坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

信長の戦い⑦〜夢で終わった「信長による」高野山無血武装解除

 信長の天下布武の軌跡は、よく見れば歪である。
その最も良い例は、1575年の越前一向一揆の殲滅から1578年の上杉謙信の死まで、信長の勢力が全く拡大していないことである。
武田信玄が生きており、浅井・朝倉が存続していた頃なら、勢力が広がらないのもわかる。しかしこの時期は、長篠で武田軍団に壊滅的な打撃を与え、浅井・朝倉を滅ぼし、信長が安土城の建設を始めた時期なのである。この時期、信長の勢力に隣接した、信長に対抗できる大名は上杉謙信しかいない。
まるで上杉謙信一人のために、信長の勢力拡張が完全に阻まれているかのような印象だが、本当だろうか?この時期に信長は安土城を建設し、自らが戦場に出ることはほとんどなくなるが、自身が兵を率いて天下を平定するよりも、自らが天下人であるという印象を世間に与える方が重要であるかのようである。それは天下布武の事業より重要なことだったのだろうか?そして上杉謙信が死んでから本能寺までの4 年間で、信長の勢力は約2倍になる。
歪な例は他にもある。
例えば天正9年(1581年)に「天正伊賀の乱」とも呼ばれる伊賀平定戦が行われているが、このいくさは本能寺の変の前年である。そして伊賀といえば、安土の目と鼻の先なのである。
伊賀は小さな国だし、伊賀国内はさらに小さな勢力郡に分立している。平定するのに障害などないのである。勢力拡大するためには、できるだけ小さいところから順に潰していくのが順当である。伊賀のような国を、信長が死の前年まで手をつけずにいたのは理解に苦しむ。
伊賀平定戦の前年、次男の信雄が伊賀を攻めて失敗している。信雄が独断でやったことで、信長は信雄に折檻状を送っている。内容は信雄の兄の信忠が荒木村重有岡城を攻めているのに、お前はそれに参加せずに何をやっているのかというものである。
信忠のやっていることが天下の大事で信雄の伊賀攻めは私事だというのである。
こんなことを言って、翌年には信雄を総大将にして伊賀平定をやっているのだから説得力がないのだが、さらにその翌年にやった甲州平定による武田を滅ぼしたやり方を見ると、こういうことなのだろう。
信長は既に天下を支配しており、ところどころに天下を支配する信長に「まつろわぬ者達」がいる。その者達は時勢を理解しておらず、信長に従おうとしないが、信長はその者達が時勢を理解して従う時を待っている。しかし待っても従わないならば大軍をもって一気に滅ぼす。
https://sakamotoakirax.hatenablog.com/entry/2022/05/03/211548?_ga=2.201523153.1739893514.1643458955-131981009.1625566099
で、信長が「政権」を作ったことについて述べたが、信長は「政権」の主という一段上の立場に立って、他の戦国大名より高い視点で天下の計略を行っていた。
長篠で武田の軍団を壊滅させてから7年間も武田領に手をつけなかったのは、武田が徹底的に弱るのを待っており、また甲州兵の精強さを恐れていたとして、信長の戦略の複雑さの一例としてよく指摘される。
しかし純軍事的には、浅井を滅ぼした時のように、連年武田領に兵を入れて領土を切り取っていった方が、武田を早く滅ぼすことができた。また甲州兵は精強だが、その強さは決して織田軍の損耗を恐れるほどのものではなかった。
そして「まつろわぬ者達」が時勢を理解する時間は与えるが、時間を与えて従わなければ、伊賀平定のように徹底的に攻める。伊賀平定に於いて、ウイキペディアでは3万人が虐殺されたとあるが本当だろうか?越前一向一揆の虐殺に匹敵するのだが。
甲州征伐では多くの者の臣従を認めて、虐殺などはほとんど行われていないが、それは政治的な事情で、伊賀平定のケースが基本的な「まつろわぬ者達」に対するスタイルだろう。

信長の天下布武が歪なのは、信長が死ぬまで、紀州を平定していないことである。
信長が紀州に攻め入ったことはある。1577年のことで、この紀州攻めは信長の戦いの中で最も締まりのないもので、一本道で難所のところを、くじ引きで三手に分け、山谷構わず進んだとある。こういう場合、難所を受け持つ志願者が出るか、総大将の信長が持ち場を決めるのだが、くじ引きとは士気の低下が著しい。こんなことはこれまでの信長軍にはなかった。
紀州攻めの最終目標は雑賀衆だが、最終的に鈴木孫一ら七人が連署で信長に誓紙を出し、信長が本願寺を見たん攻めない限り信長に忠誠を誓うと述べたのを受け入れて終わった。この後鈴木孫一本願寺に助勢している。雑賀攻めについては成果がなかったと言っていい。
なぜ紀州攻めがこんな気の抜けた遠征になったのかはよくわからないが、紀州については伊勢方面から切り取っていくこともできたはずである。紀州の全てでなくても、部分的に紀州を攻め切り取ってばその分信長の勢力の増大となる。しかしそういうことを信長はしていない。伊賀や武田のように、長年放置して攻める時に一気に攻めていく。これはもう戦略ではなく政略である。

信長は最後まで紀州を平定しなかったが、再度紀州を攻めたことはあると言われている。
信長公記』には記載されていないが、江戸時代に書かれた『高野春秋』という書に記されている。1581年のことで、織田軍は13万7000という軍勢で高野山を攻めたという。
信長にとっての機内の敵はあらかた片付いている時期だが、こんな大軍は動かしていないだろう。それでもかなり小規模な戦いはあったのではないかという意見が学会の大勢のようである。
私は、信長のよる高野山攻めはなかったと思う。
一級資料の『信長公記』にしても、信長の全てが書かれている訳ではない。それでも著者の太田牛一は、信長の意図を牛一なりに理解して信長の人生を書き記している。そして『信長公記」は信長の全ては書かれていないが、合戦については比較的詳しく書いている。戦国時代だから当然だろう。
信長が軍を率いた合戦ばかりでなく、家臣が行った戦いも書いている。それでも家臣の戦いを全て詳細に書いている訳ではないが、合戦があってその端緒も経過も書いていないということはない。戦いの大筋は書いているのである。
そして信長の高野山攻めについての記述はないが、信長が高野山と対立した経緯の記述はある。高野山荒木村重の残党を匿っていたため、信長はその残党信長1、2名を呼び出そうとしたが、高野山はその使いの10人ほどを討ってしまった。その報復として、信長は高野聖を数百人捕まえて安土に集めて殺した。
ここまで記述して高野山との合戦があったなら、牛一はそれを記しただろう。信長の意図が高野山との争いにあると牛一は考えていたのだから。
柴田勝家上杉謙信が戦った手取川の戦いでは、信長は参陣していないが、上杉側の資料では信長は密かに合戦の場にいたとある。
織田軍が敗走した際、謙信は信長の逃げ足の速さを褒め称えたとあるが、戦国時代は日本史で例外的に、逃げることの重要性が高かった時代である。戦国のリアリズムの結晶だが、自軍の逃げ足の速さを評価しても臆病者の誹りを受けたと思われかねないから、敵の逃げ足の速さを評価することで将士への戒めとしたのだろう。そのために現場にいなかった信長が参陣したことになってしまった。
信長公記』に高野山との戦いの記憶がないのに他の資料にあるのも、手取川の戦いに関する上杉側の資料と同じような理由だろう。高野山側が織田軍相手に勇敢に戦ったとしたいために、本来なかった戦いがでっち上げられた。
この戦いは信長の三男の信孝を総大将にして進められたが、信孝が四国平定の総大将に抜擢されたため、高野山攻めは中止されたという。紀州平定より四国平定の方が優先順位が高かったかのような話で、にわかには信じ難い。
また高野山攻めが実際にあったとしても、兵を引いて四国平定を行ったということは、信長にとって高野山、ひいては紀州平定は四国平定より優先順位が低かった。というより後回しにすべきことだった、ということである。

ここでこの記事のテーマを述べよう。それは信長と高野山との争いがどのように推移しただろうかという「IF」を語ることである。
歴史上は秀吉が高野山を無血で武装解除している。
ならば信長ならばどうしただろうか?延暦寺の焼き討ちのように、高野山も焼き討ちしただろうか?
可能性はあるように思える。伊賀平定の場合のように、「まつろわぬ者達」に苛烈であるのは、信長のやり方のひとつである。
しかしまだ結論を出すのは早い。延暦寺は京のすぐ北東にあり、ここに浅井・朝倉が入り込むと、京まで止める手立てがない。戦略的に延暦寺を敵のままにはしておけなかったのである。
それに私は、延暦寺の焼き討ちは宗教勢力への開幕戦だと思っている。宗教勢力に対する信長の目指すところは全て同じで、政教分離武装解除、そして信長が打ち立てた政権の統制下に服することである。
目的を達成すれば、手段は必ずしも過激である必要はない。
信長が焼き討ちした寺は他に大阪の槇尾寺や甲斐の恵林寺などがあるが、延暦寺ほど権威のある寺ではない。
大きな寺としては最大の強敵である石山本願寺があるが、本願寺は勅命講和で法主顕如を退去させている。
信長の戦い方は多彩である。本願寺兵糧攻めにしたが、毛利の水軍により九鬼水軍が撃破され、本願寺に兵糧を運び込まれるという事態が起こった。
そこで信長は九鬼義隆に大船6艘、黒船1艘を建造させた。
この船が鉄張船だとよく言われているが、『信長公記』には鉄船とは書かれていない。鉄船だと書かれているのは多聞院英俊の『多聞院日記』である。私は多聞院英俊は信長のプロパガンダを担当していたと思っている。伝聞が伝わるうちに大船が鉄船に変わったという可能性もあるが、多聞院英俊が鉄船だと誇張して伝えることで、信長の機嫌を取ろうとしていた。
信長の機嫌を取っていたの理由だが、当時大和国は多聞院英俊も属する、興福寺筒井順慶が治めていた。
しかし大和国を治めるライバルとして、松永久秀がいたのである。当時松永は大和国の担当から外されていたが、同時代に延暦寺を焼いた男と、東大寺を焼いた男がいたのである。興福寺としては、信長の機嫌を取らざるを得なかった。
とにかく本願寺の完全包囲に成功し、兵糧攻めを行ったが、本願寺に兵糧はまだ大量に残っていた。
本願寺を勅命講和で開城させたことを、秋山駿は「一個人に宗教が降伏するなどということは有り得ない」、「宗教の目的と戦争(武力)の目的とを、分離せよ、その混同は許されぬ」と見て、本願寺を降伏させないために朝廷の斡旋が必要だったと見る。
卓見である。しかしまた思うのは、本願寺が宗教勢力なだけでなく、権門だから降伏させることができなかったのではないかということである。

信長の本願寺との戦いは、門徒に対しては多く虐殺という手段を用い、それでいて法主顕如がいる石山本願寺無血開城させるという複雑な方法を採っている。
確かに門徒は降伏させていない。長島一向一揆では偽って降伏を受け入れておいて、開城して出てきた門徒に鉄砲を浴びせるというひどいことまでしている。
本願寺の上と下で、扱いが違うのである。その理由は本願寺が権門だからである。
権門と言っても、この時代、日本の全ての勢力は権門である。しかし下位の権門はよく戦争を行う。そして上位の権門同士の争いは流血を好まない。
https://sakamotoakirax.hatenablog.com/entry/2022/05/03/211548?_ga=2.7486706.1739893514.1643458955-131981009.1625566099
で、その時の最大の権門が他の権門の上に立ち、日本を一元的に支配することについて述べたが、その支配の過程で流血沙汰が起こることは少ない。
流血沙汰の代わりに、マウンティングが行われる。
このマウンティングは陰湿なもので、上皇後宮に忍び込み、他人の妻妾を次々と自らの側室にした足利義満に代表される精神攻撃の形を取りがちである。
信長は本願寺が開城した後、本願寺包囲の司令官だった佐久間信盛織田家から追放している。
信盛は本願寺包囲の際、特に工夫をせず策を立てることをしなかったとして追放の理由としている。
しかし本願寺包囲は、信盛のやり方で良かったのである。本願寺の兵糧が尽き、飢えて降伏するということはあってはならなかった。時々兵糧が運び込まれるくらい、本願寺が時々外部と連絡が取れたりするくらい、緩い包囲で良かったのである。つまり本願寺包囲は兵糧攻めという物理的な包囲は主体ではなく、あくまで精神攻撃が主体である。
そして佐久間信盛を追放したということは、今後本願寺包囲と同じ手段を宗教勢力に対して取らないということである。
本願寺包囲と同じ方法を取らない、ならばやはり延暦寺の焼き討ちのようなやり方が主体になるのではないかという考えもできる。
しかし、権門同士の戦いとして見れば、焼き討ちという物理的な手段は望ましくない。
焼き討ちという手段を取っても、その政権が永続する可能性は低い。東大寺はかつて平重衡によって焼き討ちに遭い、松永久秀によってまた焼かれた。平氏も松永も、その後は長く続かなかった。
信長は比叡山を焼き討ちしてその後も勢力を拡張したが、安国寺恵瓊から「信長之代、五年、三年は持たるべく候。明年辺は公家などに成さるべく候かと見及び申候。左候て後、高ころびに、あおのけに転ばれ候ずると見え申候」と評され、信長の政権は短命に終わると見られていた。それでいてなお、高野山の焼き討ちをするだろうか?安土宗論は焼き討ちなどを回避するために行われたものである。

畿内とその周辺で、信長に従わない宗教勢力は、この時期は高野山くらいである。他の信長の支配の外にあるは神社や寺は格はそんなに高くない。高野山を焼き討ちしても、その後高野山クラスとの戦いが連続する訳ではない。
以上のことを考慮して、高野山の焼き討ちの可能性を完全に否定できないながらも、信長は秀吉と同様、無血での高野山武装解除を目指したのではないかというのが私の見解である。
その鍵が数百人に及ぶ高野聖の殺害である。当時高野山の僧兵は36000人いたと言われている。さすがに誇張があると私は思っているが、少なくともその半分の兵力はいたとしても、当時の高野山の荘園の石高は19万石である。1万石で250人を動員できるとして、4750人の兵しか動員できない計算となる。
高野山に36000人の半分の18000人の兵力があったなら、その維持費用は高野聖勧進によって賄われていたのだろう。信長が高野聖を殺害したことによって、資金の流入が滞ることになる。
一種の兵糧攻めのようだが、あくまで精神攻撃、権門同士の争いによるマウンティングである。しかも単なる横暴ではない。高野聖の殺害は先に高野山側が信長の使者を討ったという理由があった。信長の残虐行為に理由のないものはない。信長は足利義満のように、他人の妻を横取りするような横暴はしなかったのである。

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