アレクサンダー大王
マケドニア国王。ペルシア遠征に向かい、世界初の騎兵の機動力を活かした包囲殲滅作戦を行い勝利に勝利を重ねた。
非常に勇敢で、策略的なところも少ない人物。ガウガメラの戦いでは夜襲をかけるべきだという意見に対し、「私は勝利を盗まない」と言って翌日は遅めに起きてペルシア軍が夜襲を警戒して疲れ切っているところを叩いて勝利した。正々堂々もここまでくれば策略を越えてしまう。
わずか10年でペルシア帝国を乗っ取って大帝国を作ってしまったのだから大したもの。
インドにまで到達し、インドでアレクサンダーの道案内をしたのが後にマウリヤ朝を興すチャンドラグプタだという言い伝えもある。
しかしここで兵士が動かなくなり、やむなく引き返すことに。帰路の途中で熱病にかかって死んだ。33歳。出征以後、故郷のマケドニアに帰ることは一度もなかった。
征服した各地にアレクサンドリアという、自分の名前を冠した街を建設した。
兵士と苦難を共にし、遠征の帰りの砂漠で水が不足した時、兵士が1杯の水を差し出すと、「私は兵士と共に渇きに苦しむ方を選ぶ」と言ってその水を捨てた。
ギリシャ人とペルシア人の融合をはかり、ギリシャ人とペルシア人の合同結婚式を行ったりした。
アレクサンダーの死後、帝国は部下達によって分割された。
カエサル
古代ローマの軍人、政治家。
カエサルの遠征は、アドベンチャーの連続だというしかない。
アレシアの戦いではアレシアの町を包囲しているところを全ガリア軍に包囲されたが、カエサルは町側と包囲網側の両方に壁を作り、その壁の中に籠城して勝利した。この作戦を検討しても、なお勝てるかどうかわからないというのが私の結論である。
スペインに遠征した時は長雨で川が増水して渡れなくなり、食料にも不足したが、堀を掘ってそこに水を流し込み、騎兵を並べて川の水をせき止めて兵士に川を渡らせ、町を占拠して逆に敵を兵糧攻めにしたりした。
ポンペイウスと戦った時には冬の荒れたアドリア海を渡り、部下のアントニウスが援軍を送ろうとしたが逆風で送れず、なんとか海を渡ったらポンペイウス軍を挟んだ向かい側に到着し、敵の目をかいくぐって合流するという一幕もあった。
ドゥラキウム包囲戦では数で劣るカエサル軍がポンペイウス軍を包囲するという戦略的失敗を冒した後、一転してポンペイウスをファルサルスの野に誘い込み、ポンペイウスの騎兵の運用を止めて逆に包囲して勝利するという奇跡を起こした。
その後終身独裁官となり事実上の帝政を創立。ローマの属州にローマ市民権を与え、医者と教師にローマ市民権を与え、元老院の定数を増やして属州の有力者を議員にするなど、民族の壁を取り払う政策を取った。しかしカエサルが王になるのを恐れたブルータス達に暗殺された。
カティリナ陰謀事件ではカエサルが手紙を読んでいたのを政敵の小カトーに見られて疑われたので手紙を見せると、それはカエサルの愛人で小カトーの姉のセルウィリアからの手紙で、議場は爆笑に包まれた。
どんな敵にも勝ち、言論でも非常な雄弁家で、政敵がカエサル相手ではコメディアンになってしまうくらいだが、カエサルが生きていても、革新的な政策は停滞することになっただろう。政治は力学でもあるのだから。
ティムール
モンゴル人で、ティムール帝国の創始者。
モンゴル帝国の西半分を統一した軍事的天才。
これだけの業績を成し遂げた者は他にはチンギス・ハンしかいない。
チンギス・ハンのモンゴル軍は世界最強の軍隊で、当時としては核兵器に等しかった。いわばティムールは「核戦争」を勝ち抜いて第帝国を作ったのだからすごい。ティムールの伝記は『ジャハル・ナーメ(勝利の書)』という。ティムールはサマルカンドに政権を打ち立ててから一度も負けたことがなかった。
しかしチンギス・ハンの子孫でなかったためハンになることができず、ハンの娘婿となりキュレゲン(ハンの婿)を称した。『三国志』の曹操が征服王になったようなものかと思いきや、ティムールの方がハンを使っている時もあって、ティムールがハンを推戴しなければならないのはそんなに気にならなかったようだ。
最後にモンゴルを駆逐した明の征服に向かう途中で病死した。相手は永楽帝。明でも軍事的な功績の高い皇帝だが、ティムールなら病気でなければ勝てたかもしれない。
後にティムールの子孫のバーブルは、インドでムガル帝国を築いた。
ウズベキスタンではティムールを英雄として崇めているが、ティムール帝国を滅ぼしたのはウズベク人である。
しかしティムール朝をウィキペディアで見せてくれと、最大版図と一時的な征服地域というのがあって、征服はしたが支配がおろそかになってるんじゃないかという気がしてくる…。
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