『この世界の片隅に』は、話題になった時に一度買い、古本屋に売った。
今回映画になって、映画は見ずにもう一度マンガを買った。
読んでみて、新たに気づいたことがある。
すずの婚家は、戦時中の一般的な家庭の姿ではない。
私もそうだが、すずのようにぼんやりしている人間にとって、太平洋戦争の時期はもっとも生きにくい時代である。 それだけ殺伐とした時で、ぼんやりしたり失敗したりすれば普通に罵声が飛んだりする時期である。
それなのに婚家の北條家はすずを包容している。
戦争をテーマとした作品で、世間一般と同じ家庭が登場する必要はないが、北條家の延長線上に世間があり、世間がすずを包容することで作品が成立している。これなら戦争に反対して世間に白眼視された『はだしのゲン』のゲンの父親の方が、作品として説得力がある。
「すずは普通じゃ」と、すずに未練を持つ、幼なじみの水原哲はいい、海軍で自分が普通に扱われていないことを仄めかしているが、ならばその普通に扱われていない部分を描くべきだろう。全般に都合の悪い部分、読者、観客が見たくない部分を描かないようにしている作品である。
すずは広島から呉の北條家に嫁ぐ。
北條家の生活で、色々なことがある。
入湯上陸した水原が、すずのいる北條家に上がり込む。狙いはすずである。 夫の周作は愉快に思わないが、水原を納屋に泊め、すずを中に入れて外から鍵をかける。
色々言いたくなるところだが、戦場に行かない者の心情はこんなものかもしれないとも思う。 だから流れとしてはこれでいいのだが、もう少し引きずって欲しいところである。
しかしまた、引きずらないようにも、この作品は細工されているのである。
周作には馴染みの女郎がいた。
死ねば記憶は消える。秘密は無かったことになる。それはそれで贅沢なことかもしれんよ
と、その馴染みの女郎の白木リンは言う。
白木リンの言葉は、危ういところで作品の中心テーマになろうとしている。 この言葉は、ストーリー作りに精通した者が、徹底的にストーリー作りに煮詰まって作り出した言葉である。
消えるのは死んだ者の記憶で、生きている者の記憶は、死んだ者についての記憶であっても消えない。だからなくなるのではなく、忘れるのである。
水原のことは秘密ではないが、死んだら忘れればいい。だから引きずらなくていい。 「鬼」いちゃんも戦死したと知らされて、遺骨と思って箱を開けたら石ころひとつ、これじゃ生きてるか死んでるかわからんとして、後は忘れる。
この言葉が戦争というテーマに反映されると、全ての戦没者について忘れるとなる。これはストーリー作りをする者として、もっとも卑劣な作り方である。
しかしこの作品は、一筋縄にいかないのである。
周作の姉の子を不発弾の爆発で死なせ、さらに自分の右手を失い、頬にも傷を負う。 身近な人の死の忘却と身の不幸は、直接に関係がない。 しかしこれが説得力を持ってくるのは、戦死者の忘却が、さらなる戦禍を生む当時の状況と被るからである。
すずは広島に帰ろうとする。
空爆で死んだ人を見ても何も思わず、広島に「鬼」いちゃんがいないのを良かったと思う。
すずは逃避している。しかし逃避するのは、死んだ人を忘れることができないと分かり始めているからである。
すずは8月6日に広島に帰ろうとする。 我々は8月6日に何が起こるか知っているから、すずが広島に帰るのかやきもきする。
すずは広島に帰らず、それが起こる。我々はほっとする。ほっとすると、怒りがこみ上げてくる。こんなストーリーの作り方があるかと。
しかしその後、すずの意識が変わるのである。
それまで戦争に対して受身だったすずが戦争に積極的になる。しかし時既に遅しで、原爆投下の9日後に玉音放送を聴くことになる。
そんなん覚悟の上じゃないんかね?最後のひとりまで戦うんじゃなかったんかね?いまここにまだ五人もおるのに!まだ左手も両足も残っとるのに!!
