坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

善悪の逆転

f:id:sakamotoakirax:20180430114627j:plain ドストエフスキーの『罪と罰』で、ラスコーリニコフは殺害目的のアリョーナ・イワーノヴナに加えて、殺害現場を見られたアリョーナ・イワーノヴナの妹のリザヴェータをも殺してしまう。 

リザヴェータはすっかり姉の言いなりになっており、姉のために昼も夜も働き、家では料理や洗濯もやり、もらった金は全部姉に渡していた。

典型的な人に利用される被害者で、そのことを象徴するのが、リザヴェータが年中妊娠しているという事実である。

 テーマが「罪と罰」である以上、殺人は一人で充分なはずなのにドストエフスキーラスコーリニコフに二人殺させたのである。 

この点について、文学界でも議論があるようで、『謎解き罪と罰』で江川卓は「リザヴェータを殺さなくても、ラスコーリニコフは改心した」と言っていたが、そんなことはない。ラスコーリニコフはリザヴェータを殺さなければ改心できなかったのである。


 ラスコーリニコフの思想は二つあり、一つ目が「一つの微細な罪悪は百の善行に償われる」というものであり、二つ目が「《非凡》な人間はある障害を、それを要求する場合だけ、踏み越える権利がある」というものである。

「権利」といっても公式の権利ではなく、それを自分の良心に許す権利があるとする、いわゆる超人思想である。二つの思想と述べたが、後者が前者を補完することで、ひとつの思想となっている。

 アリョーナ・イワーノヴナを殺害し、アリョーナ・イワーノヴナの金を盗んでその金で事業を起こして社会に善行を施すというのが、ラスコーリニコフの計画だった。

 しかし犯行ののち、ラスコーリニコフはその金に手をつけることなく自首している。

 そもそもラスコーリニコフがアリョーナ・イワーノヴナを殺害相手に選んだ理由は何だろうか?

その理由は、アリョーナ・イワーノヴナが強欲な金貸しだからである。 

アリョーナ・イワーノヴナは期限を一日でも過ぎたら、質をたちまち流してしまうし、値段の4分の1しか貸さないで、利息は月に五分、ひどい時には七分もとるという。 そしてリザヴェータをしょっちゅうひっぱたいたりしている。 それがラスコーリニコフが、アリョーナ・イワーノヴナを殺していいと思った理由である。

しかしアリョーナ・イワーノヴナの悪事は主観的なものでしかない。確かに利息は高いが、それは我々の相場から見てである。我々は19世紀のロシアの相場を知らない。

ひょっとしたら、利息は当時のロシアの標準から大きく離れてはいないかもしれない。大部時代が離れているが、中世のヨーロッパでは、利息が五分というのは当たり前だった。

19世紀といっても、五分の利息を法で規制しないほどには中世寄りなのである。値段の4分の1しか貸さないのも、利息が高いのに多くを取ったら取りっぱぐれるからだろう。質を流すのは、ひょっとしたらそれが一番の狙いかもしれないが、中古品に高い値段がつかないと考えれば、質にそれほどの値打ちがあるわけではなく、ただ合法的に儲けを増やしているだけである。「期限までに返済しない者が悪い」とも反論できるのである。

 アリョーナ・イワーノヴナのような金貸しは、ロシアのそこら中にいたのではないかと思う。

そのような金貸しの多くが生きていて、アリョーナ・イワーノヴナのみが「殺していい」、「死ぬべき人間」とするのは、ラスコーリニコフの主観でしかない。 

主観である以上、その主観は変動する可能性がある。アリョーナ・イワーノヴナより罪の軽い者、しかも合法的な悪事を犯す者を「死んで当然」と思うようになる可能性があるのである。 


ラスコーリニコフの信念は、リザヴェータを殺したことで犯行直後に崩れた。

 ラスコーリニコフマルメラードフが死んだときに、20ルーブルをカテリーナ・イワーノヴナに渡すが、その「善行」によっても信念を立て直しきれない。

ピョートル・ペトローヴィチ・ルージンが娼婦のソーニャを侮辱したのに、「あなたが石を投げつけたあの不幸な娘の小指の先にも値しない」とルージンに返してやっても、ラスコーリニコフはさらに追い詰められて、ソーニャの家に行ってソーニャを言葉責めにする。義母のカテリーナ・イワーノヴナは肺病を病んで長くない。カテリーナ・イワーノヴナが死ねば、幼い、ソーニャの血のつながらない弟妹達は路頭に迷う。

