坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。新ブログ「人の言うことを聞くべからず」+を開設しました。古代史、神話中心のブログです。

戦争と平和を考えるマンガ③~『ヴィンランド・サガ』1:『ヴィンランド・サガ』に見る「ラグナロク」

ヴィンランド・サガ』は話がまだ途中で、おそらくストーリーが中盤か、あるいは序盤から抜けきっていないと思われるため、今書けることはそれほど多くない。
ただ気にかかるのは、史実においてトルフィンはヴィンランドへの入植に失敗している。
ヴィンランド・サガ』は創作の部分を多く含みながらも、ラストはおそらく史実に忠実に展開するだろうと思っている。
しかしそのことが、即トルフィンの理想の破綻だとは限らない。そして今のところは、非暴力主義的なトルフィンの行動は成功を修めている。

ヴィンランド・サガ』全体に漂うのは、「ラグナロク」の匂いである。
時は11世紀初頭、古代ローマ帝国の栄華は遥か昔となり、ヴァイキングがヨーロッパ各地で戦争と略奪を繰り返している、そんな時代だった。
プロローグ、幼少編の後が「ブリテン編」なのも興味深い。
ブリテン島では民族の大移動が大陸より遅かった。
作中でイングランドを侵略しているのはデーン人だが、デーン人の侵略を受けているアングロ・サクソン人も元は侵略者だった。イングランドケルト人とローマ人の土地だったのだ。イングランドは蛮行に次ぐ蛮行にさらされていた。
アシェラッドはデーン人の父からは、奴隷の子として名前を与えられず、アシェラッド(灰まみれ)と呼ばれていた。しかし奴隷の母親は元はウェールズの王族で、アーサー王のモデルとなったルキウス・アルテリウス・カストゥスの子孫だった。アシェラッドは母からアルテリウスの名前を貰う。
アシェラッドはデーン人を憎み、母の同胞のローマン・ケルトアイデンティティを抱く。
アシェラッドは母から「アルテリウスがアヴァロンから帰ってきてケルト人を解放する」という話を聞かされて育つが、やがて現実に目覚める。自分は傭兵団の団長に過ぎず、戦争と略奪に明け暮れる毎日を過ごすしかない。アシェラッドは自らの主となるべき人物を求め、デンマークの王子クヌートを見出だす。

クヌートは、歴史上ではデンマークイングランドの他にノルウェーの王となり、北海帝国を打ち立てる人物である。
しかし作中では、クヌートは最初「王の顔じゃない」とアシェラッドに思われていた。
クヌートは兄ハロルドに何かあった時の控えとして育てられ、そのために王位継承の争いが起こり、陰謀が絶えなかった。
陰謀を嫌気したクヌートは気弱な青年に育つ。しかし父王スヴェンは、王位継承争いを避けるためにクヌートを見捨て、イングランド戦役で息子が死ぬことを望み、戦役で最も手強いトルケルと対峙させる。
アシェラッドはクヌートを甘やかす守役のラグナルを殺す。精神的な支えを失い、神が人を救わないこの世の無情さを知ったクヌートは、覇道に目覚め父王と対決し、神に頼らずにこの世に楽園を築こうとする。クヌートが打ち立てる北海帝国は、ローマ帝国の再現でもあった。
しかし覇道を突き進むほど、クヌートは自分が父と同じ道を歩いているのを思い知る。父と訣別し、父と違う道を歩もうとしたはずが、いつの間にか、

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となる。

クヌートのようなマキャベリストの対極にに位置するのが、トルケルを代表とする戦士達である。
トルケルのような人物は、『花の慶次』などなら爽やかなキャラとなっただろうが、『ヴィンランド・サガ』では少し違ってくる。

