坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。新ブログ「人の言うことを聞くべからず」+を開設しました。古代史、神話中心のブログです。

書評 メルヴィル「白鯨」

f:id:sakamotoakirax:20140227051903j:plainメルヴィルの「白鯨」について。
私が今までで一番面白かった
小説です。その面白さは読後も余韻に浸り、二、三日は酔っぱらったようになって、仕事にも集中出来ませんでした。危険なくらい面白い小説です。しかし一度しか読んでいないので、一度読んだ中で思ったことしか書けません。。一度しか読んでいない小説を論じるので、丁寧語でいきます。はい。
「白鯨」は「鯨学」で有名です。「鯨学」とはこの小説の中で、鯨についての科学的叙述や、鯨の歴史的な扱われ方など、ストーリーと関係のない章のことで、この「鯨学」のため、この小説を読めない、つまらないと思う人は多いようです。しかし私は、「白鯨」の読み方を見つけたのではないかと思っています。
まず語り手のイシュメイルは、多少のバイアスを持った変わり者だと思うことです。「人間には水を求める本能があり、砂漠の中を何日も歩いていると、必ず水のある場所にたどり着くのだ」などとイシュメイルは言いますが、「そんなの地球の表面の七割は水なんだから当たり前じゃん!」くらいに思って読み流していきます。わからないところがあっても、「こいつは変な奴だから」くらいに思って読み流していいのです。
この「鯨学」を、「データベースのようなもの」として、「全部を読まなくてもいい」という評論家もいますが、私はメルヴィルは、データベースを書いたつもりはないと思っています。メルヴィルはエンターテイナーです。あくまで「鯨学」は、全部読んだうえでの効果を計算して書かれているのです。
イシュメイル(メルヴィル)は、自分が鯨が好きで、鯨が偉大な生き物だと、「自分が思っていること」を分かってもらいたいだけなのです。イシュメイルは大げさな表現で鯨を褒め称えますが、鯨についての自分の思いを押し付けてはいません。そのためにあれだけの博学を示し、また「偉大な精神は偉大な骨格に宿るのだ」などと妙なことを言って、「やはり変な奴」と思われようとしているのです。読者はイシュメイルの言葉を斜めに読んでいるうちに、その熱が写っていきます。
熱が写って来たところで、「鯨学」が終り、モービーディックが現れる、不吉な前兆が次々と起こります。嵐が起こり、「聖エルモの火」と呼ばれる怪現象が発生し、羅針盤の向きが逆になります。
このくだりはリアリズムによる小説だと、怪奇現象が多すぎる、つまりオーバーな表現に思えます。しかし「鯨学」によってイシュメイルの熱が写った読者には、たまらない興奮となります。非リアルな状況が気にならないのです。むしろこの時点で、読者は非リアルな、神に近づくような、あるいは神に挑むようなものをこそ求めていくのです。ここまで書いて気づきましたが、「白鯨」を面白いと思えるかどうかは、体質によるところも大きいのです。自分を超えた、大きな何かを求める性質が、「白鯨」の印象を左右するようです。ですので冒険を求めない人は、「白鯨」はつまらないと思うかもしれません。
ようやくモービーディックが
登場するのですが、読んで驚いたのは、その追跡の記述の客観性です。「奸智に長けた」「この捉えがたい悪こそは、この世の始まりから存在していた」などと言われていたモービーディックは、実はただの鯨にすぎないことが、この追跡行でわかります。モービーディックは追われたから逃げ、逃げても追ってくるから反撃した、それだけなのです。しかしこれだけ客観的に書かれながらも、読者はその客観性が気になるどころか、記述の客観性にすら気づかないでしょう。読者はあくまで、モービーディックを神のような、悪魔のような存在として捕らえ続けるのです。そこまで熱が写っている状態にして、メルヴィルは読者を騙していきます。
以上、「鯨学」はメルヴィルの周到に計算された配置であるということができます。なお余談ですが、司馬遼太郎の「菜の花の沖」は、「白鯨」を真似した作品ではないかと、私は思っています。司馬作品は余談が多いので有名ですが、「菜の花の沖」はストーリーに比べて、余談が多すぎるのです。特に和船の話が多い。司馬氏は「鯨学」を和船に見立てたように思えます。しかし司馬氏の醒めた文体は「白鯨」のような小説を書くのに向かなかったと思います。「街道をゆく」の中に「愛蘭土紀行」があり、多くのアイルランド系の作家のことが書かれていますが、アイルランド系作家であるメルヴィルのことは書かれていないのです。私にはどうも、「菜の花の沖」を「白鯨」のように書けなかったため、司馬氏はメルヴィルと距離を置いたような気がするのです。