 ソーニャは抵抗するが、ソーニャの反論は反論になっていない。全てラスコーリニコフの言うことが正しく、ソーニャは完全に論破されたのである。

 しかしラスコーリニコフは、ソーニャを論破した後に、ソーニャの足にキスをする。そしてソーニャに、聖書の「ラザロの復活」を読んでくれるように頼む。 

「ラザロの復活」は、肉体の死と精神の死が別のものであるのを示すものであり、人々に現実に屈してはならないことを説くものである。

 「現実に屈する」とは、ひとつは隷従である。

隷従を象徴するのがラスコーリニコフの妹のドゥーニャで、金のために結婚という名の「召し使い」を求めるピョートル・ペトローヴィチ・ルージンと結婚しようとする。ドゥーニャはラスコーリニコフがルージンを追い返すことで隷従から解放される。

 もうひとつが、「踏み越える」ことである。ラスコーリニコフがアリョーナ・イワーノヴナを殺したように、法を、倫理を踏み越えていく。

「踏み越える」ことは、隷従と対置され、同列に置かれている。「踏み越える」ことは、現実を超えるのではなく、「現実に屈」したことを意味するのである。


 紆余曲折があって、ラスコーリニコフはソーニャに罪を告白する。

 「僕はナポレオンになりたかった」とラスコーリニコフは言う。しかしそう言うラスコーリニコフが、自分がナポレオンでないことをまた感じていた。

ぼくが、権力を持つ資格があるだろうか、と何度となく自問したということは、つまりぼくには権力を持つ資格がないことだ、ということくらいぼくが知らなかった、とでも思うのかい?また、人間がしらみかなんて疑問を持つのはーーつまり、ぼくにとっては人間はしらみではないということで、そんなことは頭に浮かばず、つべこべ言わずに一直線に進む者にとってのみ、人間がしらみなのだということくらい、ぼくが知らなかったと思うのかい?ナポレオンならやっただろうか?なんてあんなに何日も頭を痛めたということは、つまり、ぼくがナポレオンじゃないということを、はっきり感じていたからなんだよ……

 

つまり、悪魔のやつあのときぼくをそそのかしておいて、もうすんでしまってから、おまえはみんなと同じようなしらみだから、あそこへ行く資格はなかったのだ、とぼくに説明しやがったということさ!悪魔のやつぼくを嘲笑いやがった、だからぼくは今ここへ来たんだ!お客にさ!もしぼくがしらみでなかったら、ここへ来ただろうか?いいね、あのとき婆さんのところへ行ったのは、ただ試すために行っただけなんだ……それをわかってくれ!

 

ラスコーリニコフの思想は、《非凡》な人間は「踏み越える」権利があり、その「権利」とは良心に許すことだった。

しかし《非凡》なナポレオンは、そんなことを考えもしない。 

良心がないのではない。《非凡》な人間は、自らの良心に許さずに、「踏み越える」ことができるのである。だから理論上、ナポレオンもまた「現実に屈した」者である。

 ここに、マキャベリズムとモラリズムの決定的な違いがある。

マキャベリズムとモラリズムは、同じ「生の意思」から出発しながら、その後永久に交わることはないのである。 

もしラスコーリニコフがリザヴェータを殺さなければ、ラスコーリニコフはこのマキャベリズムとモラリズムの違いについて、永遠に理解しようとはしなかっただろう。自分が善人だと思おうとしてアリョーナ・イワーノヴナの非を自分の中で増幅させ、それ以外の人々をも悪とみなし、マキャベリズム、そしてそれと親和的な合理主義を持たない者を非モラル的な人物として批難するようになっただろう。

 ラスコーリニコフがソーニャを言葉責めにするのは、ソーニャに家族を捨てさせて、ソーニャを堕落させるためである。

 未来のない家族を捨てるのが、堕落なのである。

モラルとはそれだけ厳しく、ほとんどの人には実行できない。

その実行できないモラルが大事なのは、モラルが単に実行できないという理由だけで捨てられれば、本当にモラルが無くなってしまい、善悪がほとんど逆転してしまうからである。

 ソーニャもまた「しらみ」である。しかしソーニャには神がいた。ラスコーリニコフはソーニャの中の神に屈し、「ラザロの復活」を読ませたのである。 


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