戦士達の生き様は、北欧神話の影響を受けている。
激しく戦って死んだ戦士の魂は、ヴァルキリー(戦乙女)にオーディンの館ヴァルハラに導かれ、そこで暮らす。ヴァルハラで戦士達は、昼は戦争の練習、夜は饗宴に明け暮れる。
戦士達は決して駆け引きを否定しない。駆け引きの否定は戦争、ひいては自分達の存在意義を否定するからである。
しかしクヌートのような暗殺に手を染める行為は否定する。暗殺もまた駆け引きのひとつなのだが、そこには重要な線引きがある。戦争があるかどうかである。
クヌートは多くの成果を戦争によらずに得ていく。
一方トルケルは、デンマークが強いからという理由で、戦争を続けるためにイングランドに寝返ったりする。
そのような在り方をクヌートは無意味と思い、「戦争に意味を与え」ようとする。そして暗殺を含めて合理的に征服事業を進めていく。
クヌートは、確かに戦争に意味を与えたのである。しかしトルケルは不満に思う。
それは一人の人間の都合で、人の運命が決まるべきではないと思うからである。
巨大な帝国を築くことは、確かに多くの人々に秩序をもたらす。しかしそのために暗殺された者は、秩序の恩恵に浴していない。だからトルケルの態度にも理はある。
「復讐」もまた、秩序を保つための重要な行為と思われていた。
家族を殺された者は、赤ん坊でも「復讐」の義務を負う。
「復讐」しなかった者は軽蔑される。「復讐」しなければ、人を殺した者がのうのうと生き延びるのを許すことになるからである。
当時の警察力を考えれば(現代の警察力が十分かどうかもかなり疑問だが)、「復讐」が秩序を担うというのは説得力のある話である。そして「復讐」の対象には、暗殺という手を用いたクヌートも含まれる。「復讐」の観点から見れば、クヌートは秩序の中にいないのである。

戦士達は決闘を好む。それは戦争である以上否定できなかった駆け引きの要素を究極まで削いだ戦いの形である。戦士達が本当は駆け引きを嫌っている証である。

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駆け引き嫌いが高じるとこのようになる。
だから、戦士達は矛盾を抱えている。
駆け引きを否定してはいけない。ならば戦争をし続けるしかない。となればトルケルのように、無意味に戦争を求め続けるしかない。しかしその戦争もクヌートのようなやり方で無くなってしまうと、

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死んじゃうwww。

北欧神話の原典である『エッダ』の成立は13世紀で、キリスト教の影響を受けていると思われる。
北欧神話は、ギリシャ神話と同じ多神教の世界観である。
一神教多神教の違いは、道徳観念の有無にある。
多神教でも近親婚のタブーなどの道徳観念はあるにはあるが、「人を殺してはいけない」とか「盗んではいけない」といった、社会秩序維持に必要な根本的な道徳観念ははほとんどない。多神教の神は、自由で横暴である。
その多神教北欧神話ギリシャ神話と違い「ラグナロク」があるのは、キリスト教の「最後の審判」を北欧神話なりに受容したのだろう。
ラグナロク」は世界の終わりであり、最高神オーディンフェンリルに喰われて死ぬ。
オーディンは「ラグナロク」に向けて、ヴァルキリーにヴァルハラに導かれたエインヘリャルとともに武力を鍛えていくのである。
そこにはオーディンの2つの姿がある。ひとつはキリスト教の道徳観念に対して、自分の節を曲げない姿で、信念のために破滅を厭わない姿である。
もうひとつは、自らを正しいとするために争いを止めることが出来ず、破滅に呑み込まれていく姿である。

ラグナロク」は、争いを続けるために人が行き着く破滅であり、破滅に向かって進んでいるとわかっていながらそれを止められない心の闇である。
トルフィンとの決闘を望み、執拗に追ってくるガルムも、

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と、自ら破滅を望むようになる。

このように見れば、トルフィンの思想は確かに、クヌートやトルケルのアンチテーゼとして成立している。
問題は、トルフィンの思想で全てが解決できるかどうかである。トルフィン自身、「本当の戦士に剣はいらぬ」と言った父親が、剣を捨てきれずにいたことを疑問に思っている。
その答えは、まだ出ていない。

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