よく、仕事中に「何やってんの」と言ってくる上司がいる。
その時、私は「ああ、こいつはパワハラ上司だな」と思う。
パワハラ上司はよく、「なぜそのようなことをするのかわからない」という意味のことを言う。
このパワハラ上司の言葉は、部下の否定のように見えて、実は管理能力不足の告白である。
パワハラ上司は部下を批判することで自分を正しいとする。
そして部下への批判が増えるほど、部下が間違っていて、自分が正しいという主張をしているつもりになっているが、本当は「わからん、わからん」と繰り返すことで、自分の無能をさらけ出しているのである。
パワハラ上司には、以下の論に当てはまらない者もいるが、差異はあっても、パワハラ上司は根本的に同じ性格である。
また、私は十年以上工場で働いているので、基本工場労働限定で述べていく。
工場労働に限定して述べることには特別に意味があると思う。 工場は機械を多く使っており、機械のスピードが、人間の作業量の多くを決めている。
人間に割り振られた作業量は、適正であることもあれば、不適正なこともある。
前者の場合で作業員が過剰労働に陥っていれば、上司が適正な作業配分をしていないということであり、後者なら会社自体がパワハラ上司化している。ブラック企業と言ってもいい。
「人間は間違えるものだ」と言って、それに異を唱えるものはいないだろう。
また「人間は機械のようには動けない」と言って、反論する者も私は想像できない。
しかし工場勤務でのパワハラ上司は、まさに人間が「間違えずに、機械のように」動くと信じている者のようである。
おそらく全ての業界のパワハラ上司がそうなのだろうが、工場勤務でのパワハラ上司を特徴づけているのは、馬鹿馬鹿しいほどのスピード至上主義である。
パワハラ上司はとにかく急がせる。
新人の場合、仕事をどのスピードでやればいいかを理解する上で、急がせることにはそれなりに意味がある。
問題は、スピードを上げる点で限界がないことである。
パワハラ上司の中にも、体感で人間の身体能力の限界を知っている者がいるが、パワハラ上司が人間の限界を知っているかどうかは関係ない。人間の限界を知っているかどうかに関わらず、パワハラ上司は限界を超えて働かせるのである。
パワハラ上司には、優先順位がない。
私は、有能、無能は優先順位がつけられるか否かが大きく占めると思っている。
例えば仕事をする場合、自分の仕事を優先して、手が空いたら他の仕事を手伝ったりするのが、基本的な能率の上げ型である。
しかしパワハラ上司は、部下に割り当てられた仕事が中途半端なうちに、他の仕事を手伝わせたりする。
少しでも手が止まると、「何やってんの」と言われる。
こうして、部下の仕事が停滞すると、部下は急いで仕事を片付ける。 このようにしてパワハラ上司はスピードアップを図る。しかしパワハラ上司は気づいていないが、このように育てられた部下は、仕事が粗くなっている。
「速く、正確に」仕事をこなしているように見えても、その仕事はパワハラ上司でない上司に育てられた部下よりも粗く、ミスをしがちである。
パワハラ上司に従順に従う部下は、以下のように考えるようになる。つまり、 「仕事を速くすることと正確にすることの間に、理想的な均衡点があるのだろう」と。
現在、パワハラ上司の被害に見舞われることなく仕事をしている私から見れば、このような考え方は間違いである。
仕事は自分が正確にできるペースを見つけ、正確に作業をする習慣をつけて、その上で少しずつ作業スピードを上げていくのが基本である。
しかしスピードと正確さの中間を取るような仕事をさせられた作業員は、あると思っていた均衡点を見つけられず、集中力を上げて問題を克服しようとする。
工場労働には、トラブルがつきものである。
機械はよく故障する。故障した時に、簡単な故障は自分達で直すことが多いが、その際他の機械は止めずに、作業効率を落とさずに修理を行うことが多い。
それで問題なく回していけるのならそれでいいのだが、状況が厳しくても、パワハラ上司は機械を止めずに対応しようとする。
こうして、「機械を止めないのはわるいこと」という観念が生まれる。
