オリンピックも聖火リレー始まる前だったら中止にできたのに。
無観客でやるしかないオリンピックの景気に与える影響など期待できない。
そもそもモンゴロイドはコロナに強い。
だから楽観論で冬もコロナを押しきってしまえば良かったのである。ただでさえコロナ禍では夏も日本人は萎縮しがちなのだから。
イベルメクチンについては去年の4月から情報は出ていた。実験段階の時点で48時間でコロナウイルスを99%以上死滅させ、治験で重症化率も致死率も1/3~1/4に下げるイベルメクチンはワクチン要らずの特効薬である。変異株はワクチンが効かないのが明らかな以上、イベルメクチンでコロナを抑えて経済を回す以外にない。
君達は10年前、20年前にどんな未来を描いていた?
20年前の新書ブームの時は、日本人全ての知的レベルがこれからも向上していくという期待があった。
2010年代のリベラル全盛の時代は、日本全体がリベラルな社会になり、その世界で穏やかに暮らしていけると思っていた。
今はどうだ?
リベラルは停滞し、教養書のブームは起こらない。
ファンタジー作品は一見好調に見えるが、流行っているのは『呪術廻戦』くらいである。私はファンタジー作品はこの後停滞すると思っている。
なぜそうなったのか?
日本人は9.11テロの後、「一神教より多神教」という内容の本が特に新書を中心にブームとなった。それに便乗してニーチェブームも起こった。
しかしその後反転するようにキリスト教ブーム、ドストエフスキーブーム、仏教ブームが起こった。
反一神教から一神教的なベクトルへの転向は、「一神教より多神教」という掛け声から得た自信と、「本当は一神教の方が正しいのかもしれない」という自問が人々にあったからだろう。その分日本人は道徳に目覚めかけていたのである。
しかしそこから日本人はリベラル全盛と右翼の台頭、そして私が日本型ファンタジーと名付ける、サブカル作品群の登場という3つのベクトルに分かれた。
日本型ファンタジーは、サブカル作品による暗示に留まりながらも、本格的に日本社会を批判し、日本人の精神と社会の変革を求める一大ムーブメントである。
それに対し、右翼の台頭は冷戦崩壊以降の改憲論の系譜を一応引きながらも、むしろ自主憲法、靖国問題に代表されるように、不正の隠蔽と忘却を図ろうとする精神運動である。自主憲法は現憲法が国際法上違憲とすることで戦後75年の護憲の歴史を無かったことにしようという試みであり、靖国問題はA級戦犯を祀ることで、「過去も現在も誰も誤りはなかった」として全ての日本人を無謬として不正や失敗をなかったことにしようとするものである。
私も極東軍事裁判が戦犯の根拠である必要はないと思っているが、右翼が太平洋戦争を「勝てたはず」と無根拠に言ったり、靖国に変わる戦没者慰霊施設の建設に反対するのは、それが戦犯を裁く動きに発展し、A級戦犯を無謬にする靖国の価値を低下させることになるからである。
リベラル全盛は、冷戦崩壊以降の衰退する護憲の隠れ蓑としての面と、護憲が持つ自己正当化という
2つの側面があった。リベラル全盛が日本人に与えた影響は大きいが、それによる成果は日本の女性の地位が先進国で最適ランクであることが示すように小さい。その理由のひとつは、リベラルが本当はその精神において保守的で、リベラルは自らの地位を守るために利用するものに過ぎなかった点が大きい。
児童虐待に遇う子供を保護したりいじめをなくす運動をしたり、または女性の性的被害を訴えたりする、その行為は非常に美しい。
しかし彼らが死ぬ時に自分の人生に満足し、人間らしく生きたと思って死ねるということはほとんどない。
なぜならこの国には訴える声も届かず、被害や苦しみを訴えるべきだということさえ気づかずに苦しみ続けている人がたくさんいるのに、その人達に救いの手を伸ばさずに見捨て続け、むしろ見捨て続ける代償行為として、人はそれぞれの運動に邁進しているからである。
今見捨てられている人を救えば、その人は人間らしく生きたと思えるが、児童虐待やパワハラから何人人を救っても人間らしく生きたと思える日はこない。なぜなら全ての問題は根幹で繋がっているが、今見捨てられ続けている人の方が根幹に近い、または根幹そのものだからである。つまりセクハラもパワハラも児童虐待も、見捨てられ続ける人の問題を隠蔽する精神から派生している問題なのであり、見捨てられ続ける人を放置すれば今救いの手が届いている問題は再生産され続ける。
全ての人に救いの手が届いて、はじめて日本人全体が人間らしく生きていると思えるようになる。それまでは誰を救うべきかを選んではいけない。少なくとも人間らしく生きたと思いたいならば。
誰を救うべきかを、法的でなく道徳的な意味で選べるようになるのは、個人でなく社会が全ての人に救いの手を差しのべるようになってからである。その時まで、代償行為に手を染めても悩みは消えることはないのである。
新書ブームの頃に、見捨てられている人を救う問題は既に投げ掛けられているのである。投げ掛けられた問いに背を向け続けた結果、日本にないリベラルアーツの代用をしていた、新書などの教養が失われた。
人は自らの意見を正当化するために、または理系的な、実践的な能力を磨くために学び、社会を総体的に見る力を失い始めた。
総体的に見る力など元々なかったのかもしれない。しかしこれまではどこに嘘があるかを見抜く力があれば、教養から総体的に社会を見る能力を身につけることは可能だった。
困っていて、見捨てられようとしている人を助けよう - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」
で厳島の戦いについての異論が毛利元就の項目から消えていることを述べたが、これも人の知的水準を下げようという動きである。サブカル作品も最盛期を過ぎて、これから衰退していくだろう。日本人は暗示でも真理を受け止めるだけの力を失いつつある。この衰退傾向にいつ歯止めがかかって反転するのかは私にもわからない。
だからこそ、文化を再興するための運動をしなければならない。
文化再興のための運動といっても、やることに大きな変わりがある訳ではない。ただ深いテーマが受け入れられないからといって水準を下げるのではなく、水準を下げない努力をより行うということである。サブカルの作家達は暗示に長けているため、水準を維持するのはそれほど難しいことではなく、むしろ作家の務めとさえいえる。
しかしそれでも水準を下げなければ作品が受け入れられないことも起こりうる。それを作家達がそれぞれの責任でそのリスクを受け入れるのである。
現状、見捨てられている人の問題は大きくなりすぎて、全ての人に救済の手が差しのべられた時、現状それなりのステータスを持った人が何らかの損をする可能性が高い。
しかし全ての人に救いの手が差しのべられた時、はたしてどれだけの人が救われるか?そして現状救われている人だけを救い続けて、どれだけの人が苦しむことになるか?
既に人の命の価値に差が出ているのである。救われていない人の命の価値は高く、救われている人の命の価値は低い。今少なくとも物質的に満足のいく暮らしを続けている人は、救われていない人を救わない限り命の価値を高められないのである。
まん延防止重点等特別措置の適用が大阪などでなされ、少なくともオリンピックまでは自粛ムードで、景気の回復は見込めそうにない。
そしてオリンピックを過ぎても、政府は財政支出をすぐには減らせない。しかしオリンピックを過ぎて財政支出を更に増やす、または企業を中心とした財政支出政策を採り続けるなら要注意である。それは低所得者を現状に止めさせ、終身雇用を維持することを目的とするものである。9月に自民党総裁選、10月に衆院選があり、イベルメクチンを認可しない菅首相が苦し紛れに中間層を取り込む政策を採用すれば当面は方向が決まってしまう。
そして赤字が膨らんで財政再建にさらに時間がかかるようになる。コロナ禍では財政支出は仕方ないが、支出拡大に満足させてしまっては財政再建、競争力強化のための改革が遅れてしまう。コロナ禍では去年の定額給付金や、GO TOのように特に打撃を受けている旅行、飲食店を保護する政策がより望ましく、その他の産業への支援は必要最低限に止めるべきである。菅政権が終身雇用の維持につながるような政策に踏み切る可能性には警戒しなければならない。
古代史、神話中心のブログ「人の言うことを聞くべからず」+もよろしくお願いします。