もちろん、古くさい街並みを見たことはあるが、それは『あしたのジョー』の風景とはどこか違う。
「こんなところに人が住めるのか」というような、見る人に絶望感を感じさせる風景である。もっとも、多少の演出はあるのかもしれない。当時は、過剰な演出が通用する時代だった。
それでも昭和49年生まれの私にとって、昭和43年連載スタートの『あしたのジョー』は、私の理解の外にあるほど昔の作品のように見えた。時代が変化するにつれて私の意識も変化し、ジョーのセリフなども「なぜこんなことを言うのか?」と、言葉の意味が年々わからなくなっている。それでもこの作品は力強い作品である。
原作の梶原一騎(高森朝雄名義)は、『あしたのジョー』について尋ねられたとき、
「あれはちばの作品だよ」
と、苦々しそうに語ったという。
ちばの作画力、しばしば梶原のストーリーを改変し、ひいてはボクシングに無知なちばが「ジョーの前に力石が大きく立ちはだかった」という梶原の文章から、力石を大柄な男と勘違いし、結果力石が二階級分の減量をしてジョーと戦い、結果死に至るという「ひょうたんから駒」のエピソードまで、ちばの力量無しには『あしたのジョー』は名作にならなかったというのが定評となっている。しかし、本当にそうだろうか。
『あしたのジョー』は破滅の美学と言われる。私は『あしたのジョー』が破滅の美学であること、そして破滅の美学自体を否定しない。名作と認めている以上肯定している。
しかし、破滅の美学とは生命倫理と無縁に成立するのではなく、むしろ生命倫理との緊張関係によって成立するものだと考えている。
もう少し具体的に言えば、
その人が破滅したのは、その人のみの責任ではない
というのが、破滅の美学が成立する最も大きな根拠だと思っている。
破滅した人に100パーセント責任がないといけないのではない。欠点は誰にでもあるが、それでも多くの人は天寿を全うしている。だから欠点のために破滅したのではなく、その人の欠点に他人が深く関わったときに、破滅の美学は成立する。本当に自分一人の責任で破滅したのなら、それはただのバカである。
「ラストシーン、白木邸で静かに余生を送るジョーと、それを見守る葉子の姿」
というのが、梶原からちばに伝えられたラストのシナリオだった。
このラストをちばが改変し、
「真っ白に燃え尽きた」ラストシーンができあがった。
このラストシーンがあればこそ、『あしたのジョー』は名作と言われる。「ちばの作品」と言われる由縁である。しかし私は、梶原のシナリオが、ちばに劣るものだとは思えない。
白木葉子は、ジョーの前に強力なライバルを次々に連れてくる。ジョーはその強敵と戦おうとする。この繰り返しで、ストーリーは進行していく。
なぜ葉子なジョーの闘争心を煽るのか?それはジョーを屈服させたいからである。数多くの男が葉子に靡く中で、ジョーだけは葉子になびかなかった。靡くどころか、
おれやここにいるあわれなれんじゅうのためじゃなく、自分のためにこんな慈善事業をやる必要があるんじゃないのかね。え?自分のためによ
と、ジョーは葉子の本質さえ突いてしまう。自分の本性を見たジョーが、自分から自由でいるのを、葉子は許さない。ジョーを打ち負かし、自分の支配下に置くために、葉子はジョーを挑発し続けるのである。
この葉子の感情が恋愛感情かと言われれば、確かにそうである。だが恋愛感情としてはきわめて低次元で、男がちょっとでもデレようものなら、たちまち女にそっぽを向かれる、男にとって危険きわまりないものである。
ストーリー中、ジョーの心理が今一つかめないところがある。ジョーが一人でふさぎこんでいる場面など、ジョーの内面が描かれない。
それは、梶原がそう描いているのである。ジョーの描かれない内面は、葉子の言動に反応しているのである。しかしそこでジョーの内面を余すところなく描いてしまえば、白木葉子が本阿弥さやかのような女だとわかってしまう。ジョーの内面が描かれないことによって葉子の目的も隠蔽され、葉子はミステリアスなトリックスターとして行動し続けられる。また、ジョーの内面が描かれないことが気にならないほど、男たちの戦いは熱い。
しかし、その描かれない部分でこそ、ジョーは破滅を感じているのである。ジョーはサイヤ人ではない。破滅してでも戦いたいのではないのだ。だから戦うのは、むしろ意地である。そして破滅への脅えと意地の貫徹を繰り返すうちに、ジョーの中に一つの心境が生まれる。
以前からうすうす知っちゃいたさ、自分のからだだよ。だからってどうってこともないさ、もうここまできちまってはな。すでに半分ポンコツで勝ち目がないとしたって、そういうことじゃないのさ
リングに上がるジョーを引き留めようとする葉子にジョーは「ありがとう」と言い、さらに試合の後、ジョーは葉子に自分のグローブを贈る。
最後に、ジョーは自らの意思でリングに上がったのであり、ジョーの最後の戦いは、葉子の責任ではない。またジョーと葉子の和解により、葉子は罪のない存在となっている。
しかし最後の試合を除いては、葉子は明らかにジョーを破滅に導いている。だから梶原にとって、パンチドランカーになって、自分に反抗できなくなったジョーの姿に満足する、葉子の悪魔の相貌を描く必要が絶対にあった。
それをちばが変えた。自分の破滅の責任を葉子のせいにしないジョーはかっこいい。しかしまた、ジョーは自分一人の責任で破滅したバカ者になってしまったのである。
『あしたのジョー』は名作である。しかしそれは、生命倫理との緊張関係の少ない「名作」だった。このラストは、少年マンガのラストとしては正解だろう。しかし梶原は、マンガ原作者としてよりも、作家として正しかったのである。
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