坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。新ブログ「人の言うことを聞くべからず」+を開設しました。古代史、神話中心のブログです。

庵野の警告『シン・ゴジラ』

本当は『帰ってきたヒトラー』を観ようと思っていたが、もう上映が終わっていたので『シン・ゴジラ』を観た。

 観て良かった、と思った。

 巷では、不測の事態に対応出来ない日本の問題を扱った映画として話題になっている。 しかし、はてなブログでの感想は肝心のところが抜けている。


 総理大臣と閣僚がゴジラの光線によって死に、外遊していた里見農林水産大臣が総理臨時代理に就任する。 この見るからに無能そうな首相代行に、熱核攻撃でゴジラを退治するプランが国連安保理から押し付けられる。 

しかしゴジラの血液を凝固させるというヤシオリ作戦の実行の目時がたち、ゴジラを凍結させる。


 問題はその後である。里見臨時内閣は責任を取って総辞職する。しかし一体何の責任なのか? 

里見首相代行は、ただひとり残った閣僚だったというだけでなく、非常時に責任を取りたくない者達に押し付けられて首相代行になった背景がある。

 非常時に無能そうな人物に首相をやらせ、危機を過ぎれば辞めさせる。 日本がそういう国なのかと言われれば、根本的にはそうだが、私は今の与党は、もう少し気骨があると思っている。 しかし『シン・ゴジラ』は、従来の日本像を前面に押し出し、さらに主人公が 「政治家の責任は進退にある」 と述べ、従来の日本像を全面的にバックアップする。

 ゴジラが暴れたことについてどんな責任が、里見首相代行にあるというのか?

 この責任の取り方は、ただの感情の処理にすぎない。 何か問題が起これば、原因を究明せずに「責任を取れ!!」と喚き、辞めさせると満足する。そして原因を究明しないため、また同じことを繰り返す。桝添前都知事も同じ精神で辞任させられた。

 『進撃の巨人』『アイアムアヒーロー』『亜人』『僕だけがいない街』などの最近のストーリー作品は、どれも日本の在り方を根本から問い直す作品である。

庵野はこれらの作家達と意識を共有しない、いやむしろ逆行しているのか? と思ったら、違った。 最後の最後で、ゴジラの尻尾がクローズアップされる。

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ネットでは、尻尾が人の顔に見えるだの、歯のようなものができているだの、色々取り沙汰されている。

 映画では、私はよくわからなかった。というより、ゴジラの頭をクローズアップしたと思っていた。


 尻尾からゴジラの子供が生まれるのか? 

しかし本当の問題は、ゴジラではないのである。 熱核攻撃のカウントダウンは、58分46秒で止まっている。 仮にゴジラの子供が生まれても、大きさ次第では自衛隊の火力で駆除できるかもしれないが、そのような事態に対応する準備はできているのだろうか?対応マニュアルがなければ、カウントダウンが再開し、熱核攻撃を止められないかもしれない。


 米軍の爆撃を受けて、ゴジラは口から紫色の光線を出す。

 光線を出す時、ゴジラの顎が二つに割れる。背鰭からも光線を出して米軍機を撃墜し、さらに尻尾からも光線を出す。

 元々、ゴジラは白熱光を出す時に背鰭が光るので、背鰭からの光線はそのアレンジと解釈できる。しかし尻尾からの光線はやりすぎと思わなかったか? 

もちろんそれは過剰攻撃という意味ではなく、ゴジラのコンセプトからずれたという意味である。

これが庵野のアレンジなのは確かだが、無意味なアレンジかどうかは一度考えるべきだろう。

 庵野は顎が割れる化け物が好きな変態ではない。庵野ゴジラは「何をするかわからない奴」なのである。

 そもそも、米軍の爆撃を受けて、なぜゴジラが光線を吐くのだろうか?

 「ゴジラが光線を出すのは当り前」と思うなら間違いである。ゴジラは米軍に攻撃されるまで、光線を出せなかった。ゴジラは進化したのである。

 思えば、伏線は既に張られていた。 上陸出来ないと思われていたゴジラが上陸した。これだけなら両生類だが、両生類は二足歩行出来ない。しかしゴジラは二足歩行をした。

 「まるで進化だ」と矢口は言う。そしてゴジラは一個体で進化し、空を飛ぶ可能性も、無性生殖する可能性もあることが指摘され、それが安保理の熱核攻撃決定に繋がっている。

 ゴジラは環境の変化に対応するために劇的に進化し、その進化は予測出来ない。 ゴジラの凍結で満足することなく、ゴジラの細胞全てが完全に死滅するまで気を抜けないのである。


 ラストの尻尾のクローズアップは、完全に解釈自由なものとして、観客に提供されている。

 私の解釈は、「尻尾が頭になる」である。尻尾に頭が生じ、尻尾が胴体になり前足が生える。そして元の胴体が縮小すれば、大きさがほとんど変わらずにゴジラが復活する。その時ゴジラは、血液凝固剤への抗体を持っている。そうなれば、熱核攻撃しかない。 

ゴジラは予測不可能な災害であり、予測の不可能性によって被害が甚大になる危険がある場合、犠牲の大きさを顧みずに、予測不可能な災害を完全に消去することを最後の選択肢として持っていなければならない。

 ヤシオリ作戦は、本来選択肢の中のひとつだった。しかしヤシオリ作戦は、熱核攻撃の選択肢との潜在的な対立を含んでおり、熱核攻撃の選択肢の消去を目指すものだった。

だからゴジラが凍結したことで、熱核攻撃の選択肢が消去されたものとして満足した。 「政治家の責任は進退」というのは、この詰めの甘さを強調、いや象徴する言葉なのだと、私は捉えている。


 表面的なストーリーの裏に何が隠されているかを探るのは、ストーリー作品の楽しみ方のひとつである。

 しかし、ゴジラの排出する放射能半減期が2週間ほどで、3年くらいで影響のないレベルになるとして観客を安心させ、エンディングで歴代ゴジラシリーズの音楽を流して、観客をすっかりレトロな気分にさせて帰らせるのは、庵野も少したちが悪いと思う。

 ラストについての私の解釈が庵野の主張なら、よほど知られたくない本音なのだろう。 


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