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坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。新ブログ「人の言うことを聞くべからず」+を開設しました。古代史、神話中心のブログです。

日本が憲法を改正しない本当の理由

敗戦の焼け跡の中、
「いやあ、俺はあの戦争は負けると思ってたんだよ」
と言う人が、多数現れた。
あさましくも、生命力に溢れる光景である。戦時中は戦争に一切反対しなかったのは、生き延びるためだという意味が、この言葉の言外にある。
「いやあ、俺は生き汚いんだよ」
と言わんばかりのこの言葉が、本当に生命力に基づく言葉ならば、私は批判しない。
しかし、戦時中「一億総玉砕」などという言葉に鼓舞され、戦争の遂行に唯々諾々と従ってきた彼らの言葉を、生命力のあるものと信じることはできない。
なにより、「資源がない」などの平明な現実論を唱える者を、多数の人々が「非国民!」となじっていたことを見ると、戦争の初期は軍部の意向で戦争が遂行されていたが、中後期には大多数の国民が戦争の遂行を支えていた。
「犠牲の大きい勝利」というのはある。しかし本土が空襲を受けて、大本営発表に疑心暗鬼でありながら、なお疑問を口にすることなかった戦時中の日本人は、自ら死に向かっていた。敗戦後の生命力溢れる光景はまやかしである。

加藤典洋は『敗戦後論』で、


自国のために死んだ三百万の死者は外向きの正史の中で、確たる位置を与えられていない。

 

と述べている。戦後日本の中核を担った護憲派の、国のために死んだ者たちを無視するこの欺瞞に右派は気づいており、この点において右派は正しかった。
「アジアの人々に申し訳ない」
と戦後の日本人が口々に言ったのは、「自分は良い人だ」と言うアピールである。このような人はよく見かけるが、「良い人」と「良い人アピール」をする人の違いは、そのアピールが、自分が本当に危害を加えた人に向かないことである。

加藤は護憲派と右派の対立が自国の死者への関係から生じていると論じ、この対立を人格分裂に例え、


ここではっきりしていることは、ここでも、この死者とわたし達の間のねじれの関係を生ききることがわたし達に不可能なら、あの、敗戦者としてのわたし達の人格分裂は最終的に克服されないということだ

 

 

とも加藤は述べるが、『敗戦後論』は私には難解で、正直理解できたのはここまでである。ただ弔い方についても、加藤は充分に論じきれたとは言えない。
しかし最近では、私は「死者との関係」という言葉にとらわれ過ぎたと考えている。
「死者との関係」が死者を満足させることを求めるならば、それは最終的に不可能だろう。
しかしこの世は生きた人間のもので、「ねじれ」も「人格分裂」も、生きている我々のものである。
我々が「人格分裂」するのは、後悔しているからである。ならば「人格分裂」の最良の療法は「後悔しない」ことである。「後悔しない」ように日本という国を設計していくことによって「人格分裂」を克服することである。
このように考えれば、戦後日本の設計の最大のものである憲法九条が、「人格分裂」の克服に何の寄与もしなかったのは明らかだろう。
「戦争をしない」というのが後悔を無くすのにつながらないのは、戦争には相手がいるからである。後悔を無くすためには負けない国作りをする必要があるが、「戦争をしない」と憲法に明記することで、未来の国民を犠牲者にしている。これは日本人が過去と未来の二様の自国の死者に目を背けていることになる。
しかも、憲法上軍隊は存在しないことになってしまった。当然、
「いやあ、やっぱり軍隊は必要でしょ」
と、平明な現実論を述べるものが現れる。この平明な現実論を唱える者に
「右翼!」
と人々は言ったのである。これは戦前の「資源がない」などの平明な現実論を唱えた者に対する反応と、同じ精神構造であり、実際戦前に「非国民!」と現実論者を非難した者と、戦後「右翼!」と現実論者を非難した者は、相当数同じ人物だろう。
このレッテル貼りによる議論の始末に負えないところは、相手に悪人のレッテル貼りをすることで、自分を正しいと、一切の論証をせずに思ってしまえることである。この議論の繰り返しにより、日本人は自分達をガンジーに等しいとさえ思い込んでしまった。

しかも日本人は、やはり軍隊は必要だということを、本当はわかっていた。
だから個別的自衛権はあり、自衛隊を合憲とする自民党政権を、「強大な勢力で不当に権力を握っている」ように建前では受け取り、実際には自分達で自民党を支えていた。そして自民党を通じて日米安保を維持し、アメリカの軍事力と核の傘の下に安住し、充分に環境を整えたうえで、自分達をガンジー同然と気取っていたのである。

一方で、先の戦争でアメリカに負けていないとしながら、アメリカに矛先を向けずにアジアに向ける右派の精神を永続敗戦の構造とした白井聡は、著書『永続敗戦論』で『敗戦後論』を論じているが、その中で、

加藤の見るところ、戦前の価値観に対する批判を踏まえない改憲派は論外であるにせよ、いわゆる護憲派もこの「ねじれ」を直視してこなかったがゆえに、「現実を直視したものではなかった」、という。

 

 

と、「加藤の見るところ」としながらも、改憲派を批判している。
確かに、改憲派にはそういうところがある。改憲派は「平明な現実論」を述べるばかりで、歴史的背景を踏まえない。
ならば白井は何派かと言えば、『永続敗戦論』には書いていない。察するところ、「アメリカに憲法を押し付けられた」とアメリカに責任転嫁をしない、硬骨な自主憲法派というところだろうか。
私は、保守派は言論人は皆、自主憲法派にシンパシーを感じていると思っている。
名前は言わないが、内心自主憲法派ではないかと思っている人も何人かいる。
その人たちがしばしば見せるのは、自分達と対立する護憲派に対するシンパシーである。つまり護憲派自主憲法派こそが歴史を踏まえて議論をしてきたのであって、歴史を踏まえない改憲派には、日本を変える議論はできない、と。
しかし実際には、改憲派が歴史を踏まえれば、改憲派は無敵なのである。つまり改憲こそが、戦前と戦後を同時に総括することなのである。
白井が改憲派を批判しながら、なぜ自主憲法を語らないのかについては、「アメリカに責任転嫁しない」自主憲法など、実際不可能だからだと思っている。
「アメリカに押し付けられた憲法
として憲法を変えるのは、戦後70年の護憲の歴史を忘却することであり、それは事実上不可能である。我々は自国の死者に背を向け、背を向けるために「アメリカに押し付けられた」憲法を受け入れ、それを喜んだのであり、さらに憲法を受け入れるために、未来の国民の犠牲も受け入れた国民なのである。この認識無しに、日本はいかなる未来像も設計できない。

古代史、神話中心のブログ「人の言うことを聞くべからず」+もよろしくお願いします。