坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

漢の高祖劉邦は「巨大な共依存の加害者」

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漢の高祖劉邦は、『史記』を真面目に読めば馬鹿そのものである。
いわく洛陽を都にしようとして、「漢は武によって成立した国なので、関中に都を置いた方が良い」と進言を受けその通りにする。楚漢戦争で関中の重要さなど知り尽くしただろうに。
いわく宮殿内で家臣達が大声で話し合っているのを見て、「何を話しているのか」と問うと「謀反の相談をしているのでございます」と答えが返ってきて仰天し、慌てて儒教の礼を取り入れたところ家臣達がおとなしくなり、「朕は初めて皇帝の偉大なることを知った」など。楚漢戦争の時、劉邦は相当軽い神輿だったようで、始皇帝死後の混乱を合わせて考えれば、家臣が宮殿内で大声で謀反の相談をしていたというのもあり得る話だが、そのことについて警戒もしていなかったような劉邦の態度はわざとらしい。
極めつけは、敗走中に馬車を軽くするために自分の子供を放り投げたという話である。司馬遷の『史記』は、司馬遷が各地を巡って情報収集をしたというが、娯楽の少ない当時のこと、人々は大笑いしながらこの話をしただろう。この時劉邦に放り投げられた子供が、第2代皇帝の恵帝である。

「姓は劉氏、字は季」と『史記』にあることで劉邦の「邦」は諱ではないとする見解がある。司馬遼太郎の『項羽と劉邦』もこの見解を採っており、私も賛同する。
劉邦の生まれた沛の辺りの農民程度の出自なら、名などない者も多かったのであろう。
「邦」というのは「兄貴」という意味であるという。劉邦は名を成してからも「兄貴」で通し、その身分にふさわしい諱をつけなかった。「名前なんかいらねえ」という素朴さを感じられる話である。「季」という字は「末っ子」という意味だが、弟はいる。年の離れた弟だったのだろうか。
また生年もはっきりしない。紀元前247年説と紀元前256年説があり、私が若い頃は紀元前247年説が有力だったが、最近は紀元前256年説が有力らしい。
本屋で立ち読みした時のうろ覚えの記憶だが、漢代には劉邦の年齢を記録した資料はなく、年齢の記録は晋の時代になってから現れたという。
年齢に興味がないというのもまた、素朴さを感じる話である。
ところが、そんなことはない。
劉邦には、同じ豊の邑で同じ日に生まれた盧綰という仲間がいる。盧綰は後に燕王になっている。劉邦は他姓の王を粛清し、「劉氏以外を王に立てない」という慣例を作ったが、さほどの功績もない盧綰だけは例外としたのである。
もっとも盧綰も、後に謀反を疑われ匈奴に亡命している。ただし盧綰を王にしたのは、劉邦の生年を記憶するためだったと考えられる。
劉邦は自分が生きている間に、各地の王を全て粛清したが、劉邦が積極的に粛清を行ったという印象はない。各地の王が猜疑心によって反乱を起こしたとか、家臣が色々画策したという話が伝わっている。
ずいぶん恐い話である。劉邦の強い意志無くして、全ての他姓の王を廃することなどできるわけがない。
歴史の始まりの時期に、こういうことはよくある。
殷周革命で、滅ぼされた殷の紂王は稀代の悪王とされた。
歴史の始まりの時期は神話の要素も混ざり、人物は精彩を欠き、ストーリーもリアリティがない。
楚漢戦争の時期は人物が精彩を放っているため、リアリティがあるように感じるが、実は「人物が精彩を放ってリアリティがない」のが楚漢戦争から漢の初期の時代なのである。人物に精彩があるのは、劉邦が例外的に戦争に弱く、項羽が例外的に戦争に強いからである。

秦の始皇帝は、最初期の前衛家らしい極端さがあり、王や貴族を廃止して中央集権にしたり、焚書坑儒や土木事業や外征などで民は疲弊した。それが後の混乱に拍車をかけたのであり、劉邦のような名もない人物が台頭する要因となっている。
劉邦は後に王陵から「よく人を侮る」と言われ、後に相国となった蕭何からは「劉季はもとより大言多く、事を成すこと少なし」と言われている。
劉邦に実務能力が乏しかったのは間違いなく、特に戦には強くなかった。
そういう劉邦がなぜ天下を取ったのか?
「徳があったからだ」というのが、これまでの答えである。
しかし考えてみよう。


劉邦は行儀が悪く、すこし酔えば横に長くなって肘枕をし、ときどき癇癪を起こすと、その男を口汚くののしった。類がないほどに、言葉遣いが汚かったが、そのくせ一種愛嬌のある物言いで、罵られた者も多くの場合傷つかず、一座もげらげら笑い崩れてしまうというぐあいで、劉邦の芸といえばあるいはこれが唯一の芸であったかもしれない。

 