パワハラ上司の部下は、どんな状況でも機械を止めずに、生産を続けながら対応しようとし、そのために知恵を絞り続ける。
このような対応を続けると、それなりに適応できる人もいる。
しかし常に目一杯体を動かしている上で、状況対応のために考え続けるのは強いストレスになり、大抵長くは続けられない。
不作為の行為は加害行為である - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」
のIや、
『水瓶座の女』成立の背景 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」
の肩こりになった私のように、ひどいストレスに悩まされるようになる。
肩こりは大分小さくなったが、まだ残っている。
肩こりが小さくなってわかったことがある。すでに肩こりではなく、全身に凝りが回っていた。
胸、腹、手足まで凝っていた。私の腹は固かったが、腹筋が鍛えられているからだと思っていた。しかし腹の凝りが減って、腹筋のために固いのではないと気づいた。
手足の凝りも減って、筋肉はこんなに柔らかいんだと気づかされたww。もっとも完治したのではなく、未だに全身が凝っており、背中も異様な形で出っ張っている。
今の私は健常者と同じように体が動くと思っているし、集中力も戻って事故を起こすこともないが、頻尿や他にも鼻水が止まらなかったりする症状があったりしたので、これから肩こりが小さくなることで、より体調もよくなると思う。
そしてもちろん私やIのようになるまで働く例は稀で、大抵はその前に人は辞めている。
パワハラ上司は、日本語がしゃべれない。
普段から「何やってんの」で対応しているため、いざという時に適宜な指示が出せない。 これは、部下が「何やってんの」と言われることで有能になっていくが、パワハラ上司は「何やってんの」を繰り返すことで無能になっていくことを意味する。
そしてこれはホワイトな企業に特に言えることだが、パワハラ上司は会社が求めていることを理解していない。
会社が求めているのは、クレームを出さないことで、部下に失敗を繰り返させることで質と量をこなす人材を作ることではない。部下に失敗をさせるような余裕は、元々パワハラ上司にはないのである。
またパワハラ上司は、根本的に組織論を理解していない。というより、おかしな組織論を持っている。
工場の各部署において、上司が比較的手の空く作業を担当して、部下が作業量の多い仕事をするのは妥当である。
しかし各員の作業量配分は不動ではない。各員の作業量配分が変動する可能性は常にある。
しかしパワハラ上司は、各員の作業量配分はどんな状況でも不動なのである。
問題は、各部署の生産量を決めているのがパワハラ上司ではないことである。
先に述べたように、工場での作業スピードは機械のスピードによって決まるのである。機械がより多くの生産をできるようになれば、各員の作業量も増える。そして機械の生産量を変更するのは管理職以上の者である。
管理職以上が機械のスピードを変更するのは、ホワイトな企業の場合、作業員にきつい仕事をさせようと思ってするのではない。
各員の作業配分を調整して、変更可能なことを検証してからそれを行う。
しかしパワハラ上司にとって、各員の作業配分は不動である。するとパワハラ上司の部下は、人間の限界を越えた作業をすることになる。
こうしてパワハラ上司の指導に耐えた部下も潰れる。
最近お目にかからないが、去年くらいまでは、パワハラ上司と無能な上司の記事がはてなで頻繁にランキング入りしていた。 しかし私は、それらの記事に欺瞞を感じていた。
パワハラ上司と無能な上司は異なるカテゴリーではなく、同じカテゴリーである。
そしてパワハラ上司の信念は、その成功体験ではなく、失敗によって支えられている。
部下が次々と辞めるたびに、「もっといい奴を寄越せ」といい、一人でも対応できる部下がいれば、自分が正しかったと思えるのである。
パワハラ上司にとって、きつい指導は部下への愛情ではない。
パワハラ上司にとって、部下は自己正当化の手段にすぎない。パワハラ上司は無能である。
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