冒頭で坂のある風景が描かれている時点で気付くべきだったのかもしれないが、『姉の結婚』の舞台である中崎市とは長崎市のことである。それは作中に大浦天主堂や平和記念像、軍艦島が登場することでも明らかである。
『娚の一生』でも、角島という架空の街を舞台にしているがこれも鹿児島市のことで、作者の西炯子は九州の実在の街を架空の街にして作品を描いている。
思えば、ヒロシマ、ナガサキは原爆以外のテーマで舞台になることがない。ヒロシマ、ナガサキを原爆以外のテーマで扱うことを、我々日本人が不謹慎だと思っているのである。
ヒロシマ、ナガサキが原爆以外で舞台にならないのは、我々被爆者でない日本人が、被爆者である広島、長崎市民に負い目を感じているからである。
もちろん広島、長崎にも、原爆と関わりのない日常があり、広島、長崎市民はそれをテーマにして欲しいという想いは持っているだろう。 しかし我々被爆者でない日本人が、原爆以外でヒロシマ、ナガサキを扱うのを許さないのである。
この日本人の意識は、既に加害レベルに達しているのではないかと私は恐れているのだが、この問題が被爆者でない者が被爆者に及ばないという想いから生まれている以上、基本的に解決のしようがないものである。
我々が被爆者に及ばないと思うのは、ヒロシマ、ナガサキの被爆者達が、死と隣合わせという超現実を生きてきたからである。 『夕凪の街』のラストに見るように、彼ら被爆者にとって死は日常なのである。
よく広島、長崎の核廃絶運動を批判する者がいる。彼らは非現実的だと。
私も本音では、そう思っている。しかし広島、長崎を名指しで批判する気にはとてもなれない。彼らは死と隣合わせという超現実を生きてきたのである。
そしてそのことを日本人が知っており、日本人がその超現実を背負って生きた者に及ばないと思うから、ヒロシマ、ナガサキは原爆がテーマでなければならないと思い、他のテーマで扱うのを不謹慎と思う。 解決の方法は、我々被爆者ならぬ者が被爆者になるしかないだろう。
そして我々がそう思っている限り、広島、長崎は原爆をテーマとしてのみ描かれ続けるのである。
西炯子は、この問題をさりげなく解決してみせた。 つまり長崎を架空の街にすることである。
西の奥ゆかしいのは、長崎だけでなく、九州の他の街も架空の街にしたことである。私は『娚の一生』と『姉の結婚』しか読んでいないが、この二作を見る限り、他の作品も同じ措置を取っているのだろう。
それは長崎を特別扱いしたのではないという配慮である。
今では原爆症というものが被爆者にとってどれほどの脅威なのか、私にはわからないが、脅威の減少が即原爆をテーマにしないことに繋がっては差別になりかねない。 架空の街にすることで、原爆症への怖れを抱きながらも原爆でない長崎を見て欲しいという想いを充たすことが可能になる 。
この作品もまた、「主人公でない者を主人公にする」という作家の使命感に基づく作品である。
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