坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

保守とは何か~アメリカの奴隷解放宣言から考える

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保守とは何かを考えてみようと思う。
保守の定義として一般的なのは、「伝統、慣習を重視する立場、傾向、思想」とされるが、伝統、慣習が今ほど壊れている時代はない。
伝統、慣習の危機は昔から言われてきたが、今は伝統、慣習に対する尊敬が全くないのである。
保守は人々を説得する言葉を失い、意見を述べる際の理論を多くリベラルから借りている。
しかしそれが一見人権を唱えているように見せながら、その実他人の人権を奪うために人権を振りかざしていることが多いのだから、保守はそのほとんどがペテンに陥っていると言っていい。

ここでひとつ例を挙げよう。学生時代を通じて人をいじめていた者がいるとする。
この人物が『ネヴァー・エンディングストーリー』と『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と『ベスト・キッド』を何の屈託もなく見ていたら、さすがに奇異に思うだろう。「自分が悪役になっていると思わないのか」と思うからである。
しかし、現実にはそういうことはよく起こっていると思う。それだけ人は自分を客観視できない人間だというのが理由のひとつだが、自分をいじめとは無縁と思わせるものがあるのである。それがアイデンティティである。

ここでもう一度、保守の定義を考えてみよう。私の定義は、保守派にとって抵抗のあるものである。
保守とは人間の感情、それもより多く負の感情に根差した傾向であり、そのために本来、ほとんど理論を形成しない。
一方リベラルは、やはり感情に根ざしながらもそれが従来の感情でなく、多数派を形成しにくいためにリベラル自体が理論形成を必要としており、そのため必然的に正の感情のみでリベラルは形成される。
どの国でも、保守は多数派であることが多く、保守政権の歴史が長いが以上のことを考えれば、保守の歴史の長さとは逆に、保守は歴史的に、常にリベラルの敗北者である。
しかしそれ故にリベラルは社会を分断するのに対し、保守は社会を統合するのである。少なくとも社会を統合する機会は、リベラルより多く保守に与えられる。

ここで、アメリカのリンカーンが行った奴隷解放宣言を考えてみよう。
ここではリンカーン共和党の政治家であり、元来奴隷解放論者でなかったという点で保守とする。どこかでも書いたが、個人が保守かリベラルかを厳密に区分けするのは不毛なことである。
そして奴隷解放宣言を見ると、これが我々の知っているものとは随分違うのである。
奴隷解放の摘要範囲は、「これから制圧する南部連合地域」で、既に制圧した地域と連邦に帰属していた奴隷州は摘要除外とされた。
奴隷解放宣言は、南部の労働力を減らし、また戦費を国際的に調達するため、南部を国として認めさせないために布告された。現実的対応の産物である。
しかしその現実的対応が奴隷解放運動を盛んにし、1865年にはアメリカ合衆国憲法第13修正が承認され、奴隷性が廃止されたのである。

リンカーンは、アメリカ大統領の評価ではトップ3に入り、一位になることも多い。
対立した南部でも、リンカーンの評価は高い。
私はここに、南部人の欺瞞を感じている。
南部はしばしば「南部の大義」を唱え、また黒人差別の強い地域である。
しかし「黒人を奴隷に戻せ」というレイシストはいるだろうか?私はアメリカ人ではないので断言はできないが、今までに聞いたことがない。
「南部の大義」とは、リー将軍銅像を建てたり、黒人を差別するのが精々なのである。
南部人がアメリカ連合にアイデンティティを持つことはない。南部人のアイデンティティは、奴隷を解放したアメリカ合衆国にある。
南部人が黒人を奴隷に戻したいと思い、アメリカ連合にアイデンティティを持っていたら、アメリカは常に分裂の危険にさらされているだろう。
そうならないのは、南部人のアイデンティティアメリカ合衆国にあるからで、「南部の大義」などは、「負けた腹いせ」程度のものにすぎない。
歴史は、あまりに強烈に革新的な道を辿ると、もう後へは引き返せなくなる。その後は反動化も差別主義者も、その革新的な時代を自らのアイデンティティにするしかなくなるのである。

南北戦争前史で「ミズーリ協定」や「カンザスネブラスカ法」などというのを、大学受験で習ったのを覚えている人もいるだろう。そしてほとんどの人は、内容はちんぷんかんぷんだったと思う。
「いや、内容を覚えている」という人は偉いが、ここで言いたいのはなぜこのような法律ができたかである。
ミズーリ協定」は新規の州が奴隷州になるのを制限する法律であり、「カンザスネブラスカ法」は「ミズーリ協定」を破棄して、奴隷州になるかはその州の判断に委ねるという内容である。なぜ「ミズーリ協定」は奴隷州を制限しようとしたのだろうか?
南部では農業中心のため奴隷が必要であり、工業中心の北部では奴隷が必要でなかったというのは、南北戦争史の常識である。
その奴隷の必要の有無が、北部の人々の意識を変えたのである。それは戦争前に、連邦制の前提を揺るがせかねないほどのものだった。エマニュエル・トッドアングロ・サクソンの人種主義が進化の可能性を持ち、「1850年以降は、この人種主義がひとつの変容プロセスの中に突入し、普遍主義的価値の発見に辿り着いた」と指摘している。

よく「差別は無くならない」と、不条理が無くならないことで全てのリベラル的な意見を否定しようとする人がいるが、その人は根本的な間違いをしている。
多くの不条理を支えているのは、しばしばリベラルな見解を含めた、多くの「善行」にある。「善行」は、不条理を促進しようとする人々のアイデンティティを形成し、それによって自らを善人と見なし、善人である自分に安堵して、迷いなく不条理を促進しようとする。そしてそのような善行が行われないと、負の感情を持つ人は、そのため迷いが増え、「自分らしく」生きられなくなるのである。