今年の初めに、三浦瑠璃氏の「スリーパーセル」発言が物議を醸した。
その時に一番話題になったのがこの記事。
この記事では、「スリーパーセル」の根拠を示せと言っているが、それは無理だろう。現状何の犯罪も起こしていない人物を「スリーパーセル」として公表するのはただの人権侵害である。
「スリーパーセル」が大阪でテロを起こすか東京で起こすかは議論の余地があるが、最高指導者が殺されると終戦工作のために「スリーパーセル」が動かないというのは希望的観測に過ぎるだろう。
一方こちらも。
こちらは在日韓国、朝鮮人の立場に沿って論を展開している。
確かに、「スリーパーセル」でない在日韓国、朝鮮人が偏見と差別を受けるのは避けたいところである。 ならヘイトスピーチに罰則を設ければいいんじゃねえの?
2016年に制定されたヘイトスピーチ規制法は罰則規定がないが、ヨーロッパではヘイトスピーチに対しては罰則規定がある。
「スリーパーセル」騒動は、ヘイトスピーチに罰則規定を設けて、リベラルを前進させるいい機会だった。
しかし、このようなことは保守派も主張できることなのである。
保守派の中には、社会の安定を考慮して、リベラルに歩み寄れる者がいる。
保守の中で頻繁にリベラルに歩み寄る者は、、その言動を見ればリベラルとそう変わらなくなってくる。
保守の中にリベラルに歩み寄る者を大量に獲得することで、社会を前進させることができる。しかしそれをしないのは、「スリーパーセル」発言を非難する意図が護憲にあるからである。
リベラルはほとんど9条について語らない。読む国会氏のようにしばしば護憲寄りの発言をする方が異例なのである。
それはリベラルのほとんどは護憲派だからで、自らが護憲派であるのを隠蔽しているからである。 リベラルが護憲の隠れ蓑であり、護憲の装飾であるのは、リベラルを理解する上で重要な事実である。
私が子供の頃、右翼がデコトラみたいな街宣車で、大音量で軍歌を鳴らして通るのを見たことがある。 「あれ何?」と親に聞くと、「見るな‼️」とwww。当時の日本では、右翼は存在しないものだったのである。
最近の右翼は、デコトラのような街宣車で軍歌で騒音公害をしたりしない。必要がないからだろう。
私は右翼の主張にはほとんど反対なのだが、右翼が市民権を得て、軍歌を鳴らす必要がない社会になったことを喜ばしいことだと思っている。
相手を存在しないものにしてしまうというのは、究極の差別である。異なる意見を存在しないものとして、社会にひとつの意見しかないものとするのが「和の精神」の目指すところである。
「和の精神」が全面に押し出されると、改憲派がリベラルに歩み寄るのを喜ばないようになる。
だから「スリーパーセル」問題でも非難するだけで、在日韓国、朝鮮人の人権を守ろうとは考えていない。護憲派にとって、在日韓国、朝鮮人の人権は本当はどうでもいいのである。
護憲派がそのような考え方をするから、日本にはリベラルに歩み寄る保守派が少なく、ほとんどの保守派が反動家である。
また日本には、「改憲派のリベラル」がいない。
「改憲派のリベラル」さえ生まれないから、議論にバラエティーがない。バラエティーがないから、人権向上の議論がしばしば封殺され、また多くの人が集団の中で無個性なままでいる。
もういい加減、リベラルは護憲から切り離されるべきだろう。
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