『アイアムアヒーロー』4巻で、鈴木英雄と早狩比呂美が、ZQN化した比呂美のクラスメイト二人に襲われる。
ZQNとなった可南子が比呂美と英雄に襲いかかるが、もう一人のZQN、紗衣が可南子に噛みつき、紗衣の意図が不明ながらも、比呂美と英雄を助ける格好になる。
噛み合う二人を見て、比呂美と英雄はZQNが生きているか死んでいるか問答したり、引きずって病院に連れて行こうとしたりするが、このやり取りは次のアクションのための重要な布石である。やがて比呂美が、
ほんとは死んで欲しかったんだ。迷惑かけないから銃かしてもらえますか?
と言い出す。
ZQNが生きているか死んでいるかは、この場合二つの意味を持つ。
ひとつは、ZQNが死んでいれば死体に襲われた、あるいは人でないものに襲われたことになり、銃で売っても人殺しにはならないという意味である。 もうひとつは、回復または蘇生の可能性があるなら、人間としてその努力をするべきだという意味である。
可南子は活動を停止し、比呂美は紗衣の頭にバッグを被せて病院まで引っ張ろうとするが、病院内でZQNの感染が拡大している可能性を英雄が指摘し、紗衣を助けるのが困難であるとわかってくる。
紗衣は突然「フケ」と言う言葉を口にする。 ZQNは生前よく口にしていた言葉を、脈絡なく口にする。紗衣は比呂美に「フケが多い」と言っていじめていた。
ここで先の比呂美の言葉が出るのである。 比呂美の紗衣を憎んでいたのは事実である。 しかしなぜこの話の流れの中で、比呂美はこのように言うのだろうか。
正当防衛について考える場合、社会契約論を元に考えるのが一番分かりやすいと思う。
ホッブスやロックの主張した、社会の成立についての学説である。 人類は、最初は社会を持たず、「万民の万民に対する闘争」の状態である。人が自分が生きるためにどのようなことも行う自由を持っている。身を守るために人を殺す自由も、人の財産を奪う自由もある。自然権という。
そして人々が自然権の一部を放棄し、契約により「人を殺してはいけない」などの取り決めをして社会が成立する。
「万民の万民に対する闘争」は、カオスと言い代えてもいい。
「人を殺してはいけない」と言う道徳は、社会が無ければ実行するのはほぼ不可能である。
それでは社会があって、それでもなお突然人が刃物を持って襲いかかってきた場合はどうだろう。 その場合、警察が介入して危機が回避される可能性は少ない。社会の中にありながら、そこにカオスが生じており、カオスがあるからこそ正当防衛が成立する。
そしてカオスにおいて道徳が実践できない以上、正当防衛は自然権そのものであり、道徳に基づかない。
正当防衛が道徳に基づかないことを、もっと掘り下げてみよう。
人がナイフを持って自分に襲いかかってきたとする。 それで、人は正当防衛の理由ができると判断する。しかし、襲いかかってきた人は、そのナイフを胸に刺す手前で寸止めして、 「なーんちゃって!!」 と言うかもしれない。襲いかかってきた人が100%の殺意があるという判断は、ナイフが自分の胸に深々と刺さらない限り不可能である。
つまり正当防衛の判断基準は多くは主観なのである。 主観である以上、正当防衛によって冤罪で相手が死んでしまう可能性がある。冤罪で人を死なせることは道徳にならないのである。
『アイアムアヒーロー』のこの状況が、まさに正当防衛の曖昧さを示している。
紗衣は比呂美達を寧ろ助けている。ZQNとなった紗衣が比呂美達に襲いかかる可能性があるだけである。
正当防衛は、「相手が襲いかかってきた」という主観的判断から、「襲いかかってくるかもしれない」という主観的判断に拡大して解釈できる概念である。この拡大解釈で、多くの人を殺すことができる。しかしより多くの人が冤罪で死ぬ可能性のある概念は、道徳からほど遠い。殺人の言い訳が増えていく概念は、道徳を崩壊させる。
道徳は人が生きるための重要な規範であり、状況によって「殺してはいけない」→「殺す」という、180度の転換をしてはいけないものである。カオスの中で道徳を実践したければ、殺されても反撃してはいけない。
『アイアムアヒーロー』は、人を殺してはならないと言っているのか? そうではない。生きるために人を殺すのは否定しないが、それは道徳ではないと言っているのである。
比呂美が紗衣に「死んで欲しかった」と言うことで、道徳的に正当化しない、道徳を忘れない意志表示となる。
『進撃』がマキャベリズム的に生き残りを模索することを、そのまま生の在り方として賞揚するのに対して、『アイアムアヒーロー』のテーマのひとつは道徳である。
しかし『進撃』と『アイアムアヒーロー』のベクトルは真逆のように見えて、生きることの肯定という点で同じ地点から出発している。
『進撃の巨人』を考える④~日本型ファンタジーの誕生① - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」
で、私がこの二作品が相互補完的だと言った所以である。
「道徳を忘れない」意志表示により、比呂美はこの作品の中で、世界の運命を決めた。
御殿場アウトレットモールのコミュニティは、現実そのものである。強い者が弱い者を虐げる、我々が容易に想像できる光景である。
しかしストーリーの途中に御殿場アウトレットモールの話があることで、我々はその後のファンタジックな世界を、現実の延長として捉えている。
英雄達は家屋や宿泊施設で物品を拝借するたびに自分達の連絡先を添えて「弁償します」と書き置きし、小田つぐみがZQN化したのを殺せば「警察に通報してください」と貼り紙し、ついにはダメヒーローの英雄が、ZQN化した元カノを「殺したくて殺した」というようになる。
これこそファンタジーであり、現実の旅ではなく心の旅である。
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