIMPSの『前前前世』などである。 90年代を最高峰とする私にとってはまだイマイチの感はあるが、それでも聞ける。


 そんな中で注目したのが『スパークル』である。曲自体は緩やかなバラードだが、それでいてイントロのピアノが実に力強い。 そして、歌詞がいい。 これほどいい歌詞を解説するのも野暮だが、一部抜粋してやってみよう。

まだこの世界は 僕を飼い慣らしてたいみたいだ 望み通りいいだろう 美しくもがくよ

 

自分が世界に飼い慣らされてるというのは使い古された表現だが、今の時代では逆に新鮮である。

ついに時は来た 昨日までは序章の序章で 飛ばし読みでいいから ここからが僕だよ 経験と知識と カビの生えかかった勇気を持って いまだかつてないスピードで 君の元へダイブを

 

「カビの生えかかった勇気」というのは、従来なら「錆び付いた」などと表現されていただろう。それでは足りないという想いが感じられる。

運命だとか未来とかって言葉がどれだけ手を 伸ばそうと届かない 場所で僕ら恋をする 時計の針が二人を 横目に見ながら進む そんな世界を二人で 一生いや何章でも 生き抜いていこう

 

「運命」や「未来」という言葉が、恋愛にとって邪魔なのである。

 「時計の針が二人を横目に見ながら進む。そんな世界を二人で」 というのは、周囲がその恋愛を快く思っていないということであり、二人は幸福な未来を描けていない。

 二人にとって恋愛は人生ではなく物語であり、いつか終わりが来るものである。

 現代ほど自由恋愛が認められている時代はないというのに、何が二人を邪魔しているというのだろう。

 それは「運命」や「未来」を説く者であり、そのために二人は疲弊し、勇気にも「カビが生えかか」っている。

そんな勇気を奮い起こして、「いまだかつてないスピード」だから、二人は「未来」が信じられないのである。

   

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『GODZILLA 怪獣惑星』

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GODZILLA 怪獣惑星』を見たのは、去年の『シン・ゴジラ』のヒットと、今回のゴジラの脚本が、『まどか☆マギカ』の実質的な作者だったからである。
もっとも直前で来年5月に次作があると知り、三部作という噂もあるが確認できていない。続きがあるため、今ここで書けることは少ない。また『シン・ゴジラ』と違い、現状ヒットしていない。
それでも今回書くのは、はてなでこの作品を紹介した記事が、この作品について何も感じ取っていなかったようだったからである。その記事はランキング入りしたが、ブクマなどをつけていないので、誰の記事かわからない。
GODZILLA 怪獣惑星』はあらゆる点で現代の作品を踏襲している。
まずは「忘却」がキーワードとなっていることである。地球人がゴジラに勝てずに宇宙に逃亡したのを、サカキ・ハルオは「忘却」と言う。ハルオはゴジラを倒す方法を見つけるが、それを実践しなかったことを「忘却」と言うのである。
「あの状況では無理だった」という意見もあり、こちらの方が真実だろう。しかしハルオは「忘却」と思い、苔の化石を見て、「俺達は忘却したのに、地球は俺達を忘れていなかった」と言う。
また、地球に次々と怪獣が出現する中で、二つの宇宙人のグループが地球人に協力するという設定に設定が重なる構成も、『君の名は』以降よく見られるものである。
二つの宇宙人グループの一方が頑健な肉体と合理主義、一方が「献身」を教義とする宗教なのは興味深い。特に宗教は、今までの日本の作品では、ごく一部でしか取り上げてこなかったものである。
物資と兵力が乏しい中で、消耗戦を繰り広げるのも、「進撃の巨人」を踏襲している。
部隊が地球に上陸した時に、ゴジラの亜種に襲撃され、隊長は撤退を決意する。しかしそのための行動は、別の地点に上陸した部隊と合流するという規程の路線だった。追い詰められた者には選択肢さえない。
移動中「このまま撤退したら俺はゴジラに会わずに帰ることになる」とハルオが言うが、メトフィエスは「ゴジラがこちらを見つける」と言う。このゴジラは逃げ切ることができない。追い詰められた状況をとことん演出するのも最近の作風である。
ランキングした記事は、「対象となる風景がないのでゴジラの大きさがわからない」と言っていたが、製作者はそれが分かっているから、森が盛り上がってゴジラが姿を表すという演出をしている。
このゴジラは、2万年の間成長を続けていた。
ここに、個体が進化する怪物からの脱却の可能性を、私は感じている。
人類は宇宙を放浪し、何十年も苦しんだが、その苦しみは、問題を解決するための苦しみではなかった。人類が苦しんでいる間、その問題は幾何級数的に膨張していたことを暗示しているようである。


