坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。新ブログ「人の言うことを聞くべからず」+を開設しました。古代史、神話中心のブログです。

同情できないゆとり世代

若者、特にゆとり世代の方々に、まずは怒って頂こう。
一曲紹介する。あべりょうの『日本の子供が嫌い』である。
http://m.youtube.com/watch?v=uOL9mro_uq0
実に散々なこき下ろしである。あべりょうは「地下室氷河期委員会」のグランドマスターなどと言っているが、要するに数多くのアーティストの一人である。youtubeで自分の曲自体を公告にしてアクセス件数を稼ごうとしている。
曲は全てこんな感じで、私でも他の曲の紹介は憚られるほどである。ほぼ日本人全てを敵に回している感じで、顔も見せていない。
動画再生回数などを見る限り、採算が取れているのかと思ってしまうが、今でもあべりょうは活動を続けている。

次にニコニコ大百科のスレ。
http://dic.nicovideo.jp/b/a/%E3%81%82%E3%81%B9%E3%82%8A%E3%82%87%E3%81%86/271-
肯定的な意見もあるが、多くは否定的である。
コメント者がどういう人達なのかはわからないが、多くは若者だろう。年齢層が高くなるほど、あべりょうのような存在に寛容になるものだからである。
では、このスレの何が問題か?あべりょうを批判していることではない。あべりょうの言うことに「正しくない」「俺達は優れている」という形の反論を加えていないことである。
残念ながら、あべりょうは真実を突いている。しかし、もっと大きな問題があるのである。

ゆとり世代はよく批判されるが、そもそもゆとり教育を受けた責任は彼らにはない。
責任があるのは時の政府であり、ゆとり教育制定に携わった有識者であり、当時の有権者である。ゆとり教育が決まった時、私は学生だったが、有権者という点では私も責任無しとは言えない。
私は、ゆとり世代は被害者だと思っている。
しかし同情はしていない。なぜならは、ゆとり教育を決めた当時の大人達に、全く怒りを持っていないからである。
怒るどころか、ゆとり世代は上の世代との同化を志向してさえいる。

「絆」「家族」を強調し、最初に入った会社で定年まで勤めることを望み、尊敬する人は多くがお父さんで、中には「日本は世界中で尊敬されている」などの自画自賛症候群に陥る人、「従軍慰安婦の強制連行は事実無根!!」などとネット右翼に走る人もいる。これらは全て、自分達をゆとり世代にした世代に怒りを向けず、同化をしようという思いから生じている言動である。
自分達をゆとり世代にした大人達に文句を言っても仕方ない?
そうだろうか?例えばいじめにおいてもっとも悲惨なのは、いじめられる側が、いじめる側にに同化しようと必死になる時である。
「いじめられるのは、自分に努力が足りないからだ」と思い込み、ひたすらいじめる側の顔色を伺い、神経をすり減らし続ける。いじめる側はそのようないじらしい態度に頓着せず、いじめはしばしば悪化する。
ゆとり世代とその上の世代との関係も、それに似ている。
ゆとり世代は問題視されるだけで、ゆとり教育に舵を切った責任を誰も追及しない。
ゆとり教育を決めた政権なんてとっくにないだろう」
という人がいるかもしれない。その通りである。しかし私が言う責任とは、そういうことではない。
私の言う責任とは、ゆとり世代に同情心を持つことである。
「自分が同情しないのに!?」
という人が、当然出てくるだろう。その通り、矛盾である。
しかし同情は、ゆとり世代ゆとり世代になったことへの怒りを表出しない限りできないのである。
無根ループである。

「ひとつの会社に定年まで居続けたい」
という若者の意識を、安全志向ととらえる意見もある。しかし私に言わせれば、これは安全志向ではない。
「ひとつの会社に定年まで居続ける」一番の方法は、その会社のメンタリティを自分の者にすることである。
例えばブラック企業に勤めるなら、サービス残業に文句を言わず、文句を言う人を除け者にしていく。
しかし今は終身雇用制の時代ではない。そこまでしても、やはりリストラに遭う時は遭う。
悲惨なのは、その時にブラック企業のメンタリティが、再就職の阻害要因になる可能性があることである。ブラック企業の体制は、ブラックでない企業と全く違う。ブラック企業で十年働けば、マニュアルに基づく作業さえ苦痛に感じ者が出てくる。
やはり定年までに、いくつかの会社を回る心構えでいた方が、人生にブレは少ないだろう。
あと十数年もすれば、ゆとり世代の多くが中間管理職を務めるようになっていく。その時ゆとり世代は、ゆとり世代でない下からの世代に突き上げられるようになる。自分達の能力にコンプレックスを抱きながら、コンプレックスを持たない世代に突き上げられるのである。
そのような時にこそ、ゆとり世代は事件になる。大人達と同化しようとするゆとり世代ではなく、孤立した世代として、事件、文学、芸術になる。その時始めて、大人達はゆとり世代に同情できる。
だからその時まで、同情しない。