坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

『進撃の巨人』を考える④~日本型ファンタジーの誕生①

『進撃』16巻で、囚われたエレンは自分の持っている巨人の力「座標」が、レイス王家の者でない自分が持っていても「世界の記憶」を引き継ぐことができないことを知る。
「世界の記憶」を継承した者は、その記憶を人類に広めることができるが、それをした者はいない。初代レイス王の思想を継承したからだ。レイス家が「座標」の力を継承すれば、巨人を滅ぼすこともできる。だからその思想は、人類が巨人に滅ぼされるのが正しいという思想に、結果的になる。
レイス王は、ヒストリアを巨人にし、エレンの「座標」と「世界の記憶」を食わせようとする。
真実の重さに、エレンは愕然とし、ヒストリアに自分を食うように求める。
しかしヒストリアは巨人化する薬品を床に叩きつけ、父であるレイス王を投げ飛ばし、エレンを鎖から解き放とうとする。

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うるさいバカ!!泣き虫!!黙れ!!巨人を駆逐するって!?誰がそんな面倒なことやるもんか!!むしろ人類なんか嫌いだ!!巨人に滅ぼされたらいいんだ!!つまり私は人類の的わかる!?最低最悪の超悪い子!!

 

惚れたぜヒストリア!!

画像と被ったけど、ここは繰り返しても強調したいところ♪

『進撃』のテーマである個人主義は、ヒストリアによって頂点に達する。その勢いは人類を滅ぼしかねない域となり、個人主義者である各人がそれぞれの思惑により行動することで、結果的に人類が救済される構成になっている。
進撃の巨人を考える①』で、ヒストリアを真のヒロインと述べた由縁である。

ヒストリアは、

まどかの決断は自己犠牲ではない - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べた、まどかやナウシカと同型のキャラである。
この三人は、世界の重要な運命を決める役割を担う点で共通する。「世界の運命を決めるヒロイン」である。
ならば、ヒストリアに対するエレンは何か。
エレンは、『アイアムアヒーロー』の鈴木英雄と同じダメヒーローである。
日本のアニメ、マンガは、『ナウシカ』『まどか』と、男のヒーローに比べて決断の困難な問題をヒロインに委ねる作品を二つも輩出した。そして『進撃』だけでなく、『アイアムアヒーロー』の早狩比呂美もまた、「世界の運命を決めるヒロイン」である。『アイアムアヒーロー』のZQNは、やがて融合して「巣」になる。「巣」には意思決定を行う「女王蜂」を必要とする。比呂美もまた「女王蜂」であり、英雄が重要な決断を比呂美に押し付けた結果、比呂美は「巣」に連れ去られる。男が決断を女性に押し付けたために、ダメヒーローが生まれたのである。
エレンがダメヒーローというのは、ひどいと思うだろうか?
確かににエレンは、鈴木英雄のように臆病だったり優柔不断だったりはしない。
しかし命令違反をしなくなったエレンは、その意思力で人を引っ張ったりしないし、自分に自信のない発言もしている。
「俺を食ってくれ!!」
と、泣いてヒストリアに頼んだ後のエレンは、自分が「死に急ぎ野郎」であることを否定する。
「死に急ぎ野郎」のエレンは、人を導いたが、それを否定したエレンは、人の後についていく。
やはりエレンはキャラが変わったのであり、潜在的にダメヒーローの要素を持っていると言える。少なくとも20巻まではそうである。
アイアムアヒーロー』は、決断をヒロインに押し付けたダメヒーローが、ヒロインを救い、男が決断の役割を担い、「ダメ」でないヒーローになる物語である。だからエレンも、ヒロインに変わって決断を担っていくのだろう。

ヒーローがヒロインに変わって決断を担うと言っても、男女同権の時代に、男尊女卑を説いているわけではない。
あくまでストーリー作品の思考、神話的思考であり、現実のそのままの反映ではない。
現実は、男が女に決断を押し付けているという単純なものではなく、様々な形体があるだろう。
しかし神話的思考が日本人の無意識である限り、決断という形でなくとも、男が女性を不当に扱っているという意識があるのだろう。この問題については、別の機会にしよう。

『進撃』と『アイアムアヒーロー』は同じ2009年に連載がスタートし、相互補完的な関係にある。
『進撃』『アイアムアヒーロー』『まどか』にはいくつかの共通点がある。怪物が一種類なこと。怪物が醜く、頭が悪そうで、基本的に相互理解不能なこと。活動範囲が狭いことなどである。
怪物が一種類なのはどういう意味か?
神話学者ジョセフ・キャンベル『神話の力』の中でこう述べている。


