坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

定言命法に達しなかった日本人

2000年代は9.11テロ以降、日本では一神教が批判され、「一神教より多神教」と叫ばれた。この流れの中で『ローマ人の物語』はヒットしたし、ニーチェブームもまたこういう風潮の中にあった。
しかしこの流れに対抗するように起こったのが、ドストエフスキーブームである。ドストエフスキーブーム以後、キリスト教や仏教などの宗教ブームが起こる。
宗教ブームには、二つの側面がある。ひとつは、「一神教より多神教」と謳われたことで一神教世界に対して優位性を感じた日本人が、一神教の啓示宗教としての道徳性を見る余裕ができたこと、もうひとつは、日本人は元来、自らの道徳性の弱さに劣等感を抱いており、「一神教より多神教」と唱えたことで優位性を感じた日本人が道徳性の弱さを補いたいという願望を持ったことである。
この流れは、第二次安倍政権の成立により消滅した。ある記事で私は、安倍政権が宗教ブームを消したかのように書いたが、正確には宗教ブームに耐えられなくなった日本人が反動的に安倍政権を成立させ、宗教ブームの流れを止めたと思っている。
しかし宗教ブームは底流化し、2010年代前半から2017年くらいまでのリベラルの潮流に合流したと私は考えている。リベラルの台頭は、基本的には擬装請負の被害者への負い目を感じた多くの日本人が、パワハラ長時間労働発達障害などの問題を取り上げ、擬装請負の被害者である派遣社員の苦しみを緩和しながらも、擬装請負そのものからはミスリードするという形で、主にリベラルの中核を成すフェミニストと、フェミニストが親和性を感じるLGBT発達障害者を中心に進められた。もう1つ宗教ブームには底流化したもう1つの流れがあり、それは私が「日本型ファンタジー」と呼んでいるサブカル作品群に吸収された。

2000年代の新書ブームの本の中で、たまに定言命法が論じられることがあった。
定言命法は、哲学者カントが主張した倫理学の根本原理である。

定言命法 - Wikipedia

定言命法は、無条件に「~せよ」とする絶対的命法である。
カントによれば、カント以外の倫理学に「~ならば、~せよ」という仮言命法だという。
例えば「人を殺してはならない」という倫理の場合、自分が殺されそうになった場合、つまり正当防衛を考慮すれば、「自分を殺そうとする者がいない限り、人を殺してはならない」となり、仮言命法になる。
しかし定言命法ならば、「自分を殺そうとする者がいても、その人を殺してはならない」となる。それはほとんどの人は実践できないだろう。しかしその実践できないことを、むしろ実践できないことを前提に要求するのが定言命法なのである。

カントは仮言命法を経験論的なものとして、定言命法仮言命法の上位に置く。
状況においては仮言命法の法が定言命法の上位にくるのではないかと考えると、様々な問題が生じる。
先の「人を殺してはならない」を仮言命法を上位とすると、「盗んではならない」を定言命法にすることに問題が生じてくる。
例えば「自分から盗もうとする人がいない限り盗んではならない」という仮言命法は成立しない。裁判などで盗まれたものを取り返すのが法的にも道徳的にも正しい手続きとされ、盗み返すのは道徳にならない。「盗んではならない」は定言命法でしか成立しない。しかし窃盗より重要な倫理的問題である殺人が、定言命法で命じられないことになり、殺人が窃盗より軽んじられることになるのである。

新書ブームの時代は、定言命法は論の大筋の中での派生的な議論として、大澤真幸中島義道などが定言命法を論じたが、それには日本に定言命法を定置させたいという試みがあったのだと思う。
リベラリズムは、多くは定言命法的である。「パワハラは駄目」という場合、パワハラは無条件に駄目なのである。こうして日本人は、いくつかの定言命法的な生き方を身に付けた。
しかしこれらの試みや結果は、定言命法に集約されることはなかった。日本人は、今なお定言命法自体は否定しているのである。

山本七平が『空気の研究』でユダヤ教について触れたが、ユダヤ教十戒こそは「汝人を殺すなかれ」「汝姦淫するなかれ」「汝盗むなかれ」と定言命法的である。
また『空気の研究』では、状況倫理の話を紹介し、明治の時代に西洋人が来日して日本人に状況倫理を伝えたところ、ある者が「それは日本では害になるだけだ」と批判したという。
『空気の研究』は、日本人の有り様を伝えている。日本では「空気」がほとんど唯一の「倫理」で、その「空気」を破る定言命法的なものは受け付けないのである。だから今でも日本のクリスチャンは人口の1%である。
この「空気」によってなされるのは、悪事を働いた者を「善人」に逆転させることと、スケープゴート作り、そして被害者に報いない「善人アピール」である。
罪と罰』でラスコーリニコフは、ひとつの罪悪が百の善行によって償われるという思想に基づいて殺人を犯した。そのラスコーリニコフが善行でひとつの罪悪を償うことができないと気付いた時、多くの日本人が感動した、
しかしその日本人が、『いぬやしき』の獅子神浩こそが「反省しなかったラスコーリニコフ」であることに全く気付いていない。ラスコーリニコフの場合は「ひとつの罪悪に百の善行だが、獅子神の中では1人を殺すのと1人を救うのは足し引き0で、理想も公共心も無い。しかし獅子神は明らかに「堕落したラスコーリニコフ」である。悪事と善行で足し引き0にするという考えは、すぐに悪事の正当化となり、善行によって足し引き0にできると信じて無限に悪事を犯し続けることになる。日本人が擬装請負の犠牲者である派遣社員を教育無償化で見殺しにしようとし、今なお「非正規」「就職氷河期」という言葉でごまかし続けるのはこの心理による。これは「善行」の結果に関わらず、「悪人」の行為である。
なぜこうなるかというと、日本人は元々多重人格的だからである。例えれば

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こんな感じwww。
日本人は多重人格障害者が極端に少ないが、それは日本人が多重人格的に生きているからである。だから元明石市長のパワハラでも「普段人権派として頑張ってるから」などと擁護したりする。
それでいて2010年代のリベラリズムの爆発的な普及は、

「成長体験」 - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたように、都合の悪いことを全て他人のせいにして、「多重人格的」な自分のひとつの人格を「本当の自分」だと思った者が成し遂げたものである。
この時期のリベラルの記事の精度の高さは、リベラルの本場である西洋に肉薄するものだった。しかしリベラルの何人かは、自分で自分を攻撃することになったと思う。「自分も加害者と同じ」という境地に至った者が、その後更新が止まったり反動的な言動を取ったりする。そして今でも、その混乱を克服できたと思う者は見当たらない。

もっとも、山口真帆の事件のように、「空気」で解決できない問題が増えている。それも加速度的に増えている。
私はリベラルを多く批判してきたが、それでもリベラリズムの思想は多くの日本人に内面化されてきたと思っている。それがリベラルが反動に転じようとして失敗している原因で、また日本人の人格が「統合」されてきている証拠である。だから今まで少なかった多重人格障害者が今後は増え、今までの多重人格的な生き方を考えれば、海外よりも多重人格障害者が増えると思っている。
そして人格の「統合」の過程で、自分の生き方を見つけられない者が増えるだろう。
定言命法は、全ての人が必ず実践しなければならない。しかしそれは不可能である。
不可能だから、人は「自分が定言命法的に生きられない」と感じ、少しでも定言命法的に生きる努力をしなければならないと思うようになる。善人アピールをしようが、反動的に生きようが、定言命法は今後、全ての日本人にのしかかってくる。

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