坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

「本当に日本人に『自画自賛症候群』が広まっているというのか?〜あまりにも表層的主観報道であり悪意すら感じてしまう東京新聞記事 」への反論

「本当に日本人に『自画自賛症候群』が広まっているというのか?〜あまりにも表層的主観報道であり悪意すら感じてしまう東京新聞記事 」http://d.hatena.ne.jp/kibashiri/touch/comment/20140801/1406873631
を読んで思ったのは、「そもそも何が問題なのか」ということだった。

東京新聞を受けた朝鮮日報には「日本人はたとえ表面上だけであっても、謙虚さを失わないことを『最高の美徳』としてきた」とあり、一方この記事では、
 

この内閣府が行った若者意識国際比較調査においては、少なくとも日本の若者に「自画自賛症候群」が広まっている兆候は全く見られません。

 それどころか 調査結果は真逆であり、「自分自身に満足している」「自分には長所がある」ともに最下位の日本なのであります。


とある。要するに自画自賛症候群があるかどうかだけが、この記事のテーマであり、そしてそれがこの記事の最大の問題である。
東京新聞の記事にあるように、日本人は「たとえ表面上だけであっても、謙虚さを失わないことを『最高の美徳』としてきた」のは事実であり、私もそれを「美徳」と認めるのにやぶさかではない。しかし、あくまで東京新聞の記事にあるように「表面上」の美徳としてである。謙虚も自信も人間の人格の要素であり、、その要素の度合や環境により、人間の思考や行動が変化し、人生に影響を与えていく。順風の過信は危険であり、逆境の謙虚も同様である。つまり謙虚とは、個人の要素として、他の特徴や環境との絡みで見るべきものであって、集団の謙虚さなどはお国自慢程度のものである。逆に言えば、お国自慢程度の「美徳」など、ほとんど個人に還元されはしない。しかしこの記事は、お国自慢程度の「美徳」が失われたという記事に、「失われていない」と反論し、「悪意すら感じてしまう」とまで極論しているのである。

それでは、この記事の分析は正しいのだろうか。
この記事の「自画自賛症候群はない」という根拠は、「諸外国と比べて,自己を肯定的に捉えている者の割合が低い」という、『子ども・若者白書』のデータによるものである。しかしこの記事を書いた人は、自己評価の高い者が、国レベルでの自画自賛症候群に陥ると思っているのだろうか。
私の考えでは、逆に自己評価の低い者、低所得者、非リア充こそが、自画自賛症候群の中心である。つまり、その心理的背景はネット右翼と変わらない。この記事を書いた人は、私と真逆の分析をしている。
本当に自分に自信のある者が、自画自賛本を次々と買っていくということはほとんどありえない。それをさも当然であるかのように、若者の自己評価の低さを根拠にしているのは不思議
なほどだが、どうやらこの記事を土台にしているようである。


 東京新聞は30日「近ごろ日本を覆う『自画自賛』症候群は何の表れか」という記事で「近ごろ、本屋に立ち寄ると、気恥ずかしくなる。店頭に『日本人はこんなにすごい!』という『自画自賛本』が平積みにされているからだ。この国から『奥ゆかしい』とか『謙虚』といった感覚が急速に消えていっているように感じる。だが、そうした違和感を口にすると、どこからか『自虐だ!』という悪罵が飛んできそうだ」と書いた。新潟青陵大学大学院の碓井真史教授は「日本が圧倒的な経済力と技術力を誇っていた時代には謙虚さがあったが、大震災や原発事故、韓国・中国の台頭で余裕がなくなった」と分析した。恵泉女学園大学の高橋清貴特任准教授は「日本の自画自賛は周辺国に対する隠れた優越意識をあらわにしたもの」と話している。


高橋清貴特任准教授の言う「
隠れた優越意識」とは何かがわからない。朝鮮日報の記事だから、この後はおそらく、高橋氏を批判する文章が載っているのだろう。それを掲載せずに、自画自賛症候群を批判する記事が韓国メディアに利用されていることをもって読者の反感を煽り、高橋氏の言葉を自分の主張の根拠へと飛躍させているようである。

私がこの記事から感じることは、自画自賛症候群はあるということであり、しかもより病的である。
少くともこの記事の記者は、自画自賛症候群があると言われることが気に入らないのである。その分析が正しいならまだ救われるが、正しさと逆方向に向かっている。
論者が分析を間違えることはある。しかし記事とは、その中核のところで確信をもっているから書けるのであり、中核の部分を間違えるのは、むしろ意図的と考えるべきである。それで守れるのが、せいぜい「日本人が謙虚だ」という程度のものである。むしろ日本人の自画自賛症候群を気にしているからこそ、このような記事を書いてしまうのであろう。

この記事は、「本当に日本人に『自画自賛症候群』が広まっているというのか?〜あまりにも表層的主観報道であり悪意すら感じてしまう東京新聞記事 」がエントリーされていたから書いた。どのような理由で、エントリーされるほどのアクセスがあったのかわからないが、いい予感はしていない。