坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。新ブログ「人の言うことを聞くべからず」+を開設しました。古代史、神話中心のブログです。

『ガンジーの危険な平和憲法案』

6月29日新宿駅南口で、集団的自衛権行使容認に反対する演説を行っていた男が、体にガソリンをかけて焼身自殺を図った。 勇気ある行動か、はたまた迷惑行為、命の無駄使いか。ある人が批判すれば別の人が擁護し、世論は定まらない。 私は彼の行為に批判的である。彼の行為はベトナムのティック・クアン・ドック師の焼身自殺を思い起こさせるが、ティック・クアン・ドック師の場合、背景にベトナムの悲惨さがあった。しかし今回の焼身自殺事件の場合、少なくとも憲法に、命を賭ける価値などはない。 しかし私の言葉は、まだ力を持たない。なぜなら今回の事件こそ、憲法の条文と解釈の解離に対する、一番の批判だからである。護憲に徹さず、かといって改憲にも踏み切らず、今回の憲法解釈の変更を行った政権を、さして批判することなく、次の選挙でも政権の座につけてしまうことが容易に想像できる我々日本人に、彼の行為をただの迷惑行為と断ずる資格はない。 ならば、言葉に力を持たせよう。そのために、一冊の本の力を借りたいC・ダグラス・ラミス著『ガンジーの危険な平和憲法案』である。 インド独立の父、ガンジーには、独立後の憲法案があり、それは採用されず、闇に葬られた。 言うまでもなく、ガンジーは非暴力主義者である。ガンジー憲法案には、非暴力主義者としての思想が色濃く反映されている。というより、ガンジー憲法案は、非暴力主義が骨子である。 ガンジー憲法案はインドの70万の村の連合体とし、村々に強制力を持つ中央政府は存在しない。政府は、あくまで70万の村を繋ぐ、国連のようなものである。そして、インドは軍隊を持たない。軍隊を持たない点は、日本国憲法と同じである。 それだけではない。70万の村は自給自足の経済活動を行う。ガンジーの目指すインドに、経済学は必要ない。もとより70万の村の連合体では、公共投資による景気回復も不可能である。 軍隊を持たずに、他国が侵略してきたらどうするのか。無論非暴力運動で侵略者を追い払うのである。 「私達がイギリス人達にインドを与えたように、私達がイギリス人にインドを支配させているのです」 このように言うガンジーは、イギリスの製品を買わない、イギリス政府の職に就かないなどの、イギリス政府への非協力をにより、独立を勝ち取った。しかし非暴力運動には、指導者を必要とする。 理念的な指導者を持たない場合、始めから徹底した非協力を貫くしかない。そして非協力に徹するには、経済成長を放棄した自給自足の体制を打ち立てるしかない。 平和主義とは、結局は非暴力主義に至るのだろう。というより、非暴力主義に至らない平和主義など想像もつかない。ならば日本が平和主義を徹底するには、資本主義を放棄して、自給自足の経済体制を造らなければならない。 我々はガンジーの道を選ぶべきだろうか?別に選ばなくてもいい。ただその場合、九条は破棄すべきである。 「逃げの言葉が使えなくなる時」でも書いたが、現状は護憲は派と改憲派が議論しないことでしか維持されていない。 http://sakamotoakirax.hatenablog.com/entry/2014/06/16/001436 自衛隊と米軍に守られながらも、なおガンジーと同じ道を歩んでいるという自己欺瞞は、最終的に自信を喪失させる。 新宿で焼身自殺を図った人物は、集団的自衛権に反対したことと、「君死にたもうことなかれ」と述べたなどという断片的な情報しかなく、彼の主張がどのようなものであるか、具体的にはわからない。 しかし、それでも私は、おそらく彼の主張は、従来の護憲派との差がないのではないかと思う。しかし、憲法の条文と現実の解離が進行することへの反発としてなら、彼の行為は理解できなくもない。これ以上、彼の行動の意味をあれこれ想像すべきではなく、結局彼の行動の意味は、彼自身が主張すべきである。 他の者は、安易に現状を追認しながら、平和主義者を名乗るなかれ。