イスラム国は、アメリカやロシアの攻撃により、少しずつその領域を小さくしている。
一時期、イスラム国は今年中に殲滅できるという予測もあった。もしそうなれば、テロの脅威も薄らぎ、この記事も見向きもされなくなるのではないかと恐れながら書いている。
で、イスラム国のことを「悪の思想」と言っていた。
「悪の思想」をより厳密に定義してほしいとは思うが、直感として正しいとは思っている。
山猫日記では、「温情主義や迷いがあってはならない」と述べており、私とは考えが違うのかと思った。しかし詳細に見ると、「戦争が唯一の解決策ではない」と言っているあたり、それほど違いはないのかもしれないとも考えた。おそらく現時点で言える限界を考えての、三浦氏の表現だろう。
私と三浦氏の考えがどれだけ共通、または相違しているかの判断は読者に任せよう。
イスラム国について、時たま見かけるのが、 「イスラム国のしていることはイスラムの教えに反している」 とネット上で語る人達である。気持ちは分かるが、イスラム教徒でない者がイスラム教徒に「自分達の方がイスラム教を知っている」というような主張をするのは良くないと思う。
よく言われるジハードにしても、クルアーンに異教徒との戦争の意味で使われている箇所もあり、テロをジハードとするのは間違いだという主張も完全に正しいとは言えない。
要するにイスラム国のしていることはイスラムの主流でなく、また若干教義がねじ曲げられていても、イスラムの教えから完全に外れてはいないのである。
問題は、我々非イスラム教徒が、イスラム国を「イスラムでない」と完全に否定できるかなのである。
それはイスラム教徒に非イスラム教徒が実質的に改宗を迫っているのであり、我々がイスラム教を知っているかのように語って、テロリストを否定するのを私が批判する理由である。
イスラム国との戦いの難しさがここにある。
イスラム国は、本来穏健的と言われていた東南アジアのイスラム教徒もイスラム国の兵士、またはテロリストに変えた。
ジャカルタやアンカラのテロは、「なぜお前達は戦わないのか」という、恐怖を込めたメッセージであり、ニースやミュンヘンのテロは、単独のテロが可能なことを示した。これではイスラム教徒が歩いているだけで警戒されるようになるだろう。
イスラム国が狙っているのは文明圏とイスラム圏の分離であり、この状態が長く続けば、イスラム圏の人達が文明圏に近づくのに絶望感を持つようになるかもしれない。
今の事態を生み出したのが、イスラム国のカリフであるのは明らかだろう。
イスラム教徒の大半がイスラム国のカリフを認めていないが、テロリスト達はカリフと認めているのだろう。
ならば我々非イスラム教徒はどうだろう?
我々にはイスラム国のカリフを認める権利も、認めない権利もないのである。
そもそもイスラム国をISILと呼ぶのも私は反対で、世界中が認めなくても、イスラム国は国である。 その国を殲滅し、カリフを殺せばどうなるか。
イスラム圏の他の地域で、カリフを名乗る者が現れるのではないかというのが、私の危惧である。
そしてカリフを殺すたびに、カリフを名乗る者が現れれば、千年経ってもテロは終わらない。
私は、穏健化するのを条件に、イスラム国を国として認めるのがいいと思っている。
それはもちろん、テロも侵略戦争も、性奴隷も強制改宗も全て止めさせたうえである。イスラム国とは戦うが、殲滅という選択肢を外し、一定の領域をイスラム国に残すようにする。
これはけっして甘い考えではない。 かつてチャーチルは、ナチスを早めに潰すべきだと言った。その判断は正しいと思っている。しかしイスラム国は殲滅すべきではないのだ。
これは殲滅をむしろ安易とし、長く苦しい戦いを続ける決意である。
そもそもイスラム圏は十字軍の頃から西洋と戦い続け、帝国主義の時代に植民地となり、以来ずっと西洋の支配を受けてきた。
イスラム教という、戦闘性の高い宗教を支配し続けた末に、イスラム国は誕生した。イスラム国を考えるにあたり、この歴史の流れを忘れてはならない。
イスラム国との戦いは、単なる悪との戦いではなく、過去の歴史の精算、イスラム圏との融和をめざすべきである。
それ以外の方法は、イスラム教徒が団結してイスラム国のカリフを否定する戦争をすることだが、イスラム教徒の団結に我々はいかなる関与もできない。
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