セカイ系は男女が世界によって引き裂かれていく物語で、その引き裂かれる様をそのまま受け止めるのが本来の姿である。
その引き裂かれた男女が再び結ばれた場合、その世界が崩壊するのはストーリー構成上の必然といっていい。
『最終兵器彼女』は2000年代初期の作品で、この時期の作品は暗示が非常に読み取りにくい。
ちせの胸の傷をを見た時、誰もがこの傷を取り除きたいと思う。しかしそれは違って、傷の方が人間の部分である。
実はここに分岐点がある。シュウジが人間としてのちせを愛するか、兵器としてのちせを愛するかという分岐点である。シュウジの浮気によりカムフラージュされているが、シュウジは兵器としてのちせを最初選べなかった。
この作品は、ちせが何とどう戦っているのかが明確に描かれない。
随分とフェイクをかけている。
作戦のことを語っているのではないのである。少女を兵器に仕立てて楽しんでいた者が、少女を持て余し、声も掛けられない存在になるのを防ぐ方法、それが「女の子と思う」ことであり、それを「一番頭の悪い作戦」だというのである。
なぜ「女の子と思って」は駄目なのか?少女は戦いたくないのではないか?女の子と見られたいのではないか?
それが間違いで、ちせには兵器としての人格がある。その人格が「兵器に仕立てた責任を取れ」と言っているのである。兵器に仕立てておいて、「女の子」と思って見れば喜ばれると思うのは男の身勝手である。
シュウジとちせがそれぞれ浮気をするテツとふゆみの夫婦は、またそれぞれのダミーである。シュウジは人間の女性を求めてふゆみと浮気をし、テツは「女の子と思って」ちせと関係しながら、今際の際にちせの名前を呼ばずに死んでちせを傷つける。
敵の「補給ルートと一緒に退却ルートまで」消したとちせは言う。こうして少女が戦うのを楽しんでいた物語が、それを楽しんでいた男達と戦う少女との戦争へと変容する。
多くの作品で世界を相手に戦う場合、その世界はフェイクで、本質は日本との戦いである。
日本はボロボロになり、人々は社会インフラが崩壊した中で生きる道を探す。
シュウジもまたちせと二人で暮らすために漁業の手伝いをする。
ちせに与えられた薬は、人間としてのちせを保つための薬である。シュウジは生きるために様々な模索をする中で逞しくなるが、選択を誤る。
シュウジの選択は、「ちせが暴走したならばちせを殺す」だった。しかしここで初めてシュウジは兵器としてのちせと向き合った。
そして戻った故郷の街で、シュウジとちせはセックスをする。シュウジが兵器としてのちせを受け入れたのである。しかしその時、ちせは世界を滅ぼす決断をしていた。
シュウジは人類が滅びた世界を後にして、ちせと二人で旅立つ。
この時、世界を滅ぼしたのはちせである。
この「世界を滅ぼす役割」を男が請け負ったのが『天気の子』である。
こうして、「世界の運命を決めるヒロイン」でも「見棄てられたヒロイン」でもない、「天気の子」という第三の類型のヒロインが誕生する。天野陽菜以外の「天気の子」は、『とつくにの少女』のシーヴァとミッシェル・K・デイヴスである。
「天気の子」は「世界の運命を決めるヒロイン」のように高い資質を持つが世界の運命を決めず、むしろ世界の犠牲となる運命を負っている点で「見棄てられたヒロイン」との共通点を持つ。
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