昔あるブロガーが「虫も子供の頃から慣れ親しんでいれば、大人になっても虫に触れるようになる」と言っていたが、私は違うと思った。
私は子供の頃に平気で虫に触っていたが、今は全く触れないからである。
ただ、なぜ子供の頃に触れた虫に、今触れないのか、その時はわからなかった。しかし今は答えられる。
80年代から、マンガやアニメにグロテスクな怪物が登場するようになってくる。その始まりは、私が思うに『風の谷のナウシカ』である。
『風の谷のナウシカ』には、蟲と呼ばれる怪物が出てくる。
この蟲は昆虫を大きくしたようでいて、昆虫よりグロテスクである。
ナウシカは蟲が好きで、ことあるごとに蟲を助けようとする。ナウシカが蟲が好きなことで、読者も蟲に感情移入できる構成に、風の谷のナウシカはなっている。
しかし構成によっても、蟲への感情移入は個人差があって、私はナウシカを介しても、蟲に感情移入できない方だった。 そこで原作者の宮崎は、蟲に感情移入できるように仕掛けを施していく。
例えば蟲の王である王蟲は、「個にして全、全にして個」だという。ワン・フォー・オール、オール・フォー・ワンというわけだ。
しかし「個にして全、全にして個」の行き着く先は、大海嘯で供に食い合い、供に滅び、腐海の森になることだった。宮崎が蟲に善の要素を付け加えるほど、その善は破滅的なものになっていった。
私は映画の『ナウシカ』は好きではないが、原作マンガの方は好きなのは、ここに理由がある。
蟲のグロテスクさは、そのまま人間の心の醜さであり、このグロテスクな怪物を善なるものにしようとしても様にならず、感情移入し同一化しようとすれば、結局同一化した者(この場合は人間)も破滅への道を歩んでしまうのである。だから大団円になった映画の『ナウシカ』は、どうしても不自然に感じてしまう。
私が蟲に触れないのは、子供の頃に虫に親しまなかったからではなく、虫に人間の醜さを見るからである。
それは子供の頃には感じることはなく、人生経験によって得られるものである。
そして『風の谷のナウシカ』は、破滅の中に自らの道を見出だした傑作である。
『風の谷のナウシカ』は、
日本型ファンタジーの誕生④~戦後の平和主義的正義観を変えたガンダム - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」
以降のストーリー作品の変化の指標となる作品である。
『ナウシカ』のようなグロテスクな怪物が登場する作品が表れる一方で、『ドラゴンボール』やRPGのような、キャラクターが無限に成長する作品が登場するようになる。
人間が急激に、天上知らずに成長するのは、本来の人間の成長のあり方ではなく、消費者の手っ取り早く成長したいという願望が反映されている。
このように言うと不健康なことのようだが、私はそんなに不健康なことではないと思っている。
『ナウシカ』以降のグロテスクな怪物の中には、バイオテクノロジーの発展の影響もあって、細胞が急速に増殖して巨大化したり、固体で進化する生物が登場したりする。
例えばこのような。 このような怪物は、天上知らずに成長するキャラクターの裏の顔である。
消費者は天上知らずの成長を、人間の成長ではなく、人間以外の生物に進化するものと捉えており、このような怪物も合わせて消費することでバランスをとっていた。
細胞増殖や固体で進化する怪物は、欠損部が急速に回復する種類の怪物とも親和性がある。 ピッコロのように欠損部がモコモコと動いて回復しようが、『進撃の巨人』のように蒸気を出して回復しようが、そのような回復の仕方をする生物も、人々は怪物だと捉えていた。
『進撃の巨人』で、エレンの傷の回復する様子を見せないのは、エレンを人間だと認識させるためである。
読者はエレンを人間と思っているから、欠損部の回復を奇跡のように見る。
また、『進撃の巨人』の逆を行った作品もある。
『亜人』の永井圭は人体実験で身体の各部を切断され、とどめをさされてまた人体実験をされるという苦痛を何日も味わう。
また『東京喰種』の金木研は、手足の指を何度も切断させる拷問を受ける。
両者ともこのような拷問を受けて、精神的に変化する。
この拷問は、神話学的には通過儀礼なのだが、この拷問の意味は『東京喰種』の方が、その意味を理解する意味では良く表している。
この拷問は自分が怪物であり、怪物としての自分を受け入れるための通過儀礼なのである。 古代史、神話中心のブログ「人の言うことを聞くべからず」+もよろしくお願いします。