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坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。新ブログ「人の言うことを聞くべからず」+を開設しました。古代史、神話中心のブログです。

火の鳥鳳凰編

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茜丸が死ぬ場面を、手塚が茜丸に対し厳しすぎると思ったことはないだろうか。しかしそう思っても、それを口に出すのは難しい。言いたくても、口にするのをためらってしまうのである。それは手塚が、そのように描いているのである。

「鳳凰編」は、手塚の「ブッダ」と同じく、輪廻の宗教観が背景にある。生きるものが死ねば転生する。人間が死んでも、同じ人間に生まれ変わるとは限らない。 虫に生まれ変わることもある。この宗教観は全ての生き物は平等であるという思想を導き出す。だから「ブッダ」では、飢えた動物に人間が自分の身を差し出し、食べさせる場面がある。生き残る権利は人間以外の生物にもあるからだ。

しかし「鳳凰編」は、輪廻の宗教観を前提にしながらも、その前提から「ブッダ」とは逆のベクトルに向かうのである。そのベクトルは、虫でも鳥でもない、「人間とは何か」というテーマに向かっている。 そして茜丸は、最後に「人間ではない」として断罪されるのである。

なぜ茜丸が人間でないのか?

その理由は、我王と茜丸を対置させればわかる。茜丸は悪人ではない。我王は人殺しであり、悪人である。しかし茜丸が人間でないなら、我王は人間だということになる。この作品の奥深さは、人間の価値が単純な善行や悪事によって決まらないことである。人間とそうでないものを分けるのは、不条理に対し怒りを持ち続けることである。茜丸の権力に対する不平は自分が基準だが、我王は罪を犯した時でさえ、不条理を見つめ続けている。我王と茜丸の姿勢は、芸術にも表れている。茜丸は美を求めたが、人間の苦悩を作品に表すことはなかった。我王の芸術は、あるいは醜いかもしれないが、作品に魂を彫り込むことができた。