坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

信長の戦い⑥〜信長は政治的な人間。

永禄12年、信長は「殿中掟」を足利義昭に提出したが、その中に「将軍は奉行衆に意見を尋ねたなら、その意見に対して可否の命令をしない事」というのがある。
従来、将軍は奉行衆の意見に口入しないのが不文律になっていた。
不文律というより将軍の心得というものだろう。つまりはおおらかさという美徳である。
それを信長は条文とした。心得としての不文律なら美徳になるが、条文とした場合どうなるか?将軍への侮蔑である。

上洛してから浅井·朝倉を滅ぼして義昭を追放するまでの信長の人生は非常にドラマチックである。しかしこの時期の信長は既に書きつくされており、私には書くことができない。
しかしその後から、信長の本質がより一層見えてくる。技術革新のリーダーとしての信長が否定されると、信長が非常に政治的な人物だというのが、この時期の信長を見るとわかってくる。

朝倉を滅ぼして越前を手に入れた信長だが、すぐに一向宗に国を奪われ、越前は「百姓の持ちたる国」になってしまう。信玄が死んでからこの時点までで、信長が手に入れたのは浅井領の北近江だけである。この時期の信長は、まだ一進一退の感が強い。
そして再び信長の軍勢が越前を席巻すると、4万人を虐殺するという苛烈な措置を取る。そして越前は柴田勝家触頭とし、前田利家佐々成政を与力としてそれぞれに領地を分け与える。また加賀の一部も切り取り、簗田広正に与える。
谷口克広氏は、信長は当初勝家より簗田広正を評価し、北陸方面の司令官は簗田に任せるつもりだったと分析する。しかし簗田は元々の身代が小さく、信長の期待する働きができなかったため領地を取り上げられ、勝家が北陸方面司令官となる。

武田信玄が死んでも急激な勢力の膨張が見られない信長の転機は、上杉謙信の死によって訪れる。
謙信が死ぬと、信長は越中に齋藤利治を派遣する。1578年、齋藤利治は月岡野の戦いで勝利し、越中の半分を手に入れる。しかし越中の半分は齋藤利治には与えられず、佐々成政に与えられる。

90年代の信長ブームでは、信長は中央集権的な国家を作ろうとしたと述べるが、信長の動きを見る限りそれはありえない。
明智光秀羽柴秀吉柴田勝家滝川一益という「四天王」を方面軍司令官とした信長は、この四人が征服した領地は全てこの四人かその与力に与えている。四人の司令官の征服活動によって、織田家の直轄領が増えることはなかった。
このように言うと疑問が生じる。なぜ齋藤利治には越中半国が与えられなかったのか?
齋藤利治は齋藤道三の末子である。信長は道三の女壻として、道三から美濃一国の譲り状を受けた。
しかしこの時期信長が家督を譲った信忠は、道三の娘の子ではない。この時期信忠は、実質尾張美濃の領主だが、美濃の主権者は信忠ではなく、潜在的には齋藤が持っているとも考えられる。
齋藤利治はおそらく、四天王と同じ将としての力量を持っていたと思う。しかし美濃に対する潜在的な主権者だったために、齋藤は優遇されなかった。それでもこの時期は齋藤の力が必要だったため、齋藤は越中に投入された。

この時期信長は信忠に家督を譲り、大納言、右近衛大将へと官位を昇進させるが、信忠も秋田城介になる。
四天王は明智光秀が日向守、羽柴秀吉筑前守、柴田勝家が修理亮、滝川一益が左近将監と、五位の官位である。家督を譲られた信忠は秋田城介で四天王より一段官位が低い。
主君であっても、官位が上の者に対しては命令できないのである。四天王に命令できるのは隠居の信長だけである。
織田家は信長が存在する間は家としての形を保っているが、家臣が主君の官位を超えた場合、主従関係は自然解消される。秀吉も家康も、そうして旧主との関係を解消した。
こうして、四天王は信長に与えられた権限の範囲で自由に征服運動を続けていく。

