坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

日本の歴史を変えた、マウンティングによる「政権」システム

日本の歴史には「政権」というものがある。
まず、「政権」が普通の政権、つまり安倍政権とか岸田政権などではなく、平氏政権や織田政権や豊臣政権などと何が違うのか説明しよう。
ここで名前をあげた政権は、「政権」でありまた「政権」ではない。つまりこれらの政権はある時から「政権」に変わっており、また見方によっては最初から「政権」だったものもある。
このように言ってもわからないと思うので、順を追って説明しよう。
まず、古代に日本は中国から律令制度を導入して公地公民となった。全国の土地と人民は天皇のものであり、原則私有地はなく、農民は国家から口分田という土地を与えられ、口分田を与えられた農民は、死ぬと口分田は国に返さなければならなかった。社会主義的な体制と考えればいい。
この公地公民制が墾田永年私財法の制定により、荘園が発達し、国衙領と呼ばれた公営の農地は天災や人民の逃散により荒れ地となっていった。律令体制が根幹から崩れていったのである。
それでも藤原摂関政治までは、太政官が決定し天皇が決済するという体制は守られていた。しかし後三条天皇が延久の荘園整理令により没収した荘園を自らの荘園とし、白河天皇が譲位して院政を開始することで、日本は権門勢家の時代に入る。
権門勢家とは、天皇家藤原氏延暦寺などの寺社勢力のことを指す。また鎌倉幕府室町幕府なども権門であり、その最大のものである。この権門勢家の時代がいつまで続いたのか、学者の意見は知らないか、私は江戸時代までを権門勢家の時代と見ている。
幕府のような、当時の日本で最大の権門が政権だが、「政権」とはその一段階上のもので、諸権門を傘下に収めた一元的な支配をする権門を私は「政権」と呼んでいる。
政権が「政権」に変わるには、3つの条件がある。ひとつ目は隠居、二つ目は官職辞任、三つ目は出家である。しかし時代が下るにつれて、この三つの条件が揃わなくなっていく。
「政権」の創始者藤原道長である。一家三立后で有名な藤原道長だが、道長が出家したことはあまり知られていない。
出家したということは、隠居し官職も辞任したということである。しかし日本の歴史では、不思議なことに権力闘争が出家すると、その権力が強まって油光りするような印象さえ受けてしまうのである。
その理由は出家が隠遁であることにある。普通貴族や大名は家臣を持ち、家の外とも様々なしがらみがある。しかし隠居、官職辞任、出家をすると、そのしがらみから解放される。
例えば「先右大臣」などというと、右大臣より権威があるように感じてしまうが、実は右大臣を辞めても権威が残っていると感じるのと、官職を辞めてしがらみから自由になったという2つの意味があるのである。
出家というのはしがらみがなくなったことの強調であり、道長に始まり白河法皇などの院政平清盛、最明寺入道北条時頼足利義満と、出家した最高権力者が日本の歴史に次々と登場してくるのである。
ではしがらみから解放されて何をするのかというと、他の権門に対しマウンティングをするのである。
例えば白河法皇は藤原璋子という女性に手をつけて妊娠させ、璋子を孫の鳥羽天皇中宮にする。これは白河法皇鳥羽天皇にマウンティングをしているのである。また足利義満は他人の妻妾を自分の側室にし、後円融上皇後宮に入りこんで上皇の妻妾に手をつけた。
このようにマウンティングをすると、法的、といっても律令が形骸化しているのだが、それでも慣習法的には違法な行為も可能になる。平清盛後白河法皇を幽閉したし、足利義満は自分の息子を天皇にして自分は法皇になろうとした。清盛も義満も太政大臣になった。最大の権門から太政大臣が出た時、天皇家は危難に見舞われる。
マウンティングは、実際の政治にも反映される。
白河法皇が作った肥後国山鹿荘という荘園は、200町の面積があったが、この荘園は無人の地に設立されたのではなく、公領や他の荘園が含まれていた。つまり白河法皇は他人の土地を横領したのである。古今東西、他人の財産を没収するにも、何らかの理由があるものだが、理由なく土地を横領した例というのは私は他に知らない。理由の不在が、『政権』による統治が横暴であり、マウンティングである証左なのである。
以上見たように、源頼朝鎌倉幕府は政権ではあっても「政権」ではない。しかし北条時頼以降は「政権」である。

「政権」ができると、「政権」を打ち立てた人物が死んでも、「政権」による一元支配は続く。
例えば鎌倉幕府が徳政令を施行できたのは、北条時頼が「政権」を作ったからである。そもそも両替商(貸金業)は公家や寺社の領域である。徳政令北条貞時の時に初めて出されたが、時頼が死んでも、「政権」の力は維持されていたのである。
室町幕府も徳政令を出したが、足利義満以降のことであり、義満の死後、そして六代将軍足利義教の死後、守護大名の力は強まったが、朝廷に対しては「政権」の力は維持されたのである。
織田信長以降は、出家まではしなくなる。信長は隠居と安土城建設から「政権」が始まり、むしろ「政権」を作ってから官位を昇進させていく。参議になる前の信長は、ネットでは確認できないのだが尾張守でしかなかったのではないだろうか?
https://sakamotoakirax.hatenablog.com/entry/2021/08/09/191526?_ga=2.264893775.1739893514.1643458955-131981009.1625566099
で述べた、信長が戦場に行かなくなる理由は、自らが安土に鎮座し続けることで、諸方で戦いがあっても「政権」が安定していることを天下に示すためである。安土城建設以前のように信長自身が戦場を転々としていては、「政権」としては軽く見られるのである。しかし信長は右大臣まで登ってから官職を辞任している。
「政権」を作った信長は、荒木村重の謀反では高山右近に味方しなければキリシタンを弾圧するなどと言っている。また各地で差出(土地収入の申告、検地の前段階)を行い、大和国で国割(主要でない城郭の破却)を行っている。そして「政権」を作ってから、信長への謀反が多くなる。
秀吉がもっとも変則的で、官職辞任どころか隠居さえしていない。後継者がいないので当然だが、突然信長の後を引き継いだ秀吉は、左近衛小将という低い官位で「政権」を作る。
「政権」を最初に作った頃の秀吉は、京を大坂に移転させようとする。しかし小牧・長久手の戦いで家康に勝てなかったことから方針を転換し、関白になる。
秀吉が近衛前久の猶子となることで関白になったのは有名だが、注意すべきは、養子ならともかく「猶、子の如し」という猶子では、家の相続権はないことである。秀吉は藤原どころか近衛すら名乗れない。そもそも養子でさえ、血族であることの証明である氏は名乗れない。源頼朝の母は熱田大宮司の娘だが、熱田大宮司は本来尾張氏だったのに、頼朝の母は藤原氏である。家は養子で継げても氏を継ぐことはできない。秀吉が藤原氏になったという説もあるが、秀吉が藤原を名乗った証拠を私は知らない。もし名乗ったならそれは詐称である。
血族によらず養子が家を継げる日本のイエ制度は、このようにして崩れたのだろう。これも「政権」の持つ横暴さによる変化である。関白になることである秀吉は全国的な楽市楽座太閤検地を実施する。
また関白になった頃から、秀吉は京に聚楽第を建設する。信長も「政権」を作った頃、京に二条御所を建設したが、信長はそれをまもなく誠仁親王に譲っている。官位を昇進させるには京に屋敷を作り、天皇に奉仕する必要がある。
しかし官職を辞任すると、天皇に奉仕する必要がなくなるので手放す。秀吉が聚楽第を破却したのは、別に甥の秀次が憎いからではなく、天皇に奉仕する必要がないからである。聚楽第を破却した時、秀吉は関白職を辞して太閤と呼ばれていた。そして隠居城の伏見城を作りそこに住む。
信長と秀吉が京に邸宅を持たないのは、京に天守閣のある城を作れないからである。五重塔なら作れるが、天守閣などを立てては天皇の御所を見下ろすことになってしまう。徳川将軍の上洛時の居所である二条城も天守閣はない。秀吉が大坂に京を移転させようとしたのは、天皇を見下ろすためである。なお秀吉は太政大臣にもなったが、朝鮮出兵後陽成天皇を北京に移動させると放言している。しかし朝鮮出兵が失敗に終わるのが明白になった晩年になると、秀吉は京都新城と呼ばれる屋敷を京に建設した。
徳川家康は右大臣まで上り詰め、禁中並公家諸法度を朝廷が押し付けた。二代目の秀忠は太政大臣にまで登り紫衣事件をお越して朝廷を圧迫した。
しかし江戸時代を通じて朱子学が盛んになり、それが天皇を尊ぶ傾向となっていった。天明の大飢饉の時、光格天皇は幕府に対し、飢えた人々を救済するように要請した。幕府はそれに答えて飢民救済を行ったため、幕府が朝廷の下風に立つ形になってしまった。この件への異種返しが尊号一件である。
光格天皇の父典仁親王は、皇位についたことがなかった。このままだと子が父を超えることになり、儒教的な問題が発生する。そこで典仁親王上皇の尊号を送ることを幕府に通達すると、「前列がない」ということで拒絶された。
実は子が天皇になることで上皇の尊号を送られた例は、鎌倉と室町の時代に一件ずつ例があるのである。幕府は「戦乱の時の例」と言ったがこじつけにすぎない。
しかし一度は朝廷、下風に立った、つまり「政権」でなくなった幕府が、なぜ尊号一件で横槍を入れることができたのだろうか?
実はこの時、「政権」を作ることができる人物が幕府にいたのである。11代将軍家斉の実父の一橋治済である。
一橋治済はこの時まで官職についたことがない。将軍になったことはないが、将軍の実父という変則的な「政権」の作り方である。治済は前将軍の家治の世子の家基を毒殺したという説があり、私もその説に賛成である。治済は諸大名に自分の子孫の多くを養子に送り、その中には阿波蜂須賀家にも養子を送った。またこの時の将軍家は吉宗の紀州家の系譜だが、将軍継承のライバル尾張徳川家にも養子を送っている。凄まじい権勢である。
この時は朝廷が負けたが、光格天皇は古代の祭祀を次々と復活させ、天皇の権威を高めようとした。
幕府はまた朝廷を叩いてやろうと、将軍家斉を太政大臣にして備えていた。
しかし、光格天皇より家斉の方が先に死んでしまったのである。
平安の頃から、天皇天皇と呼ばれず「院」と呼ばれていた。しかし光格天皇崩御後平安以前に戻って「天皇」と称されるようになった。こうして天皇の権威はより高まり、幕末の尊皇攘夷運動につながっていくのである。

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