と司馬遼は『項羽と劉邦』でいうが、現代人ならこの描写で、共依存関係を疑うべきだろう。
互いに冗談だけで会話が成立する関係など、よほど気が合わないとあり得ないのである。気が合っているようでも、一方的に悪口を言われている場合、やはり共依存をではないかと思うべきなのが現代人である。それを大人数に対して行うのは尋常ではない。
特筆すべきは、劉邦戦国四君の信陵君を範としたことである。
共依存の加害者は、自分と正反対の人物に憧れることがある。
食客に常に礼を以て接し、その才覚を王に恐れられた信陵君は、劉邦に似ているとは言えない。
コンプレックスが憧れに転じるのだが、共依存の被害者にそれを語る場合、時にそれは老獪なものとなる。
劉邦と正反対の信陵君を、劉邦と同じ人格と被害者に受け取らせるのである。
しかしこの時代、人の寿命は短い。
そして劉邦の周りに集まった者は、正業があってもろくなものではなく、明日をも知れない身だった。
そんな者達が、自分達の親分、実際には加害者を立てることで、子分である自分を少しでもましだと思いたいと考えることは充分考えられることである。

しかしそれが「龍の子」だの「天命を負っている」だのになっていくのはどういうことか。
これも説明できるのである。なぜなら劉邦に能力がないから。
私も今までの人生で多くの問題児にあってきたが、大抵その周囲は、問題児を中心に回っている。周囲は問題児を必死に立てようとするが、こっちが油断すると、問題児が「人格者」に発展していることもある。
劉邦の話に戻せば、子分にとって劉邦が無能なのは耐えられないのである。だから劉邦を持ち上げようとして色んな話を作る。それが歴史に残る劉邦の「伝説」の始まりである。

凄いのは、劉邦共依存が沛の町を覆ってしまったことである。
先に述べた王陵だが、元は劉邦の兄貴分なのである。劉邦は王陵を共依存だけで超えてしまった。充分才能だといえる。
もっともこれだけだと沛の任侠界だけの話になりかねないが、劉邦に目をつけた蕭何(目をつけたと言っていいだろう)がさらに持ち上げて、劉邦始皇帝死後の沛の支配者にしてしまった。

もっとも劉邦は、ただの共依存の加害者ではない。
人物を見る目があった。韓信、蕭何、張良といった人材を使いこなした。
人物に対する劉邦の慧眼を示すエピソードに、病床の劉邦呂后が後事について訪ねる話がある。
劉邦は「蕭何に託せ、蕭何の後は曹参、曹参の後は王陵、しかし王陵は愚直だから陳平を補佐につけよ。陳平は才走りすぎるから周勃を補佐をさせよ。漢を安んずるのは必ずや周勃であろう」と言ったという。
私は最後のところを除いて作り話だと思っているが、劉邦の人物眼を感じさせられる。共依存の加害者は相手の能力を見抜く力が著しく劣っていることが圧倒的に多いが、劉邦はそうではなかった。自分を覚めた目で見ていたのだろう。

もっとも、劉邦が天下を取るのは共依存の力ではない。武関回りで関中討伐の将に選ばれるという運の良さがあり、そのおかげで楚漢戦争の一方の旗頭となる。
そこから天下を取ったのは、人材登用の面もあるが、基本的には諸国の雄に多く土地を与えたからである。これで英布、彭越、そして登用した後に半独立の体をとった韓信を味方に引き入れた。
東洋には、領地を多く部下に与えることで天下を取るケースが多くあり、その場合、いろんなごたごたがあっても政権自体は長続きすることか多い。
しかし漢は、途中で中央集権化に成功した。
世界史で見て、最初に弱体で、後に強権になる王朝が2つある。フランスのカペー朝前漢王朝である。
しかしカペー朝ではフィリップ二世という傑物がいたのに対し、漢王朝はそうではなかった。沛出身の小領主達、かつての供依存の被害者が、徳川幕府の普代大名のように諸国の王の勢力を削るのに腐心し続けたのである。
しかし始皇帝が起こした「混乱」は、百年も経たないうちに収束して、中央集権にできるのかと思ってしまう。
そんなものなのである。しかしこれは、漢が善政に敷いたことによる部分が大きい。
善政といっても、正義を完遂したとか、福祉を充実させたという積極的なものではない。税金が安かったのである。
始皇帝死後の混乱の時期、不正な手段で財や勢力を成した者は多くいただろう。各国の王と争いながら、そのような勢力を敵に回すことはできない。そこで税金の安さが売りになる。「ならば中央集権でもいいか」となるのである。しかしこれは、なんだかんだといって中央集権が始皇帝以来、人民に浸透していたということである。

劉邦以降、天下を取る者が多く現れ、天下を取る者がことごとく劉邦を範とした。しかし劉邦のように、「生まれ持った徳がある」と言われた者は1人もいなかった。それでいて、劉邦が「生まれ持った徳」を持つことは批判されてこなかったのである。

東洋では、リーダーの型としてボトムアップ型のリーダーの中に、「生まれ持った徳」のある者がいると言われてきた。
西洋では、「生まれ持った徳」というのは言われることがない。
それがなぜかを考えたいというのがあって、今回の記事になった。

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