海音寺潮五郎という作家は司馬遼太郎の師匠のような人だが、海音寺の作品に『平将門』がある。
『平将門』の登場人物に貴子という姫が登場する。貴子は皇族だが、親の官位が低いために貧しく、荒れ果てた屋敷に住んでいた。
京で宮仕えをしていた将門と恋仲になるが、将門の従兄弟の平貞盛が横恋慕し、貴子に言い寄って将門から奪い取る。しかし貞盛が田舎に帰ると、貴子は生活ができなくなり遊女に身を落とす。
遊女として日を送るうちに、一度田舎に帰った将門が再び上洛して貴子に会い、落籍されて将門と結ばれるが、いくさで将門の館が襲われた時に命を落とす。
略奪愛を私は否定しない。たとえそこに真の愛がなかったとしても。
否定しても何の意味もない。それは全て自然の成り行きだからである。否定して略奪愛がなくなる訳ではなく、ただそこに真の愛が芽生える可能性は低いと思うだけである。
『五等分の花嫁』は、五つ子のうちの真のヒロインは五人の中でもっとも目立たない四葉である。四葉は主人公が小学生の時に一度会って、その時は母親の名前の零奈を名乗っていたが、これは運命の女性を示唆するものである。他の魅力的な女性でなく、より目立たない女性にフォーカスして男がその女性と結ばれ、その女性を幸せにすることをメッセージとして送っている。
また奥浩哉の『GIGANT』は、単にAV女優だけでなく、恋愛遍歴豊富でそのため自分を見失った女性を救えというメッセージを読者に送っている。
海音寺潮五郎の『平将門』の平貞盛のように、女性が本当に愛すべき男を忘れさせ、女性に自分を見失わせることを目的として女性に言い寄る者がいる。『テラフォーマーズ』ではこういう男を「スニーカーズ」という。
しかしそれもひとつの恋愛の形であり、真実の愛と区別のつくものではない。ただ男が、また女性がそれを真実の愛と思うだけであり、また力において同等のものである。
真実の愛と区別がつかなくとも、真実の愛とそうでないものは確かにある。しかしそれでも真実の愛だけが女性の傷ついた心を癒やし、 自分を取り戻し幸福を求める道を歩ませることができる。
女性を幸福にするのは愛しかないのである。
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