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従軍慰安婦問題での右翼の本音は「無謬性の追求」

従軍慰安婦問題は、多くの議論がなされたが、日本のコンセンサスを作るという点では不毛な議論だった。

 右派の議論に納得できる点は多々あった。 

「戦後の価値観で判断するべきではない」という意見はその通りだし、「日韓基本条約で補償は決まったのだから、それ以上の補償は必要ない」という主張には一定の説得力があった。「我々はいつまで謝罪すればいいのか」という主張も、「謝罪が足りていない」と主張する左派に対して、謝罪の限度を想定していない現実を露呈させる効果があった。 

それでいて従軍慰安婦問題の議論は、国民的合意の形成からは遠かったのである。

 その理由は、右派の主張が少しずつ違いながらも、その違いを右派が議論しなかったことにある。

 元々謝罪自体が必要ないとする右派も多かったのに、「謝罪は十分した」「いつまで謝罪すればいいのか」という右派との間の議論は行われなかった。

 このような右派の在り方は、私にある状況を想起させた。 

学校でも会社でも何でもいいが、ある人が被害を受けたとする。 

被害者は周囲を巻き込んで加害者の非を訴える。それに対して周囲は、「あの人は本当はいい人なんだよ」などと庇ったりする。それでも被害者が訴えていくと、「わかった。だがお前にも悪いところがあった」などと言われて、妥協が成立したような状況になる。

 しかしまた加害者が加害行為に及び、被害者が訴えると、今度は「お前が悪いんじゃないか」と言われたりする。

「お前にも悪いところがあった」が「お前が悪い」に替わっているのである。こうして被害者が加害者以上に問題にされ、状況は何も変化していない。

「従軍慰安婦の強制連行は事実無根」は事実無根!! - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

を書いた頃と違い、私は日本軍が韓国人女性を従軍慰安婦として強制連行したとは思っていない。(『河野談話の検証報告書』が従軍慰安婦の強制連行を認めた報告書なのを否定したわけではないので注意) 

その理由は朴裕河の『帝国の慰安婦』を読んだからで、(まだ読みかけだが)挺身隊の強制連行を従軍慰安婦の強制連行と誤認されたか、業者が日本軍を装って強制的に連行した可能性を指摘するこの本は、従軍慰安婦の強制連行の点では日本軍を無罪とする。しかし国家としての日本の責任はあるとしている。

この論は私にとって納得のいくものだった。 朴の議論は、多くの点で日本の右派の主張と共通していた。今従軍慰安婦問題の議論が大部鎮静化しているのは、朴のおかげだろう。 

しかし、日本で朴がしたようなアウフヘーベンができなかったのは、先に述べた右派の一見理性的な主張のためなのである。 

「強制連行の証拠がない」「いつまで謝罪すればいいのか」といった理性的な部分に耳を傾けると、いつの間にか「日本に全く罪はない」という議論に発展するから、左派は全く右派の主張を受け付けなかったのである。 

つまりこれらの「理性的」な主張は、「わかったが、お前にも悪いところがあった」という、相手に少しでも理性が働いたところで一気に追い落としにかかる類いの、集団の悪意なのである。 

ここまで「右派」と言ってきたが、「右派」とは本来、穏健な中道右派まで含むものである。しかし従軍慰安婦問題に関して、99.9%は極右であり、議論は多様性があるようで、実質は無個性な集団に過ぎなかった。 

この無個性は、無謬を無限に追求することでできあがり、その心理の裏には強い加害者意識がある。 

加害者意識の極みが、「従軍慰安婦は娼婦」などという発言である。現代でも、風俗嬢が自らの意思のみで風俗に勤めることは少ないと思うが、当時ならなおさらやむを得ない事情があって従軍慰安婦になったのである。それに対し、レッテル貼りをして自らを無謬とする。強制連行の事実がなかったのに、右翼は罪の意識を露呈しているのである。


 弁論部に所属していた学生時代なら、この手の付き合いきれない議論に対し、先輩などから「アウフヘーベンする努力をするんだよ」と言われたりした。 

今私は、この手の議論に対し、アウフヘーベンをすべきではないと思っている。 

無謬性追求の議論は、相手が受け入れる姿勢を取る度に、相手を無限に否定してくるのである。

 だからこの手の議論には、真実があってもそれを受け取らずに徹底拒否し、質の悪い議論が繰り返されるなら人格批判をする必要もある。

 無謬性追求の議論者に必要なのは、今のままでは自分が受け入れられず、人格まで否定される可能性があることを分からせることである。 

無謬性の議論に対する者に必要なのは、議論の選択肢を増やすことである。平行線、泥仕合、それを自らの力不足と思う必要は全くない。議論でのアウフヘーベンは相手がいてできることで、相手に力量がないのにアウフヘーベンは不可能である。

 そして相手が無謬性を追求していると判断する限りアウフヘーベンは選択肢の順位は下位に置くことである。 

相手が疲弊しなければ受け入れさせることできない議論がある。それを知らないと自分は疲弊する。そのことを知るべきである。 


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