坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

信長の戦い④~長篠

次は美濃攻めを書く予定だったが、先に長篠の戦いを書くことにする。

背景として、武田信玄が死んで足利義昭を追放したこの頃の信長だが、その勢力の伸長は一進一退を続けている。
1573年に浅井、朝倉を滅ぼしたが、旧朝倉領の越前は一向一揆が起こり、加賀と同じ「百姓の持ちたる国」になる。手に入れたのは浅井領のみというのが当時の状況である。
一方、信玄の跡を継いだ武田勝頼は、織田、徳川に積極的な攻勢を仕掛けてくる。
加賀は美濃の明智城を攻略し、信長は救援に駆けつけようとしたが間に合わなかった。さらに勝頼は徳川方の高天神城を攻めるが、またも信長の救援は間に合わず高天神城は陥落した。
この時期、信長の動きは実にのんびりしている。
しかし信長は、高天神城救援の兵力をそのまま長島一揆攻略に向けた。そして2万もの一揆勢を虐殺し、長島一揆を終息させた。
2城を失って1城を得た形勢である。しかし長島は、信長の勢力圏の中のとげだった。かつて浅井、朝倉が比叡山に立て籠った時、長島一揆勢により信長の弟が殺されたが、信長は救援に駆けつけることができなかった。2城を失っても、長島一揆を終わらせた意味は大きい。

長篠の戦いでは、鉄砲三千丁を三段に分けて一斉射撃を行ったという説は否定されている。
鉄砲は千丁ほどしかなかったし、騎馬、徒歩が混合した当時の軍勢が一斉に織田軍の射程距離に入るはずもなく、さらに家ごとにある鉄砲隊を全てまとめ上げることも当時は不可能である。よって長篠は陣地防衛戦であるというのが現在の歴史研究家達の結論である。

問題は、なぜ陣地防衛戦で武田軍が壊滅的な打撃を受けたかである。
信長公記』によれば、武田軍の死者は一万である。
この点について、結論はほとんど噴飯ものだが問題提起は秀逸な秋山駿の『信長』は疑問を呈している。

勝頼軍は、自分から攻撃しなければ、敗北はあり得ないのである。
それなのに、前後八時間もかけて、まさか乃木将軍の二〇三高地攻めでもあるまいに、飽きずに被害甚大の攻撃を繰り返す。いったい戦争に老練なはずの武田の宿将とは何者であろうか。

 

藤本正行の『信長の戦争』は、武田軍の突撃までの経緯を詳しく書いている。
きっかけは、武田方の鳶ノ巣山砦を酒井忠次が奪ったことによる。
鳶ノ巣山砦は、武田軍が長篠城を攻略する要となる砦で、織田、徳川連合軍が到着してからは、織田、徳川連合軍と長篠城の挟撃を防ぐための抑えの砦だった。
この鳶ノ巣山砦が奪われてから、勝頼は織田、徳川連合軍に猛攻撃を始めるのである。

勝頼には猪武者という評価と、本当は名将だという真逆の評価がある。
私に言わせれば、勝頼は猪武者どころか端武者である。

私は推量する。武田軍は、よほど信長軍弱体を確信し、またおそらく、家康家臣団一部の情報によって、設楽原へと導き出され、、その一部の内応を当てにして、同じ突撃を繰り返していたのであろう、と。

 

結論が噴飯ものが多い『信長』だが、この部分は当たらずとも遠からずである。
勝頼が猛攻撃をするのは、自分が弱者だと認めたくないからである。
明智城高天神城の奪取により、勝頼は自分を信長より強いと思うようになっていた。しかし長篠で挟撃の恐れが生じたことで、勝頼は自分の強さにけちがつけられたと感じた。
猛突撃は、ついたけちへの強烈な否定である。しかし無意識では、「強者」としての自分が否定されることと、真の「強者」への強い怯えがある。
この意識と無意識の逆転は、強弱の比較で自分に有利な点を大きくとる習性を身につけることにより起こる。私はこれを「勝頼病」と読んでいる。
「勝頼病」というが、幕末の長州の破滅的な行動や、太平洋戦争での日本軍の特攻の繰り返しも「勝頼病」である。「勝頼病」は古今を通じた、日本人共通の病である。

信長の戦い③~桶狭間 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で、今川軍が信長勢を易々と本陣に入れてしまったのも、信長が今川軍に「勝頼病」を発生させたからである。信長は日本人の「勝頼病」を発生、利用するのが得意で、重要な局面では必ず敵に「勝頼病」を発生させている。

長篠の後も、信長は「勝頼病」を利用し続けた。
武田領には、信長はほとんど手を触れていない。
「勝頼病」の克服には、破滅するほどのダメージを受けて、現実感覚に目覚める必要があるが、長篠の戦いは「破滅するほどのダメージ」に相当する。
しかし「強弱の比較で自分に有利な点を大きくとる習性」が邪魔をする。武田領はほとんど手付かずである。その分勝頼は「自分はまだ強者だ」と思い続けるのである。
勝頼はその後も、疲弊した軍団を率いて攻勢に出る。
注目すべきは、徳川領ばかりを攻めている点である。既に信長への恐怖心が勝頼を支配している。
その後の勝頼の行動で、酷いのが「御館の乱」での対応である。
御館の乱」は謙信死後の上杉家の跡目争いだが、一方の当事者の上杉景虎北条氏政の弟である。勝頼は当時同盟関係にあった北条氏の要請により「御館の乱」に介入したが、上杉景勝からの和睦を受けて北条氏との同盟は解消、北条氏は織田と同盟を結んだ。
「勝頼病」の患者は、自分を認めてくれる相手に弱い。
上杉領の一部の割譲を受け、景勝と景虎の間の調停をしたりしている。一時的に和睦が成立したが、この和睦は事態の先伸ばしでしかない。
こうして信長が武田征伐を行うまで、勝頼は武田家を衰退させ続けるのである。

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