坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

超個人主義者達はなぜ生まれたのか

sakamotoakirax.hatenablog.com

の続き。

 90年代の超個人主義者は時代を騒がせたが、その後話題になったことがない。

 むしろ話題になったのは、父親を尊敬する子供達の方である。 香山リカが『ぷちナショナリズム症候群』を出版したのは2002年である。

『ぷちナショナリズム症候群』には90年代の若者の動向が盛り込まれているはずである。つまり、超個人主義者と「父親を尊敬する若者」は、世代がほぼ同じで、多くの場所で同じ時間を共有していたのではないかと考えることができる。 


私の経験から考えても、超個人主義者は大学での一学年下、私は二浪生なので三歳下の人々で、それより下は協調的で、慣習を重んじる者達、つまり「父親を尊敬する若者達」だった。

個人主義者は、私の経験では一学年だけだった。 そしてこれは私の経験だけでなく、90年代の超個人主義者は日本全域で、基本的に一学年のみだったと思っている。ただコンビニの縁石に座り込む若者はもう少し幅があったと思う。彼らは基本的にアウトローだからである。

 

たった一学年しか違わないのに、価値観が正反対ということがあるのか?

 そうではなく、彼らは根本的には同じなのである。 

なぜ同じか?超個人主義者は「父親を尊敬する若者」の対極の、エディプスコンプレックスの最大の発露者なのである。 そこで、超個人主義者がなぜ生まれたのかを考えてみよう。


 超個人主義者が私より三歳下、つまり1977年4月から1978年3月までの生まれだとすれば、彼らが小学6年の時に何があったのかを考えてみればいい。

 なぜ小学6年かというのは後回しにして、超個人主義者が小学6年の時の大きな出来事は東欧革命である。

ベルリンの壁の崩壊、チャウシェスク独裁政権崩壊など、東欧圏はほとんどが東側陣営から離脱し、91年のソ連崩壊による冷戦終結につながっていく。

 この時期、いや今でも日本の教育では平和主義が教育されているが、平和主義を維持するには、冷戦の敵対陣営の東側を理想化する必要があった。

共産主義体制の理想化は、スターリン批判により進歩的文化人が攻撃された後も続いた。

 超個人主義者になる小学6年の彼らが、そのからくりを全て理解したわけではない。 しかし彼らは教師を、そして大人を軽蔑したのである。

 小学6年の時に東欧革命を経験したのが超個人主義者になる理由なのは、彼らが中学に行っていないからである。

 日本の中学では、特に強制的に入部させられる部活動での先輩、後輩の序列の徹底により、体制に根本的な疑問を持つ思考力を奪われる。私もまた中学時代、日本組が平和主義を教えるのに疑問を持ってはいなかった。東欧革命があってもである。

 しかし小学生までに東欧革命を経験し、教師、大人への軽蔑心を持つと、中学の思考力を奪う部活動でもその軽蔑心を抜い去ることはできない。

 もっとも、超個人主義者になる者達は、中学時代に特別に反抗的だったとは聞いていない。おそらく中学時代は、その理屈の通らなさを忍従するしかなかったのだろう。

 そして自由度の高い高校に入ってから、彼らは本性を現した。彼らはクラブ活動などで多くの、あるいは一切の義務を拒否したのである。

私の大学での二つ下の後輩、つまり4歳下の後輩は高校時代、クラブに入部した直後に、先輩に部長の役を押し付けられたという。超個人主義者達は、あるいは中学時代の不満を、義務を拒否する形で表現していたのかもしれない。

 ここで、超個人主義者のすぐ下の学年から「父親を尊敬する若者」になる理由が見えてくる。

個人主義者に対抗するために、連帯を求めたのである。そして超個人主義者と対立する大義名分を、伝統や慣習の中に見いだした。

結果彼らは、家庭内の社会の象徴である父親に多くの価値を求めた。それが「父親を尊敬する」ことである。

 エディプスコンプレックスとの関連も、ここに見いだせる。 香山リカは「父親を尊敬する若者」のエディプスコンプレックスの無さを問題としたが、「父親を尊敬する若者」達も、東欧革命の影響を受けた者達であり、心の奥では大人を軽蔑しており、その延長線上に父親もいる。

彼らが父親を尊敬するのは、彼らが心の奥に父親への軽蔑を持ちながらも、自分達もまた、同じ価値観の中にいるからである。父親の価値観の否定は自己否定につながる。

 しかしフロイトの研究にあるように、頑固な父親に反発した子供が歳を取るほどに父親の性格そっくりになっていくというようなことは、彼らには起こり得ない。

つまり父親の、社会の価値観を正しく継承する手段を、「父親を尊敬する若者達」は採っていない。父親の価値観を継承した彼らは、次第にその性格が薄味になっていく。

 しかしそれでいいのだろうと、私は思っている。

『NANA』は日本人の人間関係を変えた。 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で論じた、相手の価値観を大事にする精神は超個人主義者と「父親を尊敬する若者達」の対立の中から生まれたものだと私は思っている。

完全な自由を求めているようで、他者の価値観を抑圧的な態度で否定する超個人主義者との対立の中で、相手と自分の双方の価値観を大事にするという精神が醸成されていったのだろうと私は見ている。 古代史、神話中心のブログ「人の言うことを聞くべからず」+もよろしくお願いします。