フミコフミオ氏がキャバクラで麗しき令嬢だと思って指名したら朝青龍ドルジクリソツの女が出てきたという話は笑ってしまったが、朝青龍は今でも日本での人気が高く、度々朝青龍の話は出てくる。
しかし、朝青龍の人気は、朝青龍の復権につながるものではない。 むしろ朝青龍の復権をしない日本人の罪悪感が、朝青龍の話が度々出る原因になっている。
朝青龍の横綱を辞めたのは、暴行事件によるものである。暴行事件で横綱を辞めたことに異論を挟む余地はない。
しかしその前に、朝青龍の横綱の品格問題という、朝青龍に対するいじめがあった。 ウィキペディアにも暴行事件の話はあるが、それ以前の品格問題についてはとうとう書かれなくなった。
朝青龍が引退するまでしばらくの間、勝ってガッツポーズをすれば「品格が」などと言われてきたのである。
朝青龍の回顧録が日本で出版されることは、今後もないと思う。
回顧録が出版されないのは、品格問題が暴行事件につながったと書かれたくないからである。
朝青龍事件の時から、朝青龍に同情的な人は一定数いるが、その同情派も、品格問題の風化には暗黙に同意している。
日本では、問題が大きすぎた場合、賛成派、反対派双方が暗黙に同意して問題をなかったことにする風潮がある。
朝青龍の横綱の品格問題がその一例であり、朝青龍位存在が大きいと、朝青龍を忘れるのが不可能になるので、時々朝青龍の話題を出して罪悪感の解消をはかっているのである。
死刑制度存廃の議論の論点は、日本でも世界でも変わらない。 違うのは、人間に対する見方である。
世界では、多くの人が自分と犯罪者、それも死刑に値するとされる犯罪者の間にそれほど大きな差はないと考えるから死刑を廃止する。
しかし日本では死刑になる犯罪者とそうでない者の間に大きな差があると考える。だから死刑存置派が多い。
しかしそのことが、日本人の中に死刑になる犯罪者とそれ以外の者に差がないことを、 むしろ死刑になる犯罪者よりそうでない者の方により悪質な者が多いことを証明しているのである。
M・スコット・ベックは『平気で嘘をつく人たち』の中で、受刑者達の治療にあたった経験から、彼らが邪悪な人間だと意識したことはほとんどないと言っている。
受刑者達は、自分達が捕まったのは、自分達が「正直な犯罪者」だからで、真の悪人と言うのは刑務所などには入らないと言い、ベックもそれに同意している。
アメリカで刑務所に入らない悪人は一定数いるということだが、日本の場合、この刑務所に入らない悪人が世論を形成しているのである。
日本の世論は「冤罪者」の存在によって形成されている。 朝青龍や、
セクハラ発言の内容を語らない者達 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」
で述べた福田元財務次官もそうである。このような「冤罪者」がいることで日本社会が成り立っている。
法務大臣が死刑執行の署名をしないなどで死刑反対の意思をアピールしたりしたが、刑事訴訟法にも、法務大臣の死刑執行の裁量などはなく(死刑囚が心神喪失、または死刑囚が懐妊している場合のみ法務大臣が死刑執行を停止できる)、死刑に反対するなら法務大臣にならなければいい。
死刑存置論は2010前後にピークに達し、その後袴田巌の裁判のやり直しにより死刑存置論はやや衰えた。
袴田裁判で検察側が隠蔽していた証拠が大量に出てきたのがその理由だが、それならば死刑廃止論よりも、検察の証拠の提示の仕方の方が問題だろう。
これまで検察は、被告を100%有罪にできたのである。 そのように考えると、死刑廃止論者でさえ、「冤罪者」を必要としていて、検察の在り方への関心は低く、むしろ死刑廃止論が、検察の在り方へ疑問が生じないようにミスリードしていたのではないかと思えてくる。
HAGEX氏が殺された時、多くのブロガーが記事を書いたが、その中のひとつ、
犯人に同情的な意見としては「犯人と自分は地続きである」ってのがある。心理現象、状態としては「スペクトラム」なんだと。自分だってあちらサイドの人間になってしまうかも知れない、殺人犯と自分たちに「境界」なんて無いんだと。
私の感覚では「そんなこと言うまでも無い。そんなの当たり前じゃないか。そんなことをわざわざ口にして、検討すること自体が、逃げであり甘えなんだよ」と思う。決して自分はダークサイドには落ちないぞ、落ちてたまるか、という気概、道徳規範のほうが何千倍も大事なんだよ。
は?
弁護士が無能すぐるww④ - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」
で弁護士が印税の横領に加担しているのを知って、拡散希望したのにそれをしなかった人が何を寝言を言ってるの?気概、道徳規範は「人を殺さない」だけ?それ以外は犯罪を見逃しまくっても全然O.K.で人を殺せば「死刑は当然?」随分いいご身分ですねぇ。
で
「あなたにこの事件はついて回る」と被害者(と思われる人)を追い詰めている人のネット上の発言を過去に遡って眺めていたら、「日本人は心の余裕がなくてイライラしているからちょっとしたことでクレームをする。皆が余裕を持つだけで優しい日本になる」ということを書いているのを見かけました。
と述べているように、被害者叩きをする人が美辞麗句で自らを善人と偽装する。
そこには善悪の完全な逆転がある。そしてこういう人は、大抵死刑存置論者である。
死刑存置論が隆盛だった時、「死刑でしか償えない犯罪がある」という者が実に多かったが、加害者意識が高じて殺人に至ってるじゃん。
人を殺せば「自分は善人」という物語を作り続けるために、死刑制度は存続している。
殺人犯を死刑にしても、誰も善人にはならない。誰一人善人にはならない。
人は誰一人として、完全に道徳的には生きられない。むしろ罪を犯しながら生きている。 そして道徳的に生きられない、罪を犯しながら生きなければならないのを自覚して、より良い社会を目指さなければならない。
そのために「自分に人を殺す資格がない」という宣言を社会的にしなければならず、それが死刑廃止なのである。
さよなら、ふのい倉津浦さん。
古代史、神話中心のブログ「人の言うことを聞くべからず」+もよろしくお願いします。