坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

「悟る」ということについて

最近、「悟り」というものがどういうものかというのがようやくわかってきた。
人間には恐怖がある。死の恐怖、破滅の恐怖。そういう様々な恐怖から人間は逃れようとして強い感情とエネルギーを生み出す。そうして障害を排除して安心感を得ようとする。
しかし、人間が繰り返し困難に見舞われ続けると、当然その人は抗い続ける。抗い続けるが、そのような困難の中で、一部の者の心境に、「死ぬ時は死ぬ」ということが納得感を持って心理の奥に定着するようになる。
これが「悟り」である。この「悟り」自体は、決して宗教的なものではない。宗教、特に仏教はこの「悟り」の心境を、現実の困難をより少なくして、なおかつより多くの人がこの境地に達することを主な目的としている。

「悟り」の心境は、梃子の原理に似ている。
多くの人間にとって、大きなエネルギーを生み出すには強い感情、欲望が必要なのだが、「悟った」者の感情は大きくは動かない。
かといって情がないのではなく、情を感じた人のために行動できる。ただその「悟った」者の元の性格次第では、情のない人間に見えることもある。
そして「悟った」者は、「悟って」いない者以上の行動力を示すことができる。「悟った」者の行動を制限するのは生活習慣くらいのもので、ただ行動できるだけでなく、その人の経験と知識が潜在意識の中で結びつき、常人が思いつかないことをすることも多い。
それだけではない。
司馬遼太郎の『竜馬がゆく』に、サトリとキコリの話がある。
キコリがサトリという獣に出会った。キコリはサトリを生け捕ろうと思ったが、「わしを生け捕ろうと思っただろう」とサトリが言い、キコリが斧で打ち殺そうと思うと、「斧で打ち殺そうと思っただろう」と言い当ててくる。そこでキコリは相手にならずに木を伐り続けると、斧の頭が柄から抜け、サトリの頭に当たって死んだ。
「悟った」者は、考えずに動いてどんどんプラスを出していくのである。「悟り」は根本的に知性ではない。
このようなことは、マンガ版ドラゴンボール超の「身勝手の極意」や、『アンゴルモア』の朽井迅三郎も表している。
朽井迅三郎は義経流という兵法を修験道から学んでいるが、『アンゴルモア』からは全体的に禅の雰囲気が漂っている。
子供の頃に、迅三郎は義経流を学ぶために「蜂吹ノ行」という試練を受ける。
行を受ける者が木の切株の上から動かず、スズメバチの巣を叩いて出てきたスズメバチを全て木刀で叩き落とすという荒行である。
迅三郎はこの試練に二度失敗し、「狙った時に限って避けられる」ということに気づく。そして牛若丸に真っ二つに切られる夢を見る。

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そして「丸く斬るために四角く振る」という技術を身につける。単に技術を覚えたり、敢えて標的を狙わないというような表層的なことでなく、死を受け入れる体験があってこそ境地と技術が身に付く。
達磨大師嵩山少林寺禅宗を開いて以来、東洋の武術は禅の深い影響を受け続け、武術の達人の多くが「悟り」の境地に達した。そしてもちろん武術だけでなく、「悟り」の境地は人間の眠っている能力を引き出してくれる。

「いつ死んでもおかしくない」という真実を受け入れた「悟った」者は、自らと死者を区別しない。だから生者と死者の区別もなく、勝者と敗者の区別も、富者と貧者の区別もない。徹底した平等思想である。「悟った」者が差別主義に陥ることはあり得ない。
『アンゴルモア』で、蒙古軍に追い詰められた対馬の住民の中に、子と孫を殺された老婆がいた。その老婆が「蒙古に追い詰められどこぞの路傍に転がるなら場所くらい己で決める」と言ってその場に座り込む。

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この感動の少ない場面が、ヒューマニズムに対するアンチテーゼであることに気づいた人はどれだけいるだろうか?
ヒューマニズムは人に強い感動を与えるが、同時に残酷でもある。この老婆が読者を感動させるためには、子や孫を殺された悲しみを克服して、萎えた足腰で全速力で逃げなければならない。人がどんな状況でも全力で生きるべきとするヒューマニズムの傲慢さを指摘するこの場面に、私は禅を感じる。

また「悟った」者は、当然人命も尊重する。「人の命は地球より重い」という言葉は陳腐だが、「悟った」者にとっては真実である。
「悟った」者は一人と三人の区別がないし、一人と5000人も区別しない。一人と一国の住民の命の重さも問わない。既に危険思想である。
『アンゴルモア』で迅三郎が対馬の住民のために戦うのは、「一所懸命」という己と同じ目的のために戦う者に共感したからだが、対馬が壊滅状態となる最後の戦いの後の迅三郎の行動がすさまじい。

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生存者が見つからないことは、迅三郎にとって戦いを止める理由にならないのである。そして「天地が滅びようとも」というのは、自分が命をかける相手次第では国家転覆さえ辞さない精神に達しているからである。これが生者と死者を区別しないことによる「悟った」者の思考回路で、このような者に国家や社会の重要性を説くのは根本的に無駄である。
また迅三郎にとっては、生存者が見つからないからといって対馬防衛戦を弔い合戦にすり替える必要もない。そして捕虜になった者を除いて生者の見つからない対馬で、迅三郎は蒙古軍相手に阿修羅のように戦う。

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いやこれはいくら何でもやり過ぎでしょwww。
しかし迅三郎の強さは、ヴィンランド・サガ』のトールズの超サイヤ人振りに比べればはるかに理解しやすいのである。

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てゆーかこれは単に体格差の問題なんじゃ…。
しかしトールズの子にしては、トルフィンが小柄過ぎるのに気づいている読者もいるだろう。つまりトールズは「悟った」者だが、大柄であることで読者に強さを理解しやすくして、トルフィンがトールズの強さに達することで、読者が「悟り」とはどんなものかを理解できる仕組みになっているのである。

また、「悟った」者は二種類ある。「身勝手の極意」に「兆」と「極」があるようにである。
この二つの違いは、人間が人間であるだけで愛せるか否かである。

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悟空がこんなろくでなしになった理由が今やっとわかる。悟空は一度奇跡的に「身勝手の極意・極」に達したが、その後「兆」までにしかなれなかった。悟空は人を愛せないのである。
そして「身勝手の極意・兆」が『東京喰種』の「竜」になったカネキであり、『進撃の巨人』の「地鳴らし」のエレンである。彼らの行動を止めるには、彼らに人を愛せるようにしなければならない。

日本は禅宗が発祥した中国よりも禅を文化的に発展させた国で、禅「道」という形に変化させ、家業を通じて師と弟子の関係の中に禅の要素を取り入れてきた。
それは弟子の疑問に師がまともに答えないという形に主に表れ、その要素がパワハラを含むこと、パワハラを正当化するために禅を取り入れてきた面があるのは否めない真実である。だから禅が日本のヒエラルキー構造を支えているのは確かだが、「悟った」者がそのヒエラルキー構造を容認しなければならない理由はない。むしろヒエラルキー構造を破壊するために、「悟った」者は現れなければならない。

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