坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。新ブログ「人の言うことを聞くべからず」+を開設しました。古代史、神話中心のブログです。

人権意識を憲法から見る

現代は、日本史上最も人権意識が高まっている時代である。セクハラ、パワハラ、いじめ、嫌煙権運動など、その方向は多岐に渡り、人権意識の高まりに対し歯止めを掛けるものはない。特にいじめについては、いじめによる事件が起こる度に世間が大きく反応して、問題とはいえたかが小中学生にすぎない加害者に対し、過剰反応ではないかと思うこともあるが、それでもいじめに対する過剰反応に、人権意識の高まりを見ることができるのである。
伝統に根差した保守主義も、人権運動の前には、全くの無力である。
このような事情は他の先進国も同じだが、日本において保守主義が人権運動に無力であることは重要である。なぜなら保守主義の具体的な行動が、しばしば権利放棄という形で表れるからである。そのことは『もう脱原発を唱える政治家はいなくなる~東京都知事選』など、私のブログで度々触れている。http://sakamotoakirax.hatenablog.com/entry/2014/05/07/100339_1
保守主義は、人権主義と正面から議論できない。もちろん保守主義の観点から、人権主義を批判したものはある。不勉強で、そのような本を読めていないのだが、問題は、個別の人権に関わる事件について、保守主義からの批判が、私の知る限りでも見当たらないのである。
ネットでいくら検索しても、全てが人権の観点から語られている。保守の無力とはこういうことである。

それではなぜ、日本人はこれほど人権派になったのか?
それは憲法のお蔭だと言ったら、皆さん賛同できるだろうか?
私は、憲法基本的人権が日本人の人権意識を育てたと思っている。憲法を見てみよう。

第十一条  国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第十二条  この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。
第十四条  すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。
○2  華族その他の貴族の制度は、これを認めない。
○3  栄誉、勲章その他の栄典の授与は、いかなる特権も伴はない。栄典の授与は、現にこれを有し、又は将来これを受ける者の一代に限り、その効力を有する。

大日本帝国憲法を見てみよう。

第22条日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ居住及移転ノ自由ヲ有ス
第23条日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ
第24条日本臣民ハ法律ニ定メタル裁判官ノ裁判ヲ受クルノ権ヲ奪ハルヽコトナシ
第25条日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外其ノ許諾ナクシテ住所ニ侵入セラレ及捜索セラルヽコトナシ
第26条日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外信書ノ秘密ヲ侵サルヽコトナシ
第27条日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サルヽコトナシ
2 公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所ニ依ル
第28条日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務ニ背カサル限ニ於テ信教ノ自由ヲ有ス
第29条日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス
第30条日本臣民ハ相当ノ敬礼ヲ守リ別ニ定ムル所ノ規程ニ従ヒ請願ヲ為スコトヲ得

カナ表記で読みにくいのは勘弁。しかし一見して分かるのは、全ての権利が制限付きであること、そして基本的人権という、諸権利を包括した言葉がないことである。
周知の通り、大日本帝国憲法天皇大権を記している。
憲法にある思想が、国民としての我々の思考に影響を与えている。大日本帝国憲法天皇が主役であり、日本国憲法は国民が主役である。
天皇が主役の帝国憲法では、国民の権利はいくらでも制約できるし、特攻させることもできる。しかし国民が主役の日本国憲法では、人権意識が次第に高まっていくのである。
職人というものを考えてみよう。戦後日本の経済発展が、職人的な工場労働者によって成されたことは広く知られている。手作業で何百万の一ミリの狂いもない製品を作りあげる工場労働者、あるいは寿司職人は、握る米粒の数が全て同数であるなど、日本の職人、職人的労働者の凄さは枚挙にいとまがない。
確かに凄いが、問題はこのような職人がどのようにして育てるのかである。全ての米粒の数が同じになるような握り方をどう説明するか?
説明の方法などない。ただ叱るのである。頭ごなしに、ほとんど理由を言わずに。
戦後数十年の間、この方法が通じたから、日本は高度成長ができた。ではこの方法に、教えられる側が疑問を持ったらどうか?
「この仕事は俺の幸福に繋がるのだろうか」
このような疑問を持つ者が増えたから、職人的な工業体制は崩れた。このような疑問を持つように教えたのは、憲法である。そして変わりに、マニュアルが浸透した。
キリスト教のように人間の生き方を教えるものがない日本では、法律が人の生き方を教える。逆に言えば、帝国憲法に戻せば、また特攻で死ねる日本人になる。

日本国憲法が、すぐに日本人を変えたのではない。だからこそ職人的な労働者による社会も、長期間持続できた。
それはどのような社会だったか?例えばある人が不当な目にあったと主張する。そこで議論が行われる。
「お前にも悪いところがあった」
「そういう言い方はないだろう」
「いや、あの人は本当は良い人なんだよ」
このような言葉は、本来議論を阻害する言葉である。私が親に言われたことで、「裁判をするのは悪いことだ」というのもあった。こうして被害者の権利は認められない。
このような言葉の頂点にあったのが「右翼」という言葉である。つまり論理的でない議論が、憲法九条によって支えられていたのである。このことは『逃げの言葉が使えなくなる時』で述べた。http://sakamotoakirax.hatenablog.com/entry/2014/06/16/001436
最近は、このような言葉もほとんど使われなくなった。それだけ人権意識が浸透しているのだが、人権問題に対する人々の対応に過剰さを感じることもある。一番感じるのはいじめ問題だが、加害者に批判が集中する時、
「こいつら加害者を批判することで、自分が善人だと装ってんじゃねぇの?」
と思うのである。そしてこのような人達が、権利放棄をしていくのではないか。

人権意識は、認めたくないもう一人の自分なのだと自覚するべきである。人権意識と日本人との連続性はなく、常にずれている。このずれを認識し、もう一人の自分としての人権意識を大事にすることが、権利放棄を防ぐことに繋がる。