戦争をテーマにした作品で、負けたことを真剣に悔しがる描写が生まれたことは、特筆に値するだろう。戦争にどれだけの意味があるかに関わらず、負けるのは悔しいのである。
しかし、この後が良くないのである。
この国から正義が飛び去ってゆく…ああ、暴力で従えとったいう事か。じゃけえ暴力に屈するいう事かね。それがこの国の正体かね。うちも知らんまま死にたかったなあ…
一体いつ、誰が暴力で従わせられていたのだろう?
共産党員が特高に拷問される描写が一コマもない戦争マンガで、「暴力で従えとった」 と言ってはいけない。
このように言っても、納得しない人もいるだろう。ならばこう言おう。すずは自分の心情に素直でないのである。
すずの戦争への積極性は報復感情に基づいている。 だから報復感情とすずが認めれば、話はずっと分かりやすいのである。
しかしすずは正義と言う。 報復感情=正義とするのも論理的には可能だが、その場合は正義を上等なものと見なすことはできない。その上等でない正義が貫徹されなければ「暴力で従えてた。だから暴力に屈する」と極端から極端に飛ぶから、すずの心情が見えにくくなっているのである。
すずの実家は、広島の江波にある。
『この世界の片隅に』を読まなくても、江波という地名に聞き覚えのある人もいると思う。『はだしのゲン』に登場した地名だからである。原爆投下で家屋が炎焼しなかった地域である。
だからすずの実家も残っている。しかし母は行方不明、父は原爆症で死に、妹は床に伏せっている。 妹の腕に染みが浮かび、間もなく死ぬだろうと、読者も理解するが、妹が死ぬところまでは描かない。
「わしが死んでも一緒くたに英霊にして拝まんでくれ。笑うてわしを思い出してくれ。それができんようなら忘れてくれ」 と水原哲が言うが、英霊にするのは普通の扱いをしない代償だからである。代わりに泣こうがわめこうが、普通に扱わない点は変わらない。だから笑って思いだせと水原は言う。
抗戦の道を失ったすずは、死んだ人の記憶を持ち続けることに自分の存在意義を見出だす。『「鬼」いちゃん冒険記』も、記憶と空想の産物である。
フィナーレが近い。しかしここでこうのは、180度真逆に舵をとるのである。
広島で周作を待つすずを、周作が見つける。
この世界の片隅で、うちを見つけてくれてありがとう周作さん
とすずはいう。しかし、「ヒロシマ」は世界の片隅ではない。 世界の中心であるべきである。この作品の中では。
こうの史代は、どちらかと言えば長編が苦手な作家だと思う。 こうのが得意なのは、人のちょっとした心情を捉えた描写である。
そしてこの絵はグロテスクな表現に向かないし、こうの自身グロい絵を描きたくないだろう。こうのは中沢啓治ではないのである。
こうのの話題作『夕凪の街』の時代設定が昭和30年なのも、原爆投下直後を回想にすることでグロい描写を避けるためのものである。
しかし「ヒロシマ」はその悲惨さのため、時代設定はずらせても「ヒロシマ」を外側から見ることはできない。「ヒロシマ」は「ヒロシマ」からしか描けない。
だからこの作品は、『夕凪の街』に味を占めた編集者に描かされた作品だとわかる。こうのもあとがきで、「正直、描き終えられるとは思いませんでした」と語っている。この点私はこうのに同情するものである。
「死者の忘却」から「死者の記憶を持って生きる」に変化するストーリーは、楠公飯や『愛国いろはかるた』などの戦時のエピソードやユーモアがヴェールになって見えにくいが、明確に見えなくとも、読者は何かを感じとることができる。
しかし「死者の記憶を持って生きる」が全面にでた直後に、「ヒロシマ」の大忘却がなされると、真実より現代日本人の願望でできあがった戦時の風景に埋没した読者には、その大忘却が読み取れなくなってしまうのである。
先に私は「こうのはどちらかと言えば、長編が苦手な作家だと思う」と述べた。
しかしこの作品を見ると、それを撤回したい衝動にも駆られてしまうのである。
『この世界の片隅に』は、こうのが「ヒロシマ」から全力で、奸智を尽くして逃げ切った作品である。しかもタイトルの言葉で締めることで、歪みながらも筋が通ってしまった。
こうのがこれほどの底力を見せることは今後はないと思うが、それでもこの作品は、こうのの魔的な力量を感じさせるのである。
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