神話は、もしかすると自分が完全な人間になれるかもしれない、という可能性を人に気づかせるんです。自分は完全で、十分に強く、太陽の光を世界にもたらす力を持っているのかもしれない。怪物を退治することは、暗闇のものを倒すことです。神話はあなたの心の奥のどこかであなたをとらえるのです。

 


心理学的には、龍は自分を自我に縛りつけているという事実そのものです。私たちは自分の龍という檻に囚われている。精神病医の課題は、その龍を破壊して、あなたがより広い諸関係の場へと出ていくことができるようにすることです。究極的には、龍はあなたの内面にいる。あなたを抑えつけているあなたの自我がそれなんです。」

 

龍が自分を抑えつける自我で、怪物が暗闇のものだということは、怪物が自分以外の他者である以前に、自分の中の闇を指すと考えるべきなのだろう。
次に、香山リカは『ぷちナショナリズム症候群』で、日本人の精神の「分離」を問題としている。
「分離」の例として、香山リカは昼は女子大生、夜は風俗で働く女性を挙げている。「風俗で働くことをどう思うか」と尋ねた時、その女性は「自分とは関係ないから」と答えていた。
この「分離」を、「日本バンザイ」という軽い「ぷちナショナリズム」と絡めて、香山リカは問題にしたのだが、
魔女、巨人。ZQNといった一種類の怪物は、「分離」に対して」「統合」が始まっている暗示である。つまり一種類の怪物は自分の闇であり、怪物が頭が悪そうで、相互理解不能なのは、その闇が理解すべき対象ではなく、打倒すべき対象だからである。私はかねてから、西洋のファンタジーを模倣した日本のファンタジーで、怪物が普通に人間と話し、しばしば相互理解をするのが不満だった。それはファンタジーの善悪の戦いという重要なテーマを低めるものだからである。
主人公たちの行動範囲の狭さも同様である。
『進撃』の狭さは説明するまでもない。
『まどか』は、美滝原という街だけが舞台である。
アイアムアヒーロー』は、ZQNのパニックが世界規模で起こっていながら、主人公達は安全な場所を探すとか、人を集めるという現実的な選択肢を採らず、ZQNが大量にいると想定される、自分達が住んでいた東京方面に向かう。
行動範囲の狭さは、セカイ系の影響、またはループもののような出口の無さともとれるが、私はここに「統合」を感じている。つまりファンタジー自体が心の旅であり、ファンタジーの世界の広さ自体が、「分離」の要素を含んでいるのである。
エレンの「座標」や、早狩比呂美の「半感染」による能力は、闇の力である。つまり善と悪の戦いではなく、闇と闇の戦いであり、自らのまた闇とするところが、これらの作品の凄みである。そしてこれらの作品は、人間=怪物という図式を持ち、闇と闇の戦いであるだけ、戦いがリアルで凄惨である。

「世界の運命を決めるヒロイン」「ダメヒーロー」「一種類の怪物」「怪物との相互理解不能」「怪物=人間」「行動範囲の狭さ」
これらの要素のある作品を、私は西洋型のファンタジーと比較して、日本型ファンタジーと規定している。
知る限りでは、これらの要素を全て持っているのは、『進撃』と『アイアムアヒーロー』のみである。『まどか』は「ダメヒーロー」の要素がないだけだが、日本型ファンタジーが、男が本来の力を取り戻す物語である以上、魔法少女ものに分類すべきだろう。
もちろんこれらの要素を全て含む必要はない。『亜人』は「世界の運命を決めるヒロイン」がいないが、私は日本型ファンタジーに分類している。つまり頭脳明晰な永井圭もダメヒーローである。
日本型ファンタジーは、以上3つだが、亜流もある。高野苺の『orange』、三部けいの『僕だけがいない街』である。
日本型ファンタジーの主人公がダメヒーローなのは、入り口がどこかの問題にすぎない。
日本型ファンタジーとその亜流の作品は、読者を世界型ファンタジーと同等、あるいはそれ以上の高みに連れていく。

今後、「『進撃の巨人』を考える」シリーズは、「日本型ファンタジーの誕生」に統合する。今後の展開としては、

①どのようにして日本型ファンタジーが生まれたか。

②日本型ファンタジーはどのように展開、発展するのか。

の二つである。①からやるとまどろっこしいので、両方交互に進めるつもりである。もっとも他に書きたいこともあるので、終わるのに何年かかるかわからないが。

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