坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

ゆとり教育の経緯と教育改革の方向

近年の若者の、最初に就職した会社に定年まで居たいなどのリスクを求めない消極性については色々言われているが、日本の経済力が低下したため安定を重視するようになったという意見が比較的多いようである。
その中で、少し毛色の違った記事を紹介しよう。はてなの盟友太い眼鏡氏の

日本の社会がゆっくりと息苦しくなっていくメカニズム - 誰かが言わねば

である。
この記事は日本の社会のメカニズムの考察で、若者の消極性がテーマではないが、今回の私の記事のテーマと被るところが多いと思ったので取りあげさせて頂いた。
しかしいい文章だが、私はまだ考察が足りないと思う。

「10代や20代の若者はSNSでつながってしまっているがために大人になっても小学校や中学校のような閉鎖された世界から抜け出せないでいるのです。仮に自分一人がSNSをやめてしまっても、自分の知り合い達がSNS上で自分の情報をすべて持っているわけですから状況は変わりません」

分析はその通りだと思う。しかしこの分析が人間性を完全に理解したものだとは思わない。
社会のメカニズムが息苦しいだけなら、そこから抜け出そうと試みる者が必ず現れるはずで、SNSなら秘密のアカウントを作り、自分の経験を少し変えて記事を書いて公開するなどの試みがもっとあっていい。
もちろん、そのような行為は大抵はSNSで知り合った誰かに正体を見破られたり、工夫が続かなくなって終わるだろう。しかし人間は、抑圧が強いと後先を考えずに行動するものである。ならば今の若者は我慢強いのか?そうではない。抑圧が弱いのである。抑圧が弱いから、言いたいことが生まれないのである。

太い眼鏡氏は、ネットの普及が日本社会の抑圧を強めたかのように述べているが、私から見れば違う。強まったのは同調圧力で、抑圧自体は弱まっている。
抑圧と同調圧力は違う。同調圧力は同調の自体が自分の欲求に反しなければ、同調することはかえって居心地がいい。しかし抑圧は、自我が押さえ込まれることであり、自我が押さえ込まれれば、押さえ込まれるままに自我が崩壊していくか、猛烈に反発するしかなくなる。
私の若い頃、もう二十年以上前になるが、その頃の抑圧は今よりずっと強かった。
その頃は学校、家族、地域社会などの枠が今よりも強固で、特に学校は受験勉強、それも社会に出て役に立つかわからない、いや役に立たない知識を詰め込み式で教えられ、子供は強く抑圧されていた。
強い抑圧は、必ずはみ出し者を生み出す。このはみ出し者達が自由を求め、反抗、反発した。尾崎豊の歌詞にあるように、校舎の裏で煙草を吹かしたり、バイクを盗んで走らせるなどということもあった。
ゆとり教育は、 抑圧される子供達への同情という一面があった。しかしゆとり教育の論調には、子供達を過度の受験競争から解放することで、子供達が「自由」で「個性的」な、創造力のある人材が育つという含みもまたあったのである。
実際にはゆとり教育で授業時間と宿題が減り、余った時間で子供達がしたことは、友達と遊ぶことだった。
友達と遊んで、子供達が身につけた価値は、友達を大事にし、同調することだった。友達、家族などの輪の中にいれば、そこは波風の立たない居心地のいい場所だった。
しかしその輪の外に、自分達の価値を超えるものがあることも、子供達は感じていた。その価値は今の居心地のいい環境から、自分達を引き剥がしかねないものだった。安住が子供達の限界になったため、より高い価値はむしろ妬みの対象になった。そして尊敬する人は偉人や事業成功者から「お父さん」になり、カリスマ的なミュージシャンが敬遠され、「普通さ」を前面に出したミュージシャンが受け入れられるようになり、それでは色気不足だったのか、最終的にアイドル全盛で落ち着いた。

最近ではゆとり教育より詰め込み教育の方がましという意見もあり、「まし」という点では私も賛同するのだが、創造力のある人材を求めてゆとり教育が施行された経緯については触れられていないようである。
もっともゆとり教育を主張した当時の人々も、本当に創造力のある、個性的な人材が生み出されるのを望んだのかと言えば、むしろ今の状況を望んでゆとり教育を主張していた人が多かったのではないだろうか。当時のゆとり教育の主張には、抑圧が自由を求める精神を生み出す点について、まるで気づいていないようだったからである。
そして現在、創造性のある人材を育てるという観点が抜け落ちているのも、結局日本人が創造性のある人材を求めないことの表れであり、日本ではいかに創造性のある人材を育てようとしても、誰かが骨抜きにしてしまうのであり、教育制度をいじることで、創造性ある人材が育つ見込みはほとんどないと言っていい。
ならばどうすればいいかと言えば、私は企業が求める人材を育てる教育を最も重視するのが一番いいと思う。この考え方に弊害がないとは言わないが、教育改革がおかしな方向にねじ曲げられないようにするには、これが一番いい方向であり、今までよりも成果が上げられるだろう。