この時期から、戦での信長の立ち位置が変わる。
荒木村重の謀反がこの時期に起こるが、信長は出陣はしたものの、鷹狩ばかりをしている。
この前までは、戦場では信長は基本後陣であっても本陣を置き、その身は常に戦場にあった。しかしこの時期から、信長は戦場に出なくなる。この後信長が戦場に出るのは伊賀征伐と甲州征伐だが、どちらも「国見」で、新たに征服地となった国の視察をしただけである。やはり信長は自分で戦争をしていない。
このままでは、天下布武は四天王を中心に行うことになる。信長は自分が軍勢を指揮して天下を統一するよりも、家臣に征服運動をさせた方がいいと判断していた。
しかしこのままでは、織田家の直轄領は増えない。このままいけば、信長が天下を統一しても、直轄領は豊臣政権と変わらないくらいになっていただろう。
もっとも、この点は信長も考えている。武田を滅ぼした後、信忠に「天下を与える」と言っている。
秋山駿は著書『信長』で「まだ時期が早いだろう」と言っているが、信長の人生を精神的な面から捉えた誤解であって、本質はもっとドライな話である。つまり四天王が領地を取りすぎないように、信忠が手綱を締めるということである。この時期信忠は左近衛中将で、四天王に命令できる地位を得ている。

それでも信長が、家臣に多くの領地を得させようとしたことは間違いない。
日本の歴史では。大きな勢力に地方の勢力が臣従することで政権が誕生するのがスタンダードで、室町幕府がそのいい例である。
信長の政権は地方勢力を潰していくのが基本的なスタイルだが、地方の勢力を潰してその分家臣に大きく土地を与えれば、バワーバランスとしては同じである。つまり信長は、少なくとも一直線に中央集権を目指した訳ではない。ここが重要である。

信長は大納言、右近衛大将になって源頼朝の前例に倣ったが、将軍にはならなかった。将軍職は足利義昭がまだ保持している。信長は義昭を追放しながら、義昭から将軍職を奪わなかった。
そして官位を昇進させ、右大臣まで登る。また平氏を称し、源平交代思想によって天下を治める正統性を持とうとしたというのが通説である。
しかし私は思う。信長は「座りの悪い政権」を目指したのではないかと。
どういうことか説明しよう。日本の歴史において、人臣にして天下を治める正統性を得られる官職は摂関、太政大臣征夷大将軍の三職しかない。
摂政は天皇代理、関白は天皇補佐、太政大臣太政官の最高職、征夷大将軍は全国に守護、地頭をおく権利を持っている。この三職が天下を治めるのに「座りがいい」職である。
「座りがいい」というのは、本来天下を治めるといってもひとつの「イエ』が他の「イエ』を臣従させるのが基本的なスタイルである。しかし信長のように地方勢力を丹念に潰していかなければ、大抵は地方勢力が進んで臣従を誓い、天下の主がそれを受ける形で全国支配が進むのが通例である。
しかし地方勢力にも面子があり、「あの方は天下を治めるほどの地位にあるから俺が臣従するんだ』という言い分を与えなければ容易に臣従してくれない。逆にその言い分を与えれば、ほとんど戦争もなく全国支配が進む。単に官位が高いだけでは地方勢力は臣従してくれないのである。
信長が就任した右大臣は太政大臣左大臣の下である。そして実は太政大臣天皇の師父、つまり教育係という名誉職であり、実質的な太政官の最高位は左大臣である。つまり信長は地方勢力を単純に取り込まないために、あえて右大臣という天下を支配するためには「座りの悪い」官職を選んだのではないかと思う。
また信長が平氏を称したのも、源平交代思想によるものというが、これが根本から疑問である。
源平交代思想は一部でしか信じられていない。ただ歴史的にそれまで源平で政権が交代していたという事実があるだけである。
「源氏でなければ将軍になれない」というのはあった。『太平記』にもこのことが書かれているが、歴史的事実ではない。「源氏が将軍であるべき」というひとつの思想といっていい。
なぜこのような思想があるかというと、源氏に人気があり、平氏は不人気だからである。その理由は源氏が土地を多く武士に与えて、平氏が与えなかったからである。
平氏政権は全国の30ヶ国を知行国とした。その分分け前に預かった家臣は少なかった。
北条氏は本当は平氏ではないらしいが、平氏を称していた。平氏も執権、連署六波羅探題といった要職を一族で独占した。そして頼朝の子孫を断絶させ藤原将軍、皇族将軍を擁して政権を握り続けた。
そして元寇の後、全国の40ヶ国の守護を北条一門が占めるようになった。このように一門で土地を多く占めて、家臣への分け前を減らすから平氏の政権は不人気なのである。
源氏で土地を多く与えたので有名なのが室町幕府で、そのため諸大名への統制が弱く、歴代の将軍の二人が暗殺されるなど、常に政局は混乱していた。
つまり信長は平氏を称することにより、一見分権的な政権を作ろうとしながら、最終的には中央集権を目指していたと思われる。

信長が楽市楽座を行ったのは美濃加納など一部、それも基本都市である。信長が座を安堵した書状もある。信長の楽市楽座が不徹底だという研究者の批判の多くは、信長以前の戦国大名と比較しての指摘である。
信長までの楽市楽座とは、座の例外地のことである。つまり全国に座が存在するのが通常の状態で、戦国大名が「ここだけ例外にしてください」として一部で実施するのが楽市楽座である。また戦国大名は、基本座を通じて商業の税収を得ていた。そのため楽市楽座では無税である。しかし物価は安い。
信長は関所を廃止したが、畿内では関所は原則廃止されていない。その理由は、畿内では公家や神社の力が強いからである。
全国的な楽市楽座、関所の廃止は秀吉によってなされた。秀吉にそれができたのは、秀吉が関白だったからである。公家の最高職に就くことで、公家も武士も全て臣下にしたからである。
右大臣の信長では公家の全てを臣従させることはできない。それが信長が全国的な楽市楽座を実施しなかった理由である。
「座りの悪い政権」を選んだ必然の結果とも言える。ならば信長は、全国的な市場を作るという点では更新的だったのだろうか?

信長にとって、北陸はパイオニアである。
天正九年、信長の側近菅屋長頼能登七尾城代となり、能登の旧主畠山氏の家臣だった遊佐続光、温井景隆、三宅長盛を不穏分子として粛清した。また越中でも寺崎森永、石黒成綱が粛清された。
また武田征伐の後も、信長は北陸に「信長が死んだ」と噂を流し、謀反気を起こした者を粛清している。
柴田勝家を北陸方面の司令官にしたくなかったのは、こういう陰湿に地生えの領主達を殺していくところが勝家になかったからかもしれない。
一方、丹波、丹後の攻略を命じられた明智光秀は、「天下第一の功労」と信長に激賞されている。
光秀は丹波、丹後の2国だが、秀吉は但馬、播磨、備前、美作、因幡伯耆の6国を担当している。
明らかに光秀より担当区域が広いのに、秀吉は光秀ほどに賞されていない。秀吉が宇喜多氏のような大勢力を引き入れたことも、信長の秀吉への評価を差し引くことになっているのだろう。
光秀は筒井順慶を与力とし、大和国も管轄として「近畿管領」と呼ばれたりした。
大和国といえば、光秀の前は松永久秀の領国だった。
久秀は3度信長を裏切り、三度目の謀反の時も平蜘蛛の茶碗を献上すれば許すと言われたにもかかわらず、居城の信貴山城に爆薬を仕掛け、平蜘蛛の茶碗もろとも久秀は爆死した。
大和国は寺社の力が強く、鎌倉、室町を通じて幕府が守護を置けなかった国である。
信長が久秀を重用したのは、この強力な大和国の寺社勢力の力を削ぐためである。寺社勢力を潰せば、寺社勢力が管轄する多くの座を潰すことができる。しかし久秀は何度も信長に謀反起こし、最後に爆死した。「割に合わない」と思っていたのかもしれない。
このように考えると、光秀が本能寺の変を起こした理由も久秀と同じだったのではないかと思えてくる。

このように信長の後半生を見ていくと、実に政治的に改革を進めていく信長像が見えてくる。
単に地方勢力を潰すだけでなく、国人、地侍という在地の勢力もできる限り根こそぎにすることで、その土地のしがらみを排除していこうとしている。
そうやってできる政権は中央集権的ではないないが、「中央集権を志向する政権」にはできるのである。単に広い領地を治めるのではなく、その土地での支配力をできる限り強めようと手段を選ばずに在地の勢力の排除を行う者が、信長には多数必要だった。
こういう者は信長、織田家にとって危険な存在だが、同時に彼らも信長を必要とする。自らの行為を正当化するために信長の権威を必要とし、それが織田政権の中央集権志向を後押しする。
もっとも彼らはその偏頗な性格に自ら疲れ、その矛先を信長に向けた。しかしもし信長が生きながらえることができたなら、日本の歴史に中国の前漢やフランスのカペー朝のような奇跡を起こすことができたかもしれない。

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