坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

「橋下現象」の正体

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大阪都構想が否決され、橋下徹大阪市長は政界引退を表明した。 私は

大阪市民も反橋下派も、既に橋下徹の罠に嵌まっている - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で、「橋下氏は止めにくい」「確信はないが、都構想は可決されるのではないか」 と述べ、「可決される」と格言しなかった。今、橋下氏に賭けなかったことに少しホッとしている。 半年もすれば、「橋下現象」があったことなどすっかり忘れ去られるだろう。 しかし、都構想賛成派は当初の反対派との10%の差を縮めて、僅差に持ち込んだ。 都構想が否決されたのに私のPVも上がっている。その理由は、住民投票が接戦だったのと、橋下氏引退による政界、ひいては人々の心に生じた空白によるものだろう。 ならば、ここで記事を書くのも意味があるだろう。 大阪維新の会が各テレビ局に、京都大学大学院教授藤井聡氏を出演させるのは放送法に反するとして、コメンテーターとしての起用自粛を求めたのは、紛れもない言論弾圧である。なお、要請名義は橋下氏ではなく、維新の党の松野幹事長名義である。 藤井氏はその後も都構想反対の論陣を張り続け、都構想を巡る賛否の議論は拮抗した。 都構想の議論が花を咲かせている中盤に出たのがこれである。

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この反対意見の切り方、すごいというしかない。 これを信じる人がいるのかと思ってしまうが、実際これで、賛成派は僅差に持ち込んだのである。 橋下氏に関する多くの記事を、個人ブログも含めて見てきたが、その中で私が注目したのはこれである。

「年下のくせに面識のない俺を呼び捨てにすんじぇねえよ。」by #大阪 市長・橋下氏、小林よしのり氏を呼び捨て - Togetterまとめ

一見つまらない内容で、中野剛志氏、小林よしのり氏が橋下氏を呼び捨てにしたことから、相手を全否定しただけのものである。 「何でこんなものを」 と思ってはいけない。この記事こそが、橋下氏の議論が非常識どころか、日本のスタンダードな議論であることを示すものである。 例えば、ある中学校の部活動で、先輩が後輩を蹴ったとする。 「何するんすか!!」 と後輩が怒れば、 「なんだその態度は!!」 と言われて、また蹴られる。 我ながら拙い例えだが、このような中学部活動的なルールは、日本人すべてが持っている。中学が公立か私立か、都市部か地方かなどで差は出るが、この中学部活動的なルールが、日本の議論の原型となっている。 橋下氏がよく使う、「現場を知らない学者」などの言葉もそうである。現場のことは、究極的にはわからないが、「現場を知らない」と言われると、聞く方がわかってあげなければならないという気持ちにさせられる。 先輩と後輩、上司と部下、親と子、先生と生徒、現場「知っている者」と「知らない者」…等々、日本の議論は中身ではなく、どちらがマウントポジションを取るかで決まってしまう。 「そんなことはない。橋下氏以外に、そんな議論をする人はいないじゃないか!」 と言う人もいるだろう。公の場ではそうである。 だからこのような議論は、裏でなされるのである。日本の議論のルールは、表の議論と裏の議論が何の矛盾もなく共存している。 そう、「何の矛盾もなく」である。 表の議論を定義しよう。私の手元に、文春新書の『日本破滅論』がある。内容は藤井聡氏と中野剛志氏の対談である。この本から引用しよう。 中野「よく議論に勝つか負けるかという言い方がされます。でも、私にとっての議論とは、勝つか負けるかではなく、正しいか間違っているかの話です」 簡潔だが、まさにその通りである。裏の議論のルールとは正反対である。 しかし日本では、表の議論と裏の議論がどのように棲み分けされているかもろくろく議論されていない。世界に誇る犯罪率の低さを誇る日本で、表と裏の議論のルールが、対立しながら存在しているはずがない。まさに「何の矛盾もなく」である。 どのように共存しているかと言えば、会議室に入るまでは表の議論のルールで話し合い、会議室のドアが閉じられると、裏の議論のルールに切り替わるというようなものなのだろう。 教師の前で、後輩をいじめる先輩はいない。 公の場で、裏の議論のルールを誰も使わないのは、本来誰も、裏の議論のルールが正しいとは思っていないからである。 この裏の議論のルールが表に出したのが、橋下氏である。 誰も表に出せない裏の議論のルールを、なぜ橋下氏は表に出せるのか? それは、根本的に日本人の間違いをついているからだろう。橋下氏は憲法改正を唱え、府知事時代に、沖縄の米軍基地問題にも取り組んで来た。 憲法問題はともかく、沖縄米軍基地問題で、橋下氏は正しいとは言えない。沖縄の米軍基地は未だに大阪どころか、本土にひとつも移転していないからである。しかし橋下氏は正しくはなくとも、日本人の間違いをついているのである。 一方で橋下氏は問題を起こす。すると橋下氏に自分の間違いを突かれたと思った者が、 「いや、あの人は実行力があるから」 と、橋下氏を擁護する。 橋下氏を許すことで自分も許される。これは共犯関係である。共犯関係の連鎖が、橋下現象の正体である。 こうして起こった橋下現象に、藤井氏や中野氏が表の議論のルールを強調して橋下氏を非難すればどうなるか。 「あいつらは無垢を装っている」 と思われるのがオチである。たとえ藤井氏や中野氏が、生まれてから一度も裏の議論のルールを使ったことがなかったとしても、橋下支持者はそうは思わない。本当に必要だったのは、橋下現象を根本から考えることだったのである。 また、都構想の住民投票で賛成派が僅差まで追い上げたのは、もうひとつ理由がある。 橋下氏は「否決されたら政界引退」と表明した。橋下氏が引退すれば、維新も瓦解する。 大阪市民には、維新の党という政党を残すべきか潰すべきかという、強烈なプレッシャーがかかっていたのである。 「政界引退」は一見潔いが、日本の政界の運命まで大阪市民の肩に乗せてしまうのは卑怯である。しかし私が見る限り、そのような批判はなかった。 先の産経新聞の記事で、辻本清美氏が「迷っているなら反対やで」と言っているが、このセンスの無さ。 反対させたければ、「維新はいらない」と言うべきなのである。 しかし、かくいう私も、「維新はいらない」とは言えなかったのである。 今の日本の政界では、自民が倒れた時に、受け皿となる政党がない。自民と維新の保守二大政党制は、決して望ましい構図ではない。それでも「維新はいらない」とは言えなかった。 維新は問題行動を繰り返しながらも、反対票との差を一万票まで縮めた。問題行動を起こすほど、票は増えた。 最初に維新が藤井氏を言論弾圧したのは、橋下現象を大きく起こすためである。そしてそこまでしたのは、堺市長選以来の逆風で都構想が暗礁に乗り上げ、都構想が実現しなければ、橋下氏は中央に進出できず、維新の党自体が空中分解してしまうからである。 維新の党は、執行部は、橋下氏と同じ腹だったのだろう。 言論弾圧は論外だが、彼らは自分達に必要だと思うからそうしたのである。 半年もすれば、都構想が僅差まで追い上げたのも忘れて、自分達が無垢であるように振る舞う者が、橋下氏のみを悪人であるかのように唱える者で溢れるようになるだろう。橋下現象について考える機会は、今しかないのである。 古代史、神話中心のブログ「人の言うことを聞くべからず」+もよろしくお願いします。