坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

信長の戦い③~桶狭間

太田満明著『桶狭間の真実』で、太田は従来の今川軍25000、織田軍2000という説を否定している。

 25000というのは100万石の全軍だが、今川義元が国を空にして遠征をするはずがなく、また駿遠三の三国では100万石もないとして、桶狭間での今川軍を一万としている。

 一方織田軍は、信長が岩倉織田を除いて、尾張の大部分を統一していたという。 その織田軍の精一杯の動員が2000ということはないので、織田軍の総数を5000と見積もっている。

 5000vs10000で、勝つ見込みは充分にある戦いである。

 また桶狭間は義元が上洛を目指して起こった戦いでもない。信長が丸根、鷲津などに五つの砦を築いて今川領を圧迫したために起こった戦いである。


 さらに近年の研究により、桶狭間で信長が奇襲で勝ったという従来の説は否定されている。 義元の本陣は窪地ではなく、桶狭間山にあったのであり、さらに織田軍の行軍中のどしゃ降りは止んでいる。藤本正行の『信長の戦争』では、今川軍は織田軍の行軍をはっきり確認できたとしている。これでは奇襲にならない。


 このように見ると、桶狭間は信長の采配の鮮やかさを示すものではなく、随分と平凡なものである。

 司馬遼太郎も信長の戦術面での能力を高くは見ずに、戦略、政略の面を評価した。


 戦術面での信長は平凡である。しかし信長の平凡さに気づくことが、信長の非凡さを知る鍵となる。


 井沢元彦は『逆説の日本史』で、桶狭間の後に徳川家康と同盟を結び、今川領に手をつけなかった信長を英雄と評している。 

確かに今川領に手を出せば、武田信玄と境界を接することになり上洛どころではなくなる。 今川領に手を出さなかったからこそ、信長は上洛して天下をとった。

 なるほど、ならば残る課題は義元の首が獲れたのが偶然か必然かである。偶然ならば信長の天下において、信長の力量はそれだけ割り引きされるのであり、必然ならば信長の力量は再認識される。


 そもそも、一度の戦いで総大将の首が獲れること自体、滅多にないことである。

 義元の首が獲れたのが必然なら、桶狭間は信長が義元の首を獲るために仕掛けた戦いということになる。


 丸根砦が陥ちて、佐久間大学が死んだのを、太田は「必ず助ける」と信長が嘘をついて砦を死守させたと推測している。

 実際そうだろう。死ぬまで戦う士気の高さは、信長への信頼があるからこそのものである。また砦が陥ちる前に信長が前線に到着していれば、随分有利に戦えると思うから、佐久間も疑問に思わない。

 太田は信長が丸根、鷲津砦を見捨てたのを、今川軍の勢力を削るためと推測する。しかしはたしてそうだろうか? 


これが、義元の首を獲るための鍵なのである。

 丸根、鷲津を救援しなかった理由がさっぱりわからない。


 義元は、信長をかなり警戒していたらしい。

 若い頃の評判も聞いていただろう。「うつけ」と言われた信長が、尾張を統一しようとし、今川領をも圧迫してくる。何をするかわからないという思いがどこかにあったのだろう。 


それが生産性が全くないという意味で、本当にわからない行動を相手がとった場合、緊張の反動による弛緩と、異質なものを否定したいという思いから、敵への警戒心をすっかり失ってしまうのである。


 信長は織田軍の総数の5000ではなく、2000で今川軍に突入した。今川軍は織田軍を阻むことなく、織田軍を易々と義元の本陣に入れてしまったと見るしかない。 


このように見ると、桶狭間は純然たる奇襲ではないが、奇襲らしい効果を生んで信長が勝利した戦いだということができる。 

戦術面での信長に見るべき面が少ないのはその通りだが、信長は重要な局面において、敵の心の隙に乗じるような戦術をとるのである。


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