坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

日本国憲法の裏に潜む暴力革命論

日本国憲法第十二条

この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 

第九十七条

この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

 

まず第十二条の自由及び権利について、「国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない」とある。ならば自由と権利が守られない状況が存在する場合、それは憲法違反になる。
では憲法違反なら、国民から自由と権利を取り上げることができるのか?
答えはNOである。そのことを示すのが第九十七条で、「侵すことのできない永久の権利」とあるから、国民から自由と権利を取り上げることはできない。
しかしここで問題が生じる。第九十七条の末尾は「信託されたものである」とある。では信託したのは誰だろうか?
九十七条の欠点、それは国民に「侵すことのできない永久の権利」を与えた信託者の存在を示唆していることである。この信託者の権能は国民より上であり、上である以上信託者は、国民から権利を取り上げる潜在的な力を持っているというイメージを沸かせてくるのである。
「永久の権利」だから信託者でさえ取り上げるのは不可能ではないかと言われればその通りである。しかしそれは法治国家として機能すればの話である。法治国家として機能していないと判断された場合、信託者が権能を発揮して国民の権利を取り上げないという保証はない。
一体どうしてこんなことになったのか?憲法の英文を見てみよう。

The fundamental human rights by this Constitution guaranteed to the people of Japan are fruits of the age-old struggle of man to be free; they have survived the many exacting tests for durability and are conferred upon this and future generations in trust, to be held for all time inviolate.

 

それぞれの語句が何を意味するかをひとつひとつ検討する気は今はないのだが、「the people of Japan」でこの条文の真意が見えてくる。
基本的人権は日本以外の国の人々が戦って勝ち取ってきたもので、日本人が勝ち取ってきたものではない。少なくとも日本人は、勝ち取るまで戦っていない。
ここに日本語の条文の重要性を感じるべきだろう。
もし英文を第九十七条の真意と判断するなら、世界の他の国の人々が戦って得た権利をただ導入すれば定置させることができるという、極めて浅薄な主張となる。そうなれば暴力的に国民の権利を奪う者が表れた場合、国民はただ非難するばかりで、非難すれば権利が戻ってくると理解しているふりをして、暴力的に国民の権利を奪う者に永久にその権利を差し出してしまう。だから英文で憲法の真意を理解するのは隷属化への道に他ならない。私は右翼の自主憲法論には反対だが、自主憲法論の根拠である八月革命論の否定には賛成であり、その根拠は憲法第九十七条にある。
文脈の理解の仕方によっては、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」がそのまま「永久の権利」の根拠となると理解できるのは確かである。しかしそれならば「侵すことのできない永久の権利として」の後に「日本国民に」と記すことで、その真意を明確にする必要があると考えるべきである。そう記されなかったのは、暴力的に国民の権利を奪うことができる者が存在するのをGHQの英文による憲法草案の翻訳から、国会決議までに関与した誰かが感じていたからである。その暗示を我々は無視するべきではない。
だから第九十七条は日本語で理解しなければならない。国民に「永久の権利」を与えた信託者は潜在的に存在するのであり、信託者は違法、違憲的に国民から権利を取り上げる権能を持っている。だからこそ憲法第十二条による「不断の努力」が必要なのであり、その努力を怠れば暴力革命にその正統性を与えることになる。

しかしまた、第九十七条の真意が暴力革命論にダイレクトに繋がり過ぎるという不安を感じる者もいるだろうし、私もまたその一人である。
だからもし憲法裁判所が設立されれば、憲法裁判所を信託者に仮託するのは一応可能である。もっともそうなると憲法解釈が二重になり、また第九十七条の真意が歪められるという難点があるが、私自身憲法裁判所の設立には賛成であるし、立憲主義の強化が暴力革命の可能性を遠ざけるのもまた確かである。ただし憲法裁判所を設立するためには、憲法第九条の改正が必要である。
安倍政権の九条改正案は、九条第三項に自衛隊の存在を明記するというものだった。それは九条第二項と矛盾するが、憲法の条文間の矛盾はそのまま違憲であることを意味しない。憲法裁判所に付与される権能の内容次第でもあるが、普通に考えれば憲法裁判所は憲法間に矛盾ありとしながらも、自衛隊は合憲だと判断するはずである。しかし憲法改正をしなければ、憲法裁判所は自衛隊違憲だと判断するだけである。
憲法第九条を改正し、憲法裁判所を設立することで違憲、違法性を排除し、立憲主義法治主義を実現するのは暴力革命を予防する重要な方式であるのは確かである。
しかし憲法改正憲法裁判所の設立が行われなかったり、憲法裁判所を設立してなお国民の権利が恣意的に適用されない事態が続いたりすれば、憲法第十二条及び第九十七条はそのまま暴力革命論の根拠となる。

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