坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

「戦争と平和を考えるマンガ」

拡散希望をしなかったのにこんなことを言うのは気が引けるのだが、

弁護士が無能すぐるww④ - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

にブクマのひとつもないのはおかしくないか?

原爆でない長崎を舞台に~西炯子『姉の結婚』 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で「この国の徴税はざるです」と山形県弁護士会が言っているのに何も思わないのか??

 この国を一体どこの後進国だと思っているのか?!

改めて、

弁護士が無能すぐるww④ - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

原爆でない長崎を舞台に~西炯子『姉の結婚』 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

の拡散を希望します。 拡散をしない人は、もうこのブログにはこないでしょう。

 ブクマだけでダメとは言いませんが、ブコメも希望します。 怒りの感情くらいあるでしょう。ひとつや二つでなく、数十、数百のブコメが頂けると思っています。


 かつて「東洋の小さな島国」という言葉が、よく言われていた。

あるいは80年代限定のことかもしれないが、確かめる術がない。

 しかしよく考えればそれはおかしいのである。

 日本の国土面積は、ヨーロッパの国々より大きい。アジアでも中南米でもアフリカでも、日本より大きい国はそうそうない。

 人口でも1奥2千万以上の人口を持つ国はアメリカ、中国、インド、ロシア(当時はソ連)などごくわずかである。 

経済で言えば、日本はまだ中国に抜かれていない世界第二位の経済大国である。 

「東洋の小さな島国」というのは、島国と大陸の比較、またはアメリカなどとの比較でしかなかった錯覚であり、日本は「東洋の小さな島国」と言う必要はどこにも無かったのである。


 当時の日本はことさらに自分達を小さく思おうとした。 それは他の国への見方に表れている。

中国には4千年の歴史があり、シルクロードにはロマンがあり、アフリカや中南米には自然との共生があるといった具合に、日本人は世界のどの国も憧れの対象として見ていた。

 今は違う。中国は中華思想と4千年間同じ歴史を繰り返した国であり、シルクロードはしばしば紛争の巷であり、アメリカは貧富の格差が激しい国で、しばしばキリスト教原理主義に走るといったように、我々の世界の見方は変化した。 

80年代は、世界に対し自らを下げていたが、それはキャッチアップににてそれとは違い、自分達を「まだまだ」としながら、成長や努力を望まない姿勢だった。 

しかし成長、努力を拒否したその社会は、今より安定感が高かった。今は多分に偏見を含みながらも客観化されているが、その分社会には不安定間がある。 


日本は世界を客観視するようになった一番のきっかけは、9.11テロだろう。 

9.11テロの後、テロに対抗したアメリカが難癖をつけてイラク戦争を始め、テロの時代が到来した。 

この時期、多くの日本人は一神教というものを知った。一神教は他の宗教に対して狭隘で、しばしば殺し合いで問題を解決しようとする。

そして「一神教より多神教」というフレーズが流行し、「一神教より多神教」を評価する多くの本が出版された。 その先頭を切ったのは塩野七生の『ローマ人の物語』だった。他の作品は多くは新書で出版された。

2000年代の新書ブームはこうして起こった。

 2000年代は非常に知的好奇心の高い時代だった。その知的好奇心はテロの時代の到来による、多神教一神教への優越感がもたらしたものだった。 


これが2000年代前半の空気だったが、後半には雰囲気が変わってくる。

 それがドストエフスキーブームの到来である。ドストエフスキーは近代の小説家でもキリスト教者として、近代化に警鐘を発し、キリスト教への回帰を啓発した小説家だった。

 『ダヴィンチコード』の流行も相まって、キリスト教、仏教などの宗教ブームが起こった。

一神教は教義を守ることを求める創唱宗教が多く、多神教は教義の無い自然宗教が多い。

日本人は「一神教より多神教」と優越感を感じたことにより、一神教的な教義への関心を持つことができたのである。この流れは安倍政権成立まで続く。


 一方、日本の文化にもうひとつの嗜好が生まれた。

 2005年に『ヴィンランド・サガ』、2006年に『ヨルムンガンド』、『キングダム』 の連載が開始された。

 この三作には共通点がある。 『ヴィンランド・サガ』のドルフィンは、父の敵のアシェラッドの元で戦争をする。 

ヨルムンガンド』のヨナは、孤児仲間を殺した武器を嫌いながらも、武器商人のココ・ヘクマティアルの元で私兵として戦う。

 『キングダム』の信は、やはり孤児仲間の漂を自分の身代わりにした政(後の始皇帝)の元で戦う。

 三作とも、主人公の憎むべき対象に主人公が寄り添い、その憎むべき対象は戦争に繋がっている。

 これらの作品は戦争を憎む主人公が日本であり、戦争を憎みながら戦争に参加していき、平和とは何かを模索していく構図となっている。

 私はこれらの作品を「戦争と平和を考えるマンガ」と位置付けた。

 「戦争と平和を考えるマンガ」は、平和主義が生み出した唯一の成果である。

平和主義に他の成果などひとつもない。 そして「戦争と平和を考えるマンガ」は、2000年代の「一神教より多神教」という優越感があって、日本人が平和を求めながらも戦争、軍事力の必要性を認めなければならないと考え、自分の心の奥を探るようにして生み出されたのである。


 今後、「戦争と平和を考えるマンガ」についてシリーズで書いていくが、他に書くことも多いので、半年ごとの更新となるだろう。


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