坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。新ブログ「人の言うことを聞くべからず」+を開設しました。古代史、神話中心のブログです。

従軍慰安婦問題での右翼の本音は「無謬性の追求」

従軍慰安婦問題は、多くの議論がなされたが、日本のコンセンサスを作るという点では不毛な議論だった。

 右派の議論に納得できる点は多々あった。 

「戦後の価値観で判断するべきではない」という意見はその通りだし、「日韓基本条約で補償は決まったのだから、それ以上の補償は必要ない」という主張には一定の説得力があった。「我々はいつまで謝罪すればいいのか」という主張も、「謝罪が足りていない」と主張する左派に対して、謝罪の限度を想定していない現実を露呈させる効果があった。 

それでいて従軍慰安婦問題の議論は、国民的合意の形成からは遠かったのである。

 その理由は、右派の主張が少しずつ違いながらも、その違いを右派が議論しなかったことにある。

 元々謝罪自体が必要ないとする右派も多かったのに、「謝罪は十分した」「いつまで謝罪すればいいのか」という右派との間の議論は行われなかった。

 このような右派の在り方は、私にある状況を想起させた。 

学校でも会社でも何でもいいが、ある人が被害を受けたとする。 

被害者は周囲を巻き込んで加害者の非を訴える。それに対して周囲は、「あの人は本当はいい人なんだよ」などと庇ったりする。それでも被害者が訴えていくと、「わかった。だがお前にも悪いところがあった」などと言われて、妥協が成立したような状況になる。

 しかしまた加害者が加害行為に及び、被害者が訴えると、今度は「お前が悪いんじゃないか」と言われたりする。

「お前にも悪いところがあった」が「お前が悪い」に替わっているのである。こうして被害者が加害者以上に問題にされ、状況は何も変化していない。

「従軍慰安婦の強制連行は事実無根」は事実無根!! - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

を書いた頃と違い、私は日本軍が韓国人女性を従軍慰安婦として強制連行したとは思っていない。(『河野談話の検証報告書』が従軍慰安婦の強制連行を認めた報告書なのを否定したわけではないので注意) 

その理由は朴裕河の『帝国の慰安婦』を読んだからで、(まだ読みかけだが)挺身隊の強制連行を従軍慰安婦の強制連行と誤認されたか、業者が日本軍を装って強制的に連行した可能性を指摘するこの本は、従軍慰安婦の強制連行の点では日本軍を無罪とする。しかし国家としての日本の責任はあるとしている。

この論は私にとって納得のいくものだった。 朴の議論は、多くの点で日本の右派の主張と共通していた。今従軍慰安婦問題の議論が大部鎮静化しているのは、朴のおかげだろう。 

しかし、日本で朴がしたようなアウフヘーベンができなかったのは、先に述べた右派の一見理性的な主張のためなのである。 

「強制連行の証拠がない」「いつまで謝罪すればいいのか」といった理性的な部分に耳を傾けると、いつの間にか「日本に全く罪はない」という議論に発展するから、左派は全く右派の主張を受け付けなかったのである。 

つまりこれらの「理性的」な主張は、「わかったが、お前にも悪いところがあった」という、相手に少しでも理性が働いたところで一気に追い落としにかかる類いの、集団の悪意なのである。 

ここまで「右派」と言ってきたが、「右派」とは本来、穏健な中道右派まで含むものである。しかし従軍慰安婦問題に関して、99.9%は極右であり、議論は多様性があるようで、実質は無個性な集団に過ぎなかった。 

この無個性は、無謬を無限に追求することでできあがり、その心理の裏には強い加害者意識がある。 

加害者意識の極みが、「従軍慰安婦は娼婦」などという発言である。現代でも、風俗嬢が自らの意思のみで風俗に勤めることは少ないと思うが、当時ならなおさらやむを得ない事情があって従軍慰安婦になったのである。それに対し、レッテル貼りをして自らを無謬とする。強制連行の事実がなかったのに、右翼は罪の意識を露呈しているのである。


 弁論部に所属していた学生時代なら、この手の付き合いきれない議論に対し、先輩などから「アウフヘーベンする努力をするんだよ」と言われたりした。 

今私は、この手の議論に対し、アウフヘーベンをすべきではないと思っている。 

無謬性追求の議論は、相手が受け入れる姿勢を取る度に、相手を無限に否定してくるのである。

 だからこの手の議論には、真実があってもそれを受け取らずに徹底拒否し、質の悪い議論が繰り返されるなら人格批判をする必要もある。

 無謬性追求の議論者に必要なのは、今のままでは自分が受け入れられず、人格まで否定される可能性があることを分からせることである。 

無謬性の議論に対する者に必要なのは、議論の選択肢を増やすことである。平行線、泥仕合、それを自らの力不足と思う必要は全くない。議論でのアウフヘーベンは相手がいてできることで、相手に力量がないのにアウフヘーベンは不可能である。

 そして相手が無謬性を追求していると判断する限りアウフヘーベンは選択肢の順位は下位に置くことである。 

相手が疲弊しなければ受け入れさせることできない議論がある。それを知らないと自分は疲弊する。そのことを知るべきである。 


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