坂本晶の「人の言うことを聞くべからず」

「水瓶座の女」の著者坂本晶が、書評をはじめ、書きたいことを書きたいように書いていきます。サブブログ「人の言うことを聞くべからず」+では古代史、神話中心にやってます。 NOTEでもブログやってます。「坂本晶の『後悔するべからず』 https://note.com/sakamotoakiraxyz他にyoutubeで「坂本晶のチャンネル」やってます。

太閤検地と楽市楽座、関所の廃止はセットのもの

ちょっと前にマイナンバーカードと保険証の紐付けが話題になったけど、今回はこういう行政的な改革の話を歴史の中から。

 

豊臣秀吉楽市楽座と関所の廃止を全国的に進めた。

信長も秀吉も楽市楽座と関所の廃止は商業者から運上(税金)を取るためだと思われているが、実際にはそんなに簡単に徴税はできない。

戦国時代、大名は基本、商工業を直接には把握していない。

商工業者から運上を取るにしても、従来の座を経由するのが一番楽である。こうすると大名は規制に加担することになり、関所も残り、抜本的な改革ができなくなる。

信長や秀吉が堺の会合衆と呼ばれる商人を直接に支配下に置くことで、商人への支配をより強めることもできるが、この方式も商人を把握しているのは商人である。

結局、政府が国勢調査をして商人を直接把握しない限り、正確の徴税を行うことができない。

そこで検地だが、検地は土地台帳に過ぎず、商工業者を把握したものではない。

秀吉の時代には、商人の支配は豪商を通じた間接統治が限界だった。座があった時代は闇商人は取り締まられていたが、楽市楽座の後は闇商人が横行しただろう。

 

ここで太閤検地を見てみよう。

はるか昔、大和時代大宝律令では、一反は360坪と定められていた。一反は人間が1年に食べる米を生産できる土地の単位であり、一坪は人間が1日に食べる米を生産できる土地の単位である。

この一反から生産された米の量が一石である。一石は10斗、1斗は10升、1升は10合である。

つまり一反から1000合の米が生産されることになる。1合で一回分の食事として、大体1年分の計算が合うことになる。

ところが太閤検地では、一反を300坪とし、さらに農地を上田・中田・下田の3等級に分けた。

そして下田で一石1斗、中田で一石3斗、上田で一石5斗を生産すると定めた。上田・中田・下田が全国に等分にあると仮定した場合、実に1.5倍の増税である。

この増税に農民が耐えられたのかといえば、耐えられるようにしたのが楽市楽座と関所の廃止なのである。

とにかく関所の数が多い。淀川筋に「河上諸関」と呼ばれる多数の関所があったが、長禄元年(1457年)にその数は本関96、新関300余という膨大な数だった。

一条兼良の子で、興福寺の尋尊大僧正が大和から美濃まで酒肴三荷を運ばせた時の収支決算表があり、それによると酒肴自体の費用が一貫690文、運送費が一貫466文なのに、18ヶ所で払った関銭の合計が一貫496文である。

座に所属している商人はフリーパスである。その代わり座に運上を収めなければならない。

この運上と関銭が廃止されれば、約1.5倍の年貢の増税が可能になるのである。

 

戦国から安土桃山時代にかけて、武士の生活は質素だった。

上杉家の家臣で、おそらく侍大将以上だったと思うが、食事は毎日米と塩汁で、5のつく日に焼き魚を食べるだけだった。

黒田官兵衛のエピソードで、ある時家臣が瓜を向いていると、「皮を厚く向け」と言った。

「それでは実が少なくなります」と家臣が言うと、「台所で飯を食う者は惣菜もない。瓜の皮があれば漬物にでもするだろう」と官兵衛は言った。

白米を食べるようになったのは江戸時代の江戸に住む者達からだから、副食物がなくても玄米で生活していける。

藤堂高虎は家康に鯛のお頭付きを振る舞われてそのことを家臣に自慢したが、江戸時代の町人からは「鯛のお頭付きなんて珍しくないのに」と笑われている。

室町時代から商品経済が活性化していたのは事実である。

それでいて、楽市楽座、関所の廃止が成されても、支配階級の武士はこの程度の生活しかできなかった。本格的な商品経済の成熟は江戸時代になってからである。農民に至っては、時給自足に毛が生えた程度だったと思っていい。

何しろ安土桃山時代までは、貨幣がなかった。

外貨はあった。明銭が中国から入って流通しており、特に永楽通宝が信用されていた。しかし流通量に限りがあり、欠銭や私鋳銭などのいわゆる鐚銭が横行しており、貨幣価値の変動が激しかった。

戦国時代の風景として、よく茶店で茶や酒を飲んだりして、風流だと思うが、実は茶店があって旅籠がないのが戦国時代である。

茶店なら農作業の片手間にできるが、宿泊専門の施設は農作業の片手間ではできない。旅籠を経営できるようになるには、通貨の流通が不可欠だった。

秀吉は天正大判や小判を作ったが、大判小判では小取引ができない。秀吉は貫高制から石高制に改めて、米をもって貨幣の代わりとしたが、米でできる取引には限界がある。

このように考えると、楽市楽座や関所の廃止による商品経済の発達で、商品の主な購入者は商人や公家、そして庄屋などであって、主に年貢の徴税を請け負う庄屋が自分達に納める分を減免したりして、増税分の調整を行ったのだろう。

農民にもメリットがあって、兵農分離以後は戦争に出なくてよくなった。こうして増税は定着したのだろう。

 

秀吉は関白になることで、検地や楽市楽座、関所の廃止を実施した。

平清盛以降、征夷大将軍と並んで人臣で天下を支配した太政大臣が、権門勢家、つまり分権体制を象徴していたのに対し、関白は律令制への復帰を意味するものと秀吉は捉えたのかもしれない。

もっとも権門勢家の世になってからは、官職は有名無実である。

しかし政治はイマジネーションである。真実は藤原摂関政治律令制を崩していったのだが、摂関政治の時代はまだ律令制が機能していた。秀吉が関白になることは律令的な国家体制の構築するという宣言だった考えられる。

そして秀吉が朝鮮出兵したのは、多分に虚構的だが統一国家を作ったという自信から出たのだとも考えられる。それは秀吉だけでなく、日本人全体がということである。

明治維新統一国家を作った日本も海外に威を奮った。日本が海外に押し出すには、統一国家が必要だったのではないかというのが私の考えである。豊臣政権より強固だった徳川幕府も、海外には出ていない(島津氏の琉球侵攻や松前氏の蝦夷地支配を除く)。権門勢家の世では海外に押し出す意欲を日本人は持たず、統一国家ができて海外雄飛ができるようになるのではと最近私は考えている。

とは言っても、江戸幕府が対外戦争をしなかったのは別の理由で説明が付くし、海外出兵をした例が歴史上3回しかない(もう1つは大和時代白村江の戦い)ので、完全立証は不可能なのだが…。

 

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