坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

戦争と平和を考えるマンガ④〜『キングダム』1.戦争は理不尽なもの

『キングダム』のことをかつて非リアリズム的手法と

『春の呪い』の「近親婚的なもの」と「罪の時代」の終わり - 坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

で述べたが、この作品自体、最初から単なる歴史ものとは違うイメージを、特に最初から前面に打ち出している。

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こんな絵を載せたりwww、南蛮の吹き矢の部族出身の刺客との戦いを描いたり、辺境の部族だから文明度が低いと思ったら断崖絶壁に豪華な建物があったり、人語を解さない人とも猿とも知れぬ者と戦ったりと、ストーリーの序盤は荒唐無稽、アドベンチャーな感じをプンプンさせている。
歴史もので戦争を中心に描く場合、『三国志』などのように人物を中心に戦争を描き、アドベンチャーは不要である。李信という人物は関羽張飛と比べても明らかに有名ではないが、本当に下僕だったからこういうストーリーなのではなく、このストーリーで伝えたいことがあるからである。

例えば穆公の話。
昔秦の穆公は、穆公の軍馬を山の民が食った事件があった時、山の民に馬肉に合う酒を振る舞った。それをきっかけに秦と山の民は盟を結んだ。しかし秦王贏政は秦人と山の民を分けるから争いが起こり、穆公のような王を輩出しても一時の安定をもたらすにすぎないと指摘し、全国境の排除を主張する。
また、人語を解さない化物ランカイに剣が通じないことで、壁から「剣を信じろ」と言われ、斬るのではなく突くことでランカイを倒す。これは「戦争を信じろ」ということで、平和主義へのアンチテーゼである。

従来の歴史ものならば、知略を用いいかにして犠牲を少なくして勝ったかが協調されるが、キングダムにおいては知略が否定されるような場面が頻出する。本能型と知略型という分類もまた単純な知性を否定する分類である。その最たるものが麃公と呉慶の戦いである。
麃公は本能型の極致と言われるほどの将軍で、戦には強いが無駄に犠牲を出すことも多い。その麃公が魏の呉慶の知略を打ち破っていく。

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と王騎は言うが、「戦は武将のもの」とも言う。
それに反発した壁が「自分達も戦っている」と独断で行動する。しかし王騎は「誰を犠牲にするかは麃公が決めている」と壁の誤りを指摘する。
壁は挟撃されそうな麃公軍を救出するため、100人の兵で魏の左軍と麃公軍で挟み撃ちにする。「麃公軍は王騎軍より強い」という王騎の言葉を信じた壁独断で動いたが、大局を決めているのは武将である。壁の行動も、麃公の存在あってこそ光る。命令に忠実だろうと時に独断で動こうと!将が名将である限り部下は将に信を置かなければならない。
追い詰められた呉慶は、撤退することなく麃公に一騎打ちを挑む。個人の武力では呉慶は麃公に敵わないが、麃公は呉慶を知るために敢えて一太刀受ける。

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呉慶は魏の東にあった甲という国の王族で、甲は趙に滅ぼされた。呉慶は家族を失い、名を変え顔に墨を入れ別人となり、魏に赴いて信陵君の加護により名を取り戻した。
魏を第二の祖国とした信陵君だが、国を滅ぼされた記憶が侵略者への怒りとなり、撤退すべき局面と理解しながらもそれをせずに麃公に一騎打ちを挑んだ。
麃公はそれを一笑に付し、「将ならば敵軍にどうやって勝つか、それ以外に心囚われることはない」と言う。

「燃ゆる城を見て悟ったことがある。この世にはおよそ人の考えうる正義が全く通じぬ強大な力があるということだ。今我にとってのそれは麃公。当たらば必ずこちらの身が滅ぶ」
呉慶は知略と理性を同一と見做したい人物である。『キングダム』が「寡兵をもって大敵に勝つ」ことなく、多くの犠牲を払って勝利する場面を多く描くのは、「寡兵をもって大敵に勝つ」の考えが安易に理性と結びつくのを防ぐためである。一方本能型の麃公は理不尽を表現する存在である。結果のみが求められる時、知略も理不尽もそれ自体には優劣のない同等の力である。
信は王騎に戦いを教わるが、王騎は秦の六大将軍の最後の生き残りである。王騎が死に、王翦と桓騎が時を置いて大将軍になるが、この二人もまた理不尽を表現し、野盗出身で略奪や戦争以外での殺人はお手のものの桓騎にそれが強く現れているが、王翦は桓騎の裏の顔と言ってよく、理知的に見えて内面は理不尽である。
王騎を殺したのは龐煖だが、龐煖は無制限な成長を否定するために作られたキャラである。どんなに体を鍛え、どんなに武技を磨いても傷つく時は傷つき、負ける時は負ける。誰と戦っても勝てるようにはならない。少なくとも体を鍛えるだけでは。
どんな状況でも勝てるようになるにはマンガ『ドラゴンボール趙』の「身勝手の極意」のような悟りの心境が必要で、龐煖の求めていたものに答えるとするならばそういうものになるだろう。

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