坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

日本型ファンタジーの誕生⑳~二人だけの世界を描き、ラストを描けないラブコメ

2年ほど前、週間少年サンデーのラブコメの紹介記事がいくつかはてなのランキングに載ることがあって、ラブコメブームのようになっていた。
私もその流れに沿って少し読んでみたが、年齢的にラブコメが受け付けないことがわかって、継続的には読んでいない。 だからつまみ食い程度での感想を述べていく。
からかい上手の高木さん』は「からかい上手」というからどんなにエグい話かと思ったが、読んでみたら全然エグくなかったのでやめたwwwエグいどころかむしろほのぼのとしてたwww
天野めぐみはすきだらけ』はちょいちょい見せるエロがうざい。
古見さんにコミュ症です』は何だこんなエロもないもの…新鮮www
エロでないラブコメの方がいいなんて、私も十分に今の時代の人間である。

しかしこうして見ると、ラブコメも随分変わったなと思う。
ブコメでは昔は三角関係は基本といってよく、三角関係、四角関係も男に都合のいいものが多い。 ハプニングでキスしちゃったとかおっぱいさわっちゃったとか女風呂に飛び込んじゃってドッカーンとかwww
最近は違う。男と女二人の関係を徹底的に描いている。二人の関係以外の脇役がストーリーに絡んでくることがあまりない。
例外はある。『ゆらぎ荘の幽奈さん』の冬空コガラシである。冬空コガラシの女性キャラとの絡みは、昔のラブコメのパターンが踏襲されている。
しかしまた、冬空コガラシにも昔のラブコメとの決定的な違いがあるのである。冬空コガラシは「ただのひとびと」ではないのである。 冬空コガラシは「モテる男」いや「モテるべき男」として描かれているのである。
それも一夫多妻的なものではない。 元々のラブコメも本来は一夫多妻を目指すものではなく、「モテたい願望」の延長線上にあり、本命はあくまで一人だった。ただ脱線、つまり本命でない女性とくっついてしまう過程が時としてあり、そこに「モテたい願望」が一夫多妻に転化するきらいはあった。そしてそれを「優柔不断」という言葉でごまかしていたのである。
昨今のラブコメは「モテるべき男」と「ただのひとびと」を分けたのである。冬空コガラシはは男らしく優柔不断でないから「モテるべき男」なのであり、「ただのひとびと」は脇目を降らずに一人の女性を見続ける。近年の恋愛観念の反映がそこにある。

しかし最近のラブコメを見てて思うのは、終わりが見えないことである。
昔のラブコメには二人が結ばれることでストーリーが完結するというパターンが踏襲されており、二人が結ばれるという予感を読みながら感じることができた。
しかし最近のラブコメは、『からかい上手の高木さん』の連載中に『からかい上手の元高木さん』の連載が始まったように、二人が結ばれるというラストシーンを描けないのではないかと思えてくるのである。
もちろん読者は二人が結ばれる予感を感じて読んでいるのだが、作者達は読者に予感を感じさせるのに精一杯で、二人が結ばれるラストが描けず、結果ほとんどが一話完結のストーリーが延々と続いていく。つかそれストーリー作るの大変じゃね⁉️
現状の二人が結ばれる予感を感じさせるだけのストーリーから脱却し、二人が結ばれるラストを描けるようになるのだろうか? その答えはラブコメ以外の作品にある。

僕だけがいない街』の作者の三部けいは暗示の名人といっていい。
『僕街』の次回作の『夢で見たあの子のために』で、双子の兄の復讐のために危ない橋を渡り続ける中條千里を、ヒロインの恵南が非難する。

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そのために今出来る事を積み重ねて、ちょっとずつでもその姿に近づこうとしてる。その先にあたしが思う未来の姿がある。その未来のために生きたいんだよ。

 

また、別のところではこう言っている。

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その瞬間思ってる事は、「報告したいってことなんだ。生い立ちがどうだろうと、今の環境が良かろうが悪かろうが、本当は母さんに、あたしが踏ん張ってこうして立ってる所を見せたいんだよ。母さんにはもう見せる事は出来ないけど、あたしは子供達に見せなくちゃいけない。誰にも恥じる事の無い生き方をしている自分を。千里は…「誰かに見せたい自分」はある?今の自分が恥ずかしいと思わない?

 

恵南の母は、殺人犯の夫のために周囲から迫害を受け、それを苦にして自殺している。
千里の母も、虐待する父親を止めることができない母親で、両親とも子供への関心が薄かった。二人とも、死んだ親に会いたいと思っているようには見えない。
だからこれは、「親になる」という意味なのである。子供の頃の自分が居て欲しいと思う親に自分がなる。そういう自分を「誰かに見せたい」のである。そしてその「誰か」は自分にとって大事な存在であり、世間ではない。
昨今ではイクメンなど、理想とする親の形が少しずつ作られている。しかしそこにまだ手が届いていないか、自分の理想をより高く、または広く取る必要があるのにそのことに気づかないため、終わりの見えるラブコメが描